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南原繁(なんばらしげる、1889年(明治22年)9月5日-1974年(昭和49年)5月19日)は日本の政治学者。東京帝国大学の総長を務めた。東京大学名誉教授。 |
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井上毅
日本の武士、官僚、政治家である。子爵。法制局長官、文部大臣などを歴任する。 |
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プロフィール
- 田中耕太郎とは
- 経歴
- 人物
- 学説
- 栄典
- 法学・法哲学
- 随筆
- 紀行文
- 参考文献
田中耕太郎(たなかこうたろう、1890年(明治23年)10月25日-1974年(昭和49年)3月1日)は、日本の法学者、法哲学者。東京帝国大学大学 法学部長、第1次吉田内閣文部大臣、第2代最高裁判所長官、国際司法裁判所判事、文化 勲章受章者。日本国憲法施行後、皇族と内閣総理大臣経験者を除き、唯一の大勲位菊花大綬章受章者であり、さらに生前に勲一等旭日桐花大綬章と文化 勲章を受勲したのは田中と 横田喜三郎のみである。(ただし新叙勲制度が始まってからは 井深大は生前に文化 勲章と没後ではあるが勲 ...
経歴
| 裁判官・検察官田中秀夫の長男として鹿児島県鹿児島市に生まれる。 |
| 父の出身地は佐賀県杵島郡北方村(現:武雄市)。 |
| 高等小学校2年次に岡山中学入学。 |
| 次いで父の赴任に従って新潟中学を経て、福岡県立中学修猷館(後の修猷館高校)卒業。 |
| 第一高等学校と海軍兵学校の両方に合格し、父の勧めで第一高等学校へ進学。 |
| 卒業後、東京帝国大学法科大学法律学科に進学。 |
| 在学中の1914年(大正3年)には高等文官試験に合格している。 |
| 1915年(大正4年)、東大を首席で卒業し、恩賜の銀時計を授かる。 |
| その後、内務省に勤務するが、1年半で退官。 |
| 1917年(大正6年)に東京帝国大学助教授となる。 |
| この頃、修猷館・一高・東大の先輩である塚本虎二の紹介で、無教会主義キリスト教の内村鑑三の門下生となっている。 |
| 欧米留学後、1923年(大正12年)に東京帝国大学教授に就任、商法講座を担当した。 |
| 1924年(大正13年)、商法講座の前任者であった松本烝治の娘である峰子と結婚し、峰子の影響によりカトリック信仰の真理性を確信するようになり、1926年(大正15年)4月に岩下壮一神父を代父として、上智大学初代学長ヘルマン・ホフマン師より受洗している。 |
| 田中はカトリックへの接近にともなって、それまで必要悪とみなしていた法や国家に積極的な意味を見出して研究に意欲を燃やし、そこから商法学における画期的な「商的色彩論」および大著『世界法の理論』をはじめとする豊かな成果が生み出された。 |
| 1929年(昭和4年)、法学博士の学位を授与される。 |
| 1937年(昭和12年)、東京帝国大学法学部長に就任する。 |
| 1941年(昭和16年)5月、日本学士院会員に選定される。 |
| 1945年10月には文部省学校教育局長に転ずる。 |
| 1946年5月に第1次吉田内閣で文部大臣として入閣。 |
| 文相として日本国憲法に署名。 |
| 6月に貴族院議員に就任。 |
| 1947年に参議院選挙に立候補し、第6位で当選。 |
| 緑風会に属し、緑風会綱領の草案を作成。 |
| その後も文相として教育基本法制定に尽力した。 |
| 1950年に参議院議員を辞職して、最高裁判所長官に就任。 |
| 閣僚経験者が最高裁判所裁判官になった唯一の例である最高裁判所裁判官就任後に閣僚に就任した例は高辻正己が1973年から1980年まで最高裁判所裁判官に在任し、1988年に法務大臣に就任した例がある。 |
| 長官在任期間は3889日で歴代1位。 |
| 最高裁長官時代の田中の発言として有名なものとして、後に「世紀の冤罪」として世間を賑わせた八海事件の際に、マスコミが検察側や判決に対して展開した批判や、弁護士の正木ひろしが著書『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』で述べた批判に対しての「雑音に惑わされるな」という発言や、松川事件の下級審判決を「木を見て森を見ざるもの」という発言などがある。 |
| 最高裁判事に思想検事系列の池田克が起用されていたように、「治安維持の一翼」を積極的に担ってゆく方針の下、「公安事件」には厳しい判断を下していった『思想検事』(荻野富士夫、岩波新書、2000年9月)P194、P201。 |
| 砂川事件で政府の跳躍上告を受け入れ、一審破棄・合憲(統治行為論を採用)の判決を下すが、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世と外務大臣藤山愛一郎両名による“内密の話し合い”と称した、日米同盟に配慮し優先案件として扱わせるなどの圧力があった事が2008年4月に機密解除となった公文書に記されている |
| 1961年から1970年にかけて、国際司法裁判所判事として活躍した。 |
| 5つの事件と1つの勧告的意見に関わり、2つの個別的意見と2つの反対意見を残した。 |
| 特に、1966年の「南西アフリカ事件」(第二段階)判決に付けた長文の反対意見は、有名であり、非常に権威のあるものとして、今日でもしばしば引用される。 |
| 1974年、聖母病院において死去。 |
人物
| 妻の峰子は聖公会からカトリックに改宗しており、この妻の影響を受けて、無教会主義キリスト教からカトリックに改宗している。 |
| 以後、カトリックの立場からの反共産主義を唱える。 |
| なお、大学時代、「お月さまの妖精」と自ら呼んだ女性に恋いこがれたエピソードもある。 |
| 実弟に、飯守重任(元鹿児島地方裁判所・家庭裁判所所長)がいる。 |
| 第二次世界大戦末期には、南原繁、高木八尺らと東京帝大の知米派教授グループによる対米終戦交渉、カトリック信者としての人脈を生かしてのローマ教皇庁を通じた対外和平工作にも関与した。 |
| 敗戦まで16年獄中にいた日本共産党幹部の志賀義雄が一高の同窓生であることもあって、食料や本などの差し入れを続け、戦時中は軍部にとって要注意人物とされた。 |
| しかし、最高裁判所長官就任後に、「田中長官、共産主義の仮面を痛撃『目的は憲法の否定』」と報じられるなど、田中自身は戦前も戦後も、一貫して反共主義者であった。 |
| また、1957年8月19日の、皇太子明仁親王(現在の天皇)と正田美智子(現在の皇后)とのテニスコートでの出会いは、田中耕太郎がカトリック人脈である小泉信三、吉田茂らと共に演出したとされており、田中もその場に立ち会っている。 |
| 松本烝治門下であり、門下生に鈴木竹雄、西原寛一など日本を代表する商法学者がいる。 |
学説
| 専門は、商法学であり、教育基本法をはじめとする各種立法にも参加したが、他方、トミズムに立脚した法哲学者としても広く知られ、『世界法の理論』全三巻(1932年-1934年)においては、法哲学・国際私法・法統一に関する論を展開した。 |
| 商法学者として研究を始めた彼は、手形上の法律関係が、証券に結合された金銭支払いを目的とする抽象的債権が転転流通する性質から、売買等の通常の契約関係と異なることや、その強行法規性、技術法的性質、世界統一的性質を基礎づけたことで知られている。 |
| 商取引の国際性・世界性に着目し、商法という実定法研究から、名著『世界法の理論』(朝日賞受賞)にいたるような法哲学研究にまで領域を広げていった。 |
| 実質的意義の商法について「商的色彩論」を提唱したことでも有名。 |
栄典
| 1960年11月3日、文化勲章受章。 |
| 1964年4月29日、勲一等旭日大綬章受章。 |
| 1970年4月29日、勲一等旭日桐花大綬章受章。 |
| 1974年3月1日、叙従二位。 |
| 大勲位菊花大綬章を没後叙勲。 |
法学・法哲学
| 『法と宗教と社会生活』、(改造社、1927年)。 |
| 『世界法の理論(全3巻)』、(岩波書店、1932-1934年)。 |
| 『会社法概論』、(岩波書店、1953年)。 |
| 『法律学概論』、(学生社、1953年)。 |
| 『教育基本法の理論』、(有斐閣、1961年)。 |
| 『田中耕太郎著作集(全10巻)』、(春秋社、1954-1966年)。 |
| 新青出版で復刻(1998年)。 |
| 『続世界法の理論(上・下)』、(有斐閣、1972年)。 |
随筆
| 『現代生活の論理』、(春秋社、1957年)。 |
| 『私の履歴書』、(春秋社、1961年)。 |
| 『象牙の塔から』、(春秋社、1962年)。 |
紀行文
| 『ラテン・アメリカ紀行』、(岩波書店、1942年)。 |
| 『南欧芸術紀行』、(文藝春秋新社、1952年)。 |
| 『カナダの土・アメリカの友』、(朝日新聞社、1954年)。 |
参考文献
| 山本祐司『最高裁物語(上・下)』(日本評論社、1994年、講談社+α文庫、1997年)。 |
| 芝崎厚士「田中耕太郎の国際文化論 『文化的帝国主義批判』の思想と行動」『国際関係論研究』第13号(1999年3月)。 |
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1947年
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参議院選挙に立候補し、第6位で当選 |
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1950年
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参議院議員を辞職して、最高裁判所長官に就任 |
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投票数
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