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つながりの強いひと
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遊佐長教
戦国時代の武将。河内畠山氏の重臣で河内守護代。若江城主。父は遊佐河内守順盛。室は十河一存の娘など。子に三好長慶正室、遊佐信教など。 |
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畠山政国
畠山政国(はたけやままさくに、生年不詳-天文19年(1550年?)は戦国時代の武将。紀伊・河内・越中の守護大名、戦国大名。畠山尾州家の出身。畠山尚順の子で... |
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畠山尚順
戦国時代の守護大名。室町幕府紀伊・河内・越中守護。足利氏の支流畠山氏出身で畠山氏の一派畠山尾州家の当主。畠山政長の子。稙長、長経、政国、晴熙の父。... |
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木沢長政
戦国時代の武将。河内、山城南部の守護代。官位は従五位下左京亮。河内飯盛山城城主、大和信貴山城城主。木沢右近、木沢又八郎は一族と思われる。 |
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尚順
最後の琉球国王・尚泰王の四男。男爵で貴族院議員。琉球新報、沖縄銀行の創立者。 |
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畠山高政
戦国時代の紀伊・河内の守護大名・戦国大名。畠山尾州家(畠山政長流)の当主。 |
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畠山政長
室町時代後期から戦国時代前期の武将・守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏の一門畠山氏出身。畠山持富の次男で政久(弥三郎)の弟... |
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畠山義就
室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名である。河内・紀伊・山城・越中守護。足利氏(足利将軍家)の一門にて室町幕府の三管領家の1つである畠山氏出... |
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畠山義英
戦国時代の武将。畠山義豊の嫡子。畠山義就を祖とする畠山総州家4代当主で義就の孫に当たる。子に義堯。通称は次郎、上総介。明応3年(1494年)に8歳で元服。... |
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畠山長経
戦国時代の武将、守護大名。河内守護。足利氏の支流畠山氏出身。畠山尚順の次男で稙長の弟、政国、晴熙の兄。官位は左京大夫。天文3年(1534年)に兄稙長が守... |
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細川高国
戦国時代の武将、大名。室町幕府管領、摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。細川氏庶流である野州家の生まれであったが、本家を追い落として自ら権力を握った... |
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三好長慶
戦国時代の武将。畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津守護代、相伴衆。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の傍系・甲斐源氏・小笠原氏の庶流... |
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細川政元
室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名、管領。足利氏の庶流・細川氏当主。幕臣ながら将軍をしのいで事実上の最高権力者となり、「半将軍」とも呼ば... |
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細川晴元
対立
室町時代末期(戦国時代)の武将・戦国大名。細川氏本家京兆家当主。父は細川澄元、母は清泰院。正室は三条公頼の長女であり、その縁から武田信玄・本願寺法... |
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畠山義総
戦国時代の武将。能登の守護大名・戦国大名。能登畠山氏の第7代当主。能登畠山氏の全盛期を創出した名君として知られる。 |
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畠山義堯
戦国時代の武将、守護大名。河内・山城の守護で室町幕府管領。畠山総州家5代目。大永6年(1526年)、一時的とはいえ室町幕府管領となる。その後、義兄弟でも... |
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覚源
平安時代後期の真言宗の日本の僧。花山天皇の第3皇子。母は不詳だが、一説には平平子(若狭守平祐忠女)とも言われている。法名は覚深とも表記する(『東大寺... |
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畠山昭高
戦国時代の武将、大名。河内下半国及び紀伊守護。畠山政国の3男で高政、政尚の弟。初名は政頼、秋高(なお、「昭高」と名乗ったかどうかについては疑義が呈さ... |
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斎藤義龍
戦国時代の武将。美濃国の戦国大名。斎藤氏の第2代当主。室町幕府相伴衆。 |
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プロフィール
- 畠山稙長とは
- 当時の河内畠山氏の情勢
- 稙長の登場と父との確執
- 義堯、晴元との対立と追放、復権
- 晩年
- 参考
畠山稙長(はたけやまたねなが、永正元年(1504年)-天文14年5月15日(1545年6月23日))は、戦国時代の守護大名。河内・紀伊・越中守護。足利氏の支流畠山氏出身。 畠山尚順の子で長経、政国、晴熙の兄とされる。通称は次郎、別名に稙家。官位は右衛門佐、尾張守。法名は大和寺殿 覚源悟公。
当時の河内畠山氏の情勢
| 河内畠山氏の一流である畠山尾州家(高屋畠山氏)の当主。 |
| 畠山政長の孫にあたる。 |
| 当時の河内畠山氏は政長流の尾州家と畠山義就流の総州家とに分かれ抗争をつづけていた。 |
| 明応の政変で祖父の政長が11代将軍足利義澄を擁立した細川政元らの策略により自殺、父尚順は紀伊に逃れ力を蓄え、数年後に総州家の畠山基家を滅ぼし河内奪回を一時的に果たしたものの、政元が基家の遺児である畠山義英を支持し尚順を追討したため、再び河内を追われ、その後も前将軍足利義材支持の中心人物として、畠山氏が基盤を持つ畿内と北陸において活動を続けた。 |
| 永正元年(1504年)に政元の家臣薬師寺元一の反乱により畿内が動揺すると、尚順と義英とは和睦するも、反乱を鎮めた政元は河内に赤沢朝経を派遣し、尚順と義英は共に追放され、やはり河内復帰はならなかったが、永正4年(1507年)に政元が暗殺されると(永正の錯乱)、その後継をめぐって細川澄元と細川高国が争い、義英と尚順の和睦も破棄され、義英は澄元、尚順は高国の陣営に与した。 |
| やがて周防の大内義興に奉じられた義尹(義材)が上洛し将軍職に復帰(後に義稙と改名)、細川氏の内訌も高国方が勝利するが、尚順もこの上洛を支持し、堺において義尹を出迎えている。 |
| 政治的に優位に立った尚順は永正10年(1513年)に義英を大敗させ、総州家を一時没落に追い込んだ。 |
稙長の登場と父との確執
| 稙長は永正12年(1515年)に元服し、永正14年(1517年)に父の隠居により家督を継承するが、既に永正8年(1511年)に高屋城を父より譲られるなど、その活動は河内や京都において数年前から確認でき、同時期に尚順の活動は越中や紀伊方面に注がれていた形跡があり、家督継承の前から二元的な統治形態を取っていたと考えられている。 |
| 尚順は高国政権の下で守護職を回復し、明応の政変以前の地位を幕府においてある程度取り戻すことに成功したものの、管領は細川高国が任命され、山城守護職も大内義興に握られるなど不満があったため、幕府と関係する畿内での活動には稙長を当たらせ、自身は領国を固め将来の対立に備えるためか、隠居以降は紀伊に在国し活動を続けていた。 |
| 幕府での権力回復になおも執着する尚順の姿勢は、幕府を主宰する管領高国と、戦乱に飽いて幕府との協調を願う畠山家臣団にとって憂慮すべきことであり、尚順を失脚させるためにまだ若年の稙長が利用されたと思われる。 |
| 義興が周防に帰国し、高国と義稙が対立すると、明応の政変以来の義稙の支持者であった尚順は義稙に味方したが、永正17年(1520年)に紀伊を追放され、堺に逃れることになる。 |
| これにより稙長は正式に畠山氏の当主として活動するようになる。 |
| 一方、尚順は翌大永元年(1521年)にかつての宿敵である畠山義英と結び高屋城を攻撃するが敗れ、義稙を奉じ淡路において再起を図るものの果たせぬまま、翌大永2年(1522年)に病没する。 |
| ほぼ同じ時期に総州家においても義英に代わり畠山義堯が当主となり、総州家の勢力と尾州家の尚順派の勢力が結びつくことにより、河内畠山氏の内訌が再発する。 |
| このため越中においては河内畠山氏の影響力が低下し、分家である能登畠山氏に統治を委ねざるを得ない状況になってしまった。 |
義堯、晴元との対立と追放、復権
| 大永2年においては高屋城が焼失するなど、稙長の統治は安泰とはいえなかった。 |
| 稙長の支持者であった細川高国が大永6年(1526年)の桂川原の戦い以降の内紛に悩まされる中、享禄元年(1528年)、稙長の高屋城が反高国派の柳本賢治によって陥落させられ、堺公方政権の下で高屋城は畠山義堯のものとなった。 |
| 享禄4年(1531年)には高国が大物崩れにおいて自刃するなど稙長は苦境に立たされるが、義堯が細川晴元と対立し天文元年(1532年)に自刃に追い込まれると、これを好機とみた稙長は実権の回復をめざし活動を活発化させた。 |
| ところが、晴元は12代将軍足利義晴と和睦し、義堯の元家臣で晴元に寝返っていた木沢長政もまた義晴方に転じ、稙長は実権を回復するため、本願寺との同盟を画策した。 |
| しかし、この稙長の行動はかつての尚順の行動と同様、幕府への反抗と取られかねないものであり、畠山家臣団の反発を受けることになる。 |
| 天文3年(1534年)、河内守護代の遊佐長教は稙長を廃し、弟の長経を擁立するが、長経もまた独自路線を志向することが分かったため廃し(長政に暗殺されたとも)、その弟の政国を擁立し、後に細川晴元や木沢長政と協議し畠山弥九郎に家督を継がせ、政国と総州家当主畠山在氏をその補佐に当たらせている。 |
| 天文10年(1541年)、晴元や長教と仲違いした木沢長政が反乱を起こすと、稙長は長教と和睦し弥九郎、政国、在氏を追放し、高屋城を回復し畠山氏の当主に復帰した。 |
| 孤立した長政は三好長慶と遊佐長教によって討伐され、太平寺の戦いにおいて戦死した。 |
| 長政の勢力の中核はかつての総州家の被官だった国人衆であったため、長政と共に総州家も実質的に滅亡したことになる。 |
| 在氏はその後幕府に帰参したが、もはや尾州家と敵対しうる勢力ではなくなっており、この後の畠山氏の内訌は尾州家内部の争いが中心になることになる。 |
晩年
| 長政の滅亡後、まもなくかつての細川高国の残党の盟主として祭り上げられた細川氏綱が堺で挙兵し、「細川氏綱の乱」と呼ばれる争乱が勃発することになる。 |
| 稙長は氏綱に与力し晴元と敵対するも、強大な軍事力を有する三好長慶を配下に持つ晴元を下すことができないまま、天文14年(1545年)に病没する。 |
| 家督は弟の晴熙が継いだとも、畠山四郎なる人物が継いだともいわれる。 |
| また、家督を能登畠山氏の畠山義続へ譲るよう遺言したため、一時家中が混乱し、稙長の葬儀も行えない状況であったともいう。 |
| 高屋畠山氏の当主であるが、統率力が無く、家臣で守護代の遊佐長教や木沢長政らに当主の座を追われて、紀伊国に逃亡した。 |
| だが、後を継いだ弟の畠山長経が重臣達の内部分裂から暗殺されると、当主の座に復帰している。 |
| 1545年に死んだとき、家督を七尾畠山氏の後継者・畠山義続に譲ろうとしたが、同年に義続の父・畠山義総も没したため、畠山氏の統一はならなかった。 |
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1504年
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政元の家臣薬師寺元一の反乱により畿内が動揺... |
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1513年
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義英を大敗させ、総州家を一時没落に追い込んだ |
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