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つながりの強いひと
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田淵幸一
東京都豊島区出身の元プロ野球選手(捕手、内野手)、プロ野球指導者(監督、コーチ)、野球解説者、阪神タイガースOB会会長(第6代)。株式会社タブチエンタ... |
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御園生崇男
山口県防府市出身のプロ野球選手(投手)・プロ野球指導者・プロ野球監督。昭和初期から中期(1930年代後半-1950年代前半)にかけて活躍した。右投げ右打ち。 |
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荒木俊馬
熊本県出身の男性天文学者。京都産業大学初代総長。熊本県立中学済々黌(現・熊本県立済々黌高等学校)、広島高等師範学校を経て京都帝国大学に進学した。京... |
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田淵行男
山岳写真家。高山蝶研究家。代表作に、「高山蝶」,「わが山旅」、「ヒメギフチョウ」、「山の時刻」、「山の紋章雪形」、「安曇野の蝶」、「山のアルバム」... |
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本多静雄
愛知県西加茂郡(現:豊田市)出身の実業家であり陶芸研究家である。 |
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石川栄耀
石川栄耀(いしかわひであき、1893年9月7日-1955年9月25日)は日本の都市計画家。都市における盛り場研究の第一人者で新宿歌舞伎町の生みの親および命名者。... |
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後藤新平
後藤新平(ごとうしんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日)-昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家である。伯爵(明治39年... |
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佐藤正俊
佐藤正俊 研究テーマ 「新機能物質の開発研究」 関連情報 研究紹介 研究成果 個人情報(学会役員、各種委員会など社会活動) 論文リスト 学歴 1969年... |
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丹下健三
丹下健三(たんげけんぞう、1913年(大正2年)9月4日-2005年(平成17年)3月22日)は日本の建築家、都市計画家。「世界のタンゲ」と言われ、日本人建築家とし... |
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高山英華
高山英華(たかやまえいか 1910年4月20日-1999年7月23日)は日本の都市計画家、建築家。東京大学工学部名誉教授。近代都市計画学の創始者。建築系の都市計画... |
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蘇我入鹿
飛鳥時代の政治家。大臣として大和朝廷の有力者であったが、大化の改新の前夜乙巳の変において討たれ、その後、蘇我氏が凋落するきっかけとなった。 |
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坪田譲治
フジテレビジョン編成制作局編成業務センター部長。同局元テレビプロデューサー。第二制作部・バラエティ制作センター時代から荒井昭博班に所属していた。 |
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高野素十
日本の俳人、医学博士。山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに名前の頭文字を取って『ホトトギス』の四Sと称された。本名は高野与巳(よしみ)。 |
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今和次郎
民俗学研究者。民家、服装研究などで業績があり、「考現学」を提唱し、建築学、住居生活や意匠研究などでも活躍した。東京美術学校出身の画家でもあった。弟... |
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津田左右吉
20世紀前半の日本史学者である。『日本書紀』『古事記』を近代的な史料批判の観点から批判・否定したことで知られる。従三位勲一等瑞宝章。 |
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梅原龍三郎
梅原 龍三郎 (うめはらりゅうざぶろう)
明治21年生まれ 出身地京都府 本名は良三郎
明治36年旧制府立二中を病の為中退、洋画を志し浅井忠の聖護院洋画... |
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田中耕太郎
日本の法学者、法哲学者。東京帝国大学大学法学部長、第1次吉田内閣文部大臣、第2代最高裁判所長官、国際司法裁判所判事、文化勲章受章者。日本国憲法施行後... |
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正宗白鳥
明治~昭和期の小説家、劇作家、文学評論家。本名は正宗忠夫。 |
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朝永振一郎
日本の物理学者。くりこみ理論の手法を発明して量子電磁力学の発展に寄与した功績によってノーベル物理学賞を受賞した。 |
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プロフィール
田淵寿郎(たぶちじゅろう、明治23年(1890年)3月3日-昭和49年(1974年)7月10日)は大正、昭和期の日本の土木工学者。都市計画推進者、近代的都市づくりの先駆者である。
来歴・人物
| 広島県佐伯郡大竹村(現・大竹市)出身。 |
| 中学から兄のいた大分県杵築に住む。 |
| 回漕問屋の十番目の子に生まれたので「十郎」となずけようとしたらしいが、語呂が悪いということで「寿郎」とした。 |
| 回漕問屋の息子として育ったので本人は将来は船乗りになりたかったらしいが、海軍兵学校の試験の身体検査で心肺機能に異常があることがわかり、したがって身体に厳しい商船学校もあきらめ、造船科に進もうとしたが、今度は学校で所属していたボート部の練習が忙しく、造船科に進むための必修科目である化学実験を受講しなかったため、また当時造船業は不況で、兄などのすすめもあって受講条件を科していない土木工学科へ進むことになる。 |
| 第五高等学校(現・熊本大学)から東京帝国大学工学部で土木工学を専攻。 |
| 卒業後、内務省入りし山形県工手、京都府技手などを経て内務技監大阪土木出張所工務部長となった。 |
| 雄物川、紀ノ川改修工事、琵琶湖の利水計画、和歌山港築港、淀川低水路計画などに腕を振るい国内各地の主要河川事業に功績を残した。 |
| また昭和13年(1938年)、日中戦争下の大陸に渡り上海や南京などの戦災地の復興を指揮。 |
| 昭和14年(1939年)名古屋土木出張所長として木曽三川の治水、今渡ダム調整などの河川工事に携わったのち昭和17年(1942年)、再び中国に渡り黄河大洪水の復旧、さらに華北政府技監として北京西郊の新都市計画の立案を担当した。 |
| 昭和20年(1945年)5月、この時既に55歳、引退を決意し敗戦直前に帰国、疎開先の三重県にいた。 |
| しかし旧知の仲であった佐藤正俊名古屋市長に同市の戦災復興の一大事業を懇願され引き受ける。 |
| 佐藤市長からのその才覚に対する絶大な信頼により同年10月、名古屋市技監に就任、すべての建設関係業務を掌握。 |
| (昭和23年(1948年)助役)。 |
| 尾張という土地柄を自分の目で確かめると共に道路と公園の予定地にするために地主を説得して回る。 |
| 名古屋を大文化産業都市に再構築するという大陸的な俯瞰と強い信念のもとひたすら道路を造り続ける。 |
| 田淵の計画は幅員の広い道路を何本も東西南北に通し、市内各所に有った279の墓所をまとめて一カ所に集中させる というもので、当時の交通事情(車が主要な手段ではないなどといった)を考えると大変大胆なものであった。 |
| 今は名古屋の名物ともなっている100m道路は、田淵の都市計画構想の代名詞だが当初は猛烈な反対に遭った。 |
| 更に政府、墓所からも100m道路予定地の上にあった名古屋刑務所、墓所の移転に対して大変な抵抗があったがねばり強く交渉を続け、市民から「大ぶろしき」と揶揄されながらも鉄の信念を貫いて遂にこれを実現、全市の20%を超える土地を道路・公園用地にする。 |
| これらは後年、日本の大都市で最もモータリゼーションに適した交通インフラの礎となった。 |
| その後、土地区画整理、地下鉄計画、鉄道立体化、名古屋港湾整備などを手がけ、戦後の名古屋市の都市計画は日本でのひとつのモデルとして高い評価を受けた。 |
| また、1950年の愛知国体は、学生時代のボート仲間だった東龍太郎とのやりとりで決まったものという重網伯明『土木技師・田淵寿郎の生涯』あるむ、2010年、135、136頁--->。 |
| 信仰にも篤く、和歌山県紀ノ川改修工事の際に川底にあったクスノキの古木で観音像を彫ってもらい、いつも手元に置いて毎日観音経を読んだ回数を日記に記していたという。 |
| また戦災で焼失した名古屋城の天守閣を心から惜しみ再建に尽力、「尾張名古屋は城でもつ」ということわざを復活させる。 |
| また、東海と北陸を結ばなくては中部日本の底力は出ない、と力説、「名古屋港とは、名古屋と富山の東岩瀬を合わせたものだ」というユニークな名古屋富山港論を展開した。 |
| 昭和33年(1958年)、名古屋城再建基礎工事を最後に市助役を辞任。 |
| その後も愛知県都市計画審議会委員などの要職を歴任し、これらの功績により昭和33年(1958年)中日文化賞、昭和36年(1961年)朝日賞を受賞。 |
| 昭和41年(1966年)、歴代名古屋市長を差し置いて名古屋の「名誉市民第一号」に選ばれた。 |
| なお、田淵の偉業は、名古屋市内小中学校の道徳の授業で使用される教科書にも記載されている。 |
参考文献
| 重網伯明『土木技師・田淵寿郎の生涯』あるむ、2010年。 |
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田淵寿郎さんについてのひとこと紹介
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