| 日本独自の甲冑形式が成立した時代であるのと同時に、武家政権(武家社会)が成立し、武士の時代をむかえた時期である。 |
| 戦の形式の変化に伴い、中世甲冑の様式も時代ごとに変化していった(これは、鎧、兜の方も参照)。 |
| 兜の鍬形や竜頭、眉庇や吹返の装飾など、工芸品として耐えうる技巧が甲冑師によりこなされた。 |
| 縅(おどし)の染め文様一つにしても、鮮やかで、多様である。 |
| 縅は文様によって名があり、一例として、『平家物語』では、源義経が、紫裾濃(むらさきすそご)縅の鎧を着用した事が記述されている。 |
| 札の堅固なものは、「札よき鎧」といわれ、札幅の広いものは、太い縅緒を用いるので、「大荒目」とも呼ばれた。 |
| 横浜市都筑区南山田町所在の「西ノ谷遺跡」からは、10世紀から12世紀にかけての鍛冶工房跡が見つかっており、破片を含めた12枚の小札(11世紀後半から12世紀前半)が出土した。 |
| この発見により、それまで京都周辺で製作されていたと考えられていた大鎧の小札が東国でも製作されていた事が明らかとなった。 |
| 工房跡の増築具合から11世紀前半以降に小札の製作が始まったと見られ、科学分析の結果から、鉄の原料は砂鉄ではなく、鉄鉱石であった事が分かり、製鋼原料として持ち込まれたものが使用されたと考えられている(この鍛冶工房では小札は製作されたが、大鎧は製作されなかったものと見られている)。 |
| これらの研究結果からも、中世極初期の段階から東国にも甲冑師が活動していた事をうかがわせる。 |
| 大鎧の小札は2千枚前後も必要とされた週刊朝日百科1『日本の歴史中世1-①源氏と平氏東と西』2002年4-22より。 |
| 重ねを増やす為に弦走の下に腹当を着用する武士もおり、鎧によっては、逆板(鎧背部)の上の総角に別の縅を結ぶ二重構造のものもあり、大鎧は角度によっては多層構造である。 |
| 大鎧の形成には、当時の武士の戦法とも関係してくる馬を射殺しないといった大前提に、鎧の重量が重くなり、堅固となっていった。 |
| これは、『源平盛衰記』の老兵の昔を振り返るセリフの中にあり、昔は馬を射て落としたところを討ち取る戦法がなかったと語っている。 |
| また、『平家物語』巻五において、東国武士の斎藤実盛は平維盛に対し、馬を倒す様な事は(東国では)しないと説明している(弓が強力すぎて逆にその必要がないと)。 |
| 12世紀に馬を射殺する戦法が一般化して以降、小札の幅も狭くなっている事から、馬から落とされる事を想定し、歩戦もできる様、軽量化(動きやすさ)が求められたと見られる。 |
| 『吾妻鏡』には、弓矢で大袖を貫通している記述があり、その防御思想は、矢が着刺する事を前提に、鎧本体へのダメージを軽減する意味があった。 |
| 大鎧の小札は時代ごとに大きさが異なり、分類される。 |
| 平安時代後期の物の多くは札幅が3センチから5センチであり、鎌倉時代となると札幅が狭くなる傾向にある津野仁『小札の製作について-武具生産の一齣-』2002年財団法人とちぎ生涯学習文化財団埋蔵文化財センター。 |
| 茨城県石岡市所在の「鹿の子C遺跡」の調査から、概略の大きさに切断された鉄板を鍛冶工房で製作し、甲冑の仕立て場に搬入され、ここで穿孔と磨きの工程が行われたと判断されている。 |
| その後、綴じや漆塗り錆を防ぐ為に漆を焼き付ける工程がある。 |
| 金属に漆を塗るには焼き付けをしなければいけず、この技術は後に漆器の方にも伝わった。 |
| また、漆は酸性である為、金属に塗る前に防錆処理を行ってから塗られる。 |
| などの工程もこの場所で行われたと考えられている(津野仁は甲冑の仕立て工程を行う工人が、穿孔など小札製作工程の作業を一貫して行っていたと捉えている)。 |
| 平安時代初期(古代)の官衙では、民間に対する武具生産の規制から官衙の工房内での協業により武具を生産していたが、平安後期の武士団の武器生産では、その規制もない為、農具をも生産する鍛冶工房でも小札製作を行う場合があった。 |
| 小札は素材として、仕立てる側(中世初期の甲冑師か)に流通し、異業種間での協業によって武具が生産される様に変化したと津野仁は指摘している。 |
| 『庭訓往来』(室町時代初期成立)には、地方名産品の一つとして、「武蔵鎧」が記されており、備前刀や甲斐駒などが記されている中、西国でも鎧は武蔵と認知されていた事が分かる。 |
| この時代、各地方の特産物、特に金属加工面において、鍛冶が、鎌倉(相模)・粟田口(山城)・長船(備前)だったのに対し、鋳物は、出雲・武蔵・下野であり瀧音能之『一目でわかる日本史ハンドブック』1996年ISBN4-89085-031-7p.147、南北朝期から室町期の前後に、武蔵職人が一定の評価を受けていた事は確かである。 |
| 室町時代となると、札幅は1.5センチ程度にまで小さくなる『鉢形城開城-北条氏邦とその時代-』鉢形城歴史館2004年p.43(平安時代後期の小札の半分以下にまで幅が狭くなる)。 |
| 戦国時代へ移ると、戦国大名達は、家内工業を基本にして成り立っていた鎌倉・室町時代の武家や大名とは異なり、職人集団を特殊技能者として、武家同様に扱い、土地を与え、重く用いた鈴木旭著『学校で教えない教科書面白いほどよくわかる戦国史』日本文芸社2004年ISBN4-537-25195-6p.98。 |
| 先例として、北条早雲であり、弓矢・刀・甲冑職人を重用し、掌握している天文7年(1538年)『北条氏伊豆国中革作(かわつくり)定書』には、北条氏直属の革作職人が他氏の被官になる事を禁止する条が記されている。 |
| 戦国期では、依然、諸々の職人の技術水準は京を中心とする近畿圏の方が上であったが、そうした職人を束ねる権力者の出現は東国の方が早かった。 |
| 大鎧は豪華であり、生産にも時間を要したが、それは騎兵全盛の時代ゆえであり、それゆえに戦国時代では主流外となった。 |
| 戦国時代に主流となった当世具足は、全体でも8キロ以上から9キロ以上の仕立てのものが多く、10キロ以下であり、軽量化による実用化と生産性の面で需要を獲得している。 |
| また、火縄銃の出現により鎧は革製から鉄製が主流となる(これに対し、兜は革の方が加工しやすいので、変わり兜などで用いられ続けた)。 |
| 厳密には、室町時代末期(戦国時代)、17代明珍信家が「日本最高の甲冑師」として評された事で、一族は有名となった。 |
| 戦国時代の到来によって、刀鍛冶と同様、甲冑師も需要に合わせ、様々な形態の鎧兜を製作した。 |