| 田中茂は、2006年の後期、そして2007年前半においてオートレース界で最も勢いのあった選手である。 |
| 幼少の頃、祖父に連れられて行った飯塚オートレース場でオートレースに出会った田中はその時からオートレースに魅せられてしまった。 |
| 「オートレースの選手になりたい」ではなく、「オートレースの選手になる」という決意の下、身長制限に引っかからないように筋トレを弛まず行い、高校は選手になる日のために機械科を選ぶなど、その決意は並々ならぬものであった。 |
| 高校二年生の時に第24期選手候補生選抜試験を受験したが、この時は不合格に終わった。 |
| その後、高校を卒業すると共に溶接工場に就職した。 |
| これも選手になってからの事を考えての選択だった。 |
| だが、その就職直後に行われた第25期選手候補生選抜試験でも不合格となってしまった。 |
| しかし田中の決意は揺るがず、三度目となった第26期選手候補生選抜試験に見事合格したのである。 |
| 余談だが、第26期の選抜試験には通常では考えられない数の受験者が殺到した。 |
| これは、1995年にSMAPからオートレース選手への転向を表明し世間を賑わせた森且行の影響が大きい。 |
| 1999年7月、養成所を卒業した田中は自身の郷里でもある飯塚オートレース場に配属された。 |
| ここで田中は「飯塚の鉄人」桝崎正7期、飯塚オートレース場所属。 |
| 2002年引退の弟子となる。 |
| 当時、26期にはデビュー直後から才能を開花させた逸材が多く存在した。 |
| 勝ち上がり権を獲得した最初の節で、2世選手である木村武之きむらたけし。 |
| 浜松オートレース場所属)、竹中修二(飯塚オートレース場所属)がいきなり優勝を飾った。 |
| その翌年には、久門徹(飯塚オートレース場所属)がスーパースター王座決定戦に出場するなど、綺羅星の如き活躍を見せ、話題を独占していた。 |
| 一方、その頃の田中は桝崎の過酷な指導を受けながら同期の活躍を眺める日々を送っていた。 |
| 桝崎の指導は苛烈を極めていた。 |
| 普通、新人選手が自分の競走者を整備する時は師匠なり兄弟子なりが手伝ってやるものなのだが、桝崎は田中の整備を手伝うどころか、田中が自分で自分の競走車を整備することすら禁止し、自分の乗る1級車の整備を手伝わせていた。 |
| たとえレースで1着を獲っても桝崎は眉一つ動かさずに問題点を指摘し、時には「ケツバット」をすることもあったと言う。 |
| 一見するとこれらの指導は単なる扱きに思われるが、これらは全て選手として大成するための基礎を叩き込むためのものであった。 |
| 実際、桝崎の弟子の多くは遅咲きの選手が多い。 |
| その最も顕著な例が岡部聡(19期、山陽オートレース場所属)であろう。 |
| こうした指導の結果、田中は若手随一の整備技術と、どんな条件の走路にも合わせられる技量を獲得し、師匠である桝崎をして「選手としてのセンスは浦田浦田信輔、23期、飯塚オートレース場所属。 |
| 田中の兄弟子にあたる以上のものがある」と言わしめる程の選手へと成長した。 |
| そして、2004年に待望のGIタイトルを獲得すると、瞬く間に全国区の活躍を見せるようになり、2006年にはSG競走を連覇、グレードレース4連覇という快挙を達成したのである。 |
| これまでに制覇したグレードレースはその大半が機力を生かした展開だったが、田中自身はかつての片平巧のような追い上げるレース展開を好んでおり、また目標としている。 |
| 当初は「スター性に欠ける」という評価が一般的であったが、現在ではマイクパフォーマンスがある種の名物となっている。 |
| 表彰式のあるレースでは開口一番に「どんなもんじゃい!!」と叫ぶのがお約束となっている。 |
| ただ、2006年10月25日に開催されたGII第17回若獅子杯争奪戦の表彰式では、2006年10月13日に不慮の事故で殉職した同期の橋本和美を想い、「和やったぞ!!」と絶叫した。 |
| その後のSG第21回スーパースター王座決定戦の優勝選手インタビューでは、レースが行われたのがクリスマスイブであったことから「メリークリスマス!!」と叫んでいた。 |
| また、2006年11月5日に浜松オートレース場で開催され、見事優勝を果たしたSG第38回日本選手権オートレースのウイニング・ランでは橋本の遺影を胸に抱いて競走路を走り、表彰式でもその遺影を放す事はなかった。 |
| その強さとキャラクターなどから老若男女を問わず多くのファンが存在する。 |
| 2008年元日に放送されたTBS「スポーツマンナンバー1決定戦」にオートレース界を代表して出場。 |
| 結果は、芳しくなかったが、随所でオートレース界ナンバー1の片鱗を魅せてくれた。 |