| その後教職を辞し、1937年秋大阪タイガースに入団した。 |
| これは、田中が入団する前年に正捕手を務めた小川年安が退団していたこともあり、同じ日系アメリカ人だった若林忠志投手が強く勧誘したことと、日米関係の悪化に伴い、教員を続けるには日本国籍を捨てなくてはならなくなり(カイザーはアメリカと日本の二重国籍であった)、それに広島県出身の母親母親は広島県、父親は山口県の出身(『山際淳司スポーツ・ノンフィクション傑作集成異邦人たちの天覧試合』文藝春秋、1995年、P132)。 |
| が強く反対したため、教員を続けられなくなったことがあったといわれている(しかし、カイザーは1945年から占領軍の軍属として働き、その際に日本国籍の破棄を求められ、日本国籍を捨てている)。 |
| 松木謙治郎は交際中の女性との結婚を母親から反対されたため、日本での結婚を考えていたことが来日の理由だと記している松木謙治郎『タイガースの生いたち』恒文社、1973年、P187-188。 |
| 松木は「株に手を出して作った借金の決済のために来日した」という若林忠志の証言も紹介しているが、これについては「人柄から判断して口実だったと考えられる」と記している。 |
| 東京巨人軍も関心を示したが、田中が眼鏡をかけていたため、眼鏡の捕手はいらないという理由で契約はしなかった。 |
| 入団直後に四番捕手として試合に出場し、その後、7年間にわたってタイガースの正捕手としてプレーした。 |
| 優れたインサイドワークで戦前のチームを支えた。 |
| この間、1937年秋から1938年春にかけてのリーグ2連覇と年度優勝に大きく貢献し、日本一の捕手の座についた。 |
| ドイツ語で皇帝を「カイザー」と言うことから、キング・オブ・キャッチャーと呼ばれる代わりに、カイザー田中と自ら名乗った。 |
| 愛称とは対照的に温厚な性格だったが、当時はその意味が一般的には知られておらず、カイザー田中が本名だと思い込んでいたファンも多かったという。 |
| なお、「カイザー」のあだ名は田中がハワイ大学在学中にドイツ贔屓の演説をしたから付けられたという(「カイザー」はドイツ皇帝の名称、および最後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の名称「カイゼル」の英語の呼び方)。 |
| 1945年終戦直前に徴用されて樺太、札幌で約半年間、アメリカのラジオ短波放送傍受の任につく『山際淳司スポーツ・ノンフィクション傑作集成』P148-149。 |
| 当時、日本よりも技術面で進んでいたハワイの第一線でプレーしていたこともあり、インサイドワークなどでは他を圧倒していた。 |
| さらに、盗塁阻止の技術に加えて、戦時中の選手が不足した時期には投手を務めたほどの強肩を持ち、盗塁はほとんど許さなかった。 |
| 打撃面でも好成績を残し、特に当時球界を代表するエースピッチャーであった沢村栄治に対しては無類の強さを誇った。 |
| 松木によると320匁(1.2kg)の重いバットを短く持ち、沢村の高めの直球を打ち返したという。 |
| 同時期に門前眞佐人が控え捕手として在籍しており、阪神の2枚看板として知られた。 |
| 現在のオールスターゲームにあたる東西対抗戦には田中が5度、門前が3度出場し、タイガースの捕手が出場しなかった年は存在しない。 |
| 1944年途中、軍に召集されて退団するとそのまま引退した。 |
| 上記の通り、当時でも珍しい「眼鏡をかけた捕手」であった。 |
| 捕手として申し分ない成績を残しているが、日本のプロ野球界ではその事実は十分に記憶されず、「眼鏡をかけた捕手は大成しない」という俗説が長く語られることになった。 |
| 1958年から1959年まで阪神の監督を務め、小山正明、村山実の投手2本柱や、鎌田実、吉田義男、三宅秀史の鉄壁の内野陣などを育成して、1960年代の2度の優勝の基礎を作った。 |
| 有名な天覧試合のとき阪神監督を務めたのも田中で、村山の話では「戦時中、祖国アメリカの為に戦った日系二世が、日本の象徴・天皇陛下の前で指揮官として戦う」という事で一番興奮していたそうである。 |
| その後、1961年から1964年まで大毎・東京のコーチ、二軍監督を歴任した。 |
| 1983年4月29日の天皇誕生日(当時)に日本テレビで放送の天覧試合を題材にした特番「天皇のホームラン」(当時同局アナウンサーの徳光和夫司会)では村山実、長嶋茂雄と共にスタジオゲストとして出演(“カイザー田中”名義)、久々に公の場に姿を見せた。 |
| 1985年のセ・リーグ開幕直前の4月10日、78歳で死去。 |