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つながりの強いひと
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飯田正美
飯田正美(いいだまさみ、1951年1月22日-)は日刊競馬に所属する編集記者。山口県出身、早稲田大学卒。1976年に日刊競馬新聞社に入社。現在は同紙の本紙予想... |
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現在最も競馬中継に出演しており、土曜日の午後は2011年より開始した「BSイレブン競馬中継」のパドック解説を隔週で担当。日曜日はラジオNIKKEI「中央競馬実... |
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ラジオNIKKEIアナウンサー。愛知県出身。愛知県立旭丘高等学校、東京工業大学生命理工学部生命理学科卒業後、1997年入社。2007年2月に同局アナウンサーの舩山... |
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尾崎秀実(おざきほつみ、4月29日-11月7日)は日本の評論家・ジャーナリスト・共産主義者。朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務める。近衛文麿... |
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日本の競馬ジャーナリスト。東京都新宿区早稲田出身。ライトハウスとマネジメント提携。 |
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佐藤泉
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田原成貴(たばらせいき、1959年1月15日-)は日本中央競馬会に所属した騎手、調教師である。島根県鹿足郡柿木村(現在の吉賀町)出身。卓越した騎乗技術と端... |
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小林雅巳(こばやしまさみ、1961年4月24日-)はラジオNIKKEIアナウンサーである。明治大学卒業後の1985年、当時のラジオたんぱに入社。以来中央競馬実況を中... |
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横山典弘(よこやまのりひろ、1968年2月23日-)は日本中央競馬会(JRA)の騎手である。美浦トレーニングセンター所属で現在はフリー。 |
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藤田伸二(ふじたしんじ、1972年2月27日-)は日本中央競馬会(JRA)の騎手。本名は小川伸二(おがわしんじ。デビュー当時の姓は藤田であり改姓後も登録名は藤田... |
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広瀬伸一
元アナウンサー。ラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI)アナウンサーを経て、フリーアナウンサーとして中央競馬の実況を中心に活躍した。 |
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プロフィール
- 白川次郎とは
- 生い立ち~四国時代
- 上京~高校時代
- 学生時代
- 新入社員時代
- 競馬中継転向後
- いよいよダービー実況アナに
- 実況名言集
- 定年退職後
- エピソード
- 主なGI実況履歴
白川次郎(しらかわじろう、1945年11月5日-)は、高知県生まれの元日本短波放送・ラジオたんぱ・ラジオNIKKEIアナウンサーで、コーラルアイランドに所属するフリーアナウンサー。
生い立ち~四国時代
| 1945年11月5日、国鉄・汐留駅で物資輸送の仕事をしていた父の最初の赴任先である高知県で生まれる。 |
| 長姉・道子、兄・通、次姉・紀子に次ぐ4人兄弟の末っ子で、姉や兄の名前にはそれぞれ由来や意味があるにもかかわらず、自分だけ次男だから「次郎」と単純に名付けられた事に随分と抵抗があったという。 |
| 父は高知県・土讃線の後免駅を皮切りに毎年のように転勤したため、彼自身は高知での記憶が全く無く、四国時代の記憶は愛媛県の松山に居た時代で、松山城の城山で竹を切ってチャンバラをしたり、お濠で鮒を釣ったりして過ごしていた出典:『あと100っ!』より。 |
| 学者肌の父は子供達を叱る事はあっても手を出すことは無かったのだが、水戸藩の武士の孫である母は物差しで叩いたりお灸をすえるなど徹底して子供を叱っていた。 |
| その母は家事をする傍ら彼に音読をさせ、声に出して文章を読む習慣をつけた。 |
| この習慣が、のちに彼が就くアナウンサーの仕事に大きく影響する。 |
| それは音読を重ねていくうちに、目で見た活字をすぐ口にするとどうしても次にどんな字が出てくるのか迷いながら読む事になるので、目で見た活字を一度記憶してから読み上げ、その間に目は次の活字を記憶するという技術を習得した。 |
| 後にアナウンサーになった彼は、この技術がアナウンサーの仕事にとって大きな財産になった事を実感する出典:『あと100っ!』より。 |
上京~高校時代
| 小学校に入学する直前の1952年3月末、「子供達には東京で教育を受けさせたい」という父の一念で四国・松山から江東区・大島へ上京。 |
| 新居は竪川・横十間川・小名木川などの運河に囲まれ、台風が来る度に床下浸水するような江東ゼロメートル地帯だった。 |
| 小学校時代の彼はこの下町で、野球・ビー玉・メンコ・ベイゴマなどの一連の遊びを体験した。 |
| 一方、勉学では朗読の習慣が実についていたものの、朗読する文字は読めるのにその文字を書く事が出来ないという『読み』と『書き』の習熟度に著しい差が開いていた。 |
| そのアンバランスを補うために母から毎日漢字の書き取りを課せられてしまい、それが終わらないと遊びに行けなかったという辛い日々が続いた出典:『あと100っ!』より。 |
| 小学校に入学して4カ月後の時点で、朗読は5・6年生の本でも読めるのだが自分の名前が書けず、担任の教諭に不思議がられたという。 |
| 小学校卒業後は地元中学を経て都立高校へ進学する。 |
| 高校時代は柔道に明け暮れ、黒帯を取得するまでに至る。 |
| その一方で放送部にも兼部したり、柔道部のメンバー達とバンドを組んで、司会兼ドラムの担当で文化祭のステージに立つなど充実した日々を過ごす。 |
| 特に、バンドを組んで文化祭に挑んだ事は、「この時が自分の将来の重要なポイントになった出来事かもしれない」と振り返っている。 |
| そして、高校卒業後(1964年)は日本大学芸術学部放送学科へ進学する出典:『あと100っ!』より。 |
学生時代
| 大学へは広告業界を目指しての進学だった。 |
| その理由は、当時続々と開局した民放テレビ局の番組を見ていくと同時に、CMの面白さにも惹かれていて、「こんな面白い世界に参加できたらいいな」と考えた事からだった。 |
| しかし、広告業界を目指していたので専門科目は放送・一般コースを選択したものの、卒論の関係で所属するサークル的な要素の研究室ではアナウンスグループにエントリーしたり、新宿・歌舞伎町にある喫茶店「プリンス」でDJのアルバイトを経験していくうちに、いつしかアナウンサーを目指すようになっていった出典:『あと100っ!』より。 |
| 大学時代の思い出は、他大学のとは違った日大・芸術学部ならではのおもしろい授業もさることながら、今まで見た事もないような個性の強い同級生との出会いなど、高校時代までとは比較にならないほど視野が広くなった事だった。 |
| そして、大学生活も3年が経って4年生の就職活動期に入ると、本来の志望業界であった広告代理店には内定していたが、周りにいるアナウンサー志望の仲間たちが必死で情報を集めているのに感化され、一緒に目の色を変えて放送局の受験情報を集めだした。 |
| それでも、当時から狭き門だったアナウンサー試験は、半ば記念受験のつもりで臨んでいた出典:『あと100っ!』より。 |
| 就職活動で受験できた放送局は日本テレビ、ニッポン放送、札幌テレビ、毎日放送、日本短波放送だった。 |
| 日本テレビは1次試験で終わり、ニッポン放送は最終選考まで残ったが内定には至らなかった。 |
| そして、札幌テレビと毎日放送は東京での1次試験を通過して、それぞれの本社がある札幌と大阪での2次試験を待っていた段階だった頃、日本短波放送の内定通知が来て、1番早く就職が決まった日本短波放送への入社を決意する出典:『あと100っ!』より。 |
| 彼が日本短波放送への入社を決めたのには、もう一つ大きな理由があった。 |
| それは彼が大学生になった年(1964年)の秋に兄が病死してしまい、亡き兄に代わって両親の老後を見るためには、地方局に入社して東京を離れる事が難しい状況になっていたからだった。 |
新入社員時代
| 1968年、日本短波放送(現在の日経ラジオ社)に入社。 |
| 同期は大学時代からの遊び仲間だった松村不二夫。 |
| 当初は農業関係のニュースや市況、気象情報、CM、番組の前後の紹介アナウンスの録音や、大手町の日本経済新聞社の中にあるブースに出向いて定時ニュースの担当などが日勤での業務で、夜勤は旺文社の『大学受験講座』の前後のアナウンスやCM、放送終了前の気象情報、翌朝5時の放送開始アナウンスなどの宿直担当が主な業務だった。 |
| しかし、憧れのアナウンサーとしてのスタートは切ったものの、アナウンサーになる事自体が大きな目的だったため、『こんな番組をやってみたい』とか『このスポーツの実況がしたい』といったその先の目標が無く、アナウンサーになって何がしたいのかを考える事ができなかった。 |
| これは、研修期間を経て実務に入ってからもその答えは見つからず、ただ与えられた仕事をこなしていくだけの日々を送っていた出典:『あと100っ!』より。 |
| 入社2年目の春、スポーツ担当のプロデューサーに後楽園球場へ連れられて「プロ野球ハイライト」(彼が入社した当時、プロ野球中継はすでに終了していた)を手伝うようになる。 |
| スコアシートのつけ方から教わり、後に情報アナウンサーとして出演するようになる。 |
| この現場で野球の実況をしている田島喜男の後ろ姿を見つめながら、『こういうアナウンスがしてみたい』と野球実況に対する憧れを抱き、入社直後から模索し続けてきたアナウンサーになってからの目標をようやく見つける事ができた出典:『あと100っ!』より。 |
| 先輩アナウンサーの後について球場に通い、野球実況の練習を重ねている中、リトルリーグ国内大会決勝戦中継の実況担当に抜擢され、さっそく実況のチャンスが巡ってきた。 |
| しかし、降って湧いたように飛び込んできた実況デビューの話は、まだ実況の形が充分ついてない状態で臨まなければならなかったので、喜びよりも緊張の方が大きかった。 |
| 当日は準決勝戦2試合をバックネット裏の仮設放送席で見た後に決勝戦の実況を行ったのだが、明るい日差しの下で2試合を連続で見たために、いざ実況という時にはバックネットの金網が目に焼き付いてしまい、空を見ても目をつぶっても金網の模様がチラつくという悪いコンディションで臨まなければならなかった。 |
| さらに、体力の配分が出来ずに初回から飛ばしてしまい、体力が続かなくなると集中力が低下して、その影響が実況に現れる。 |
| 3回を過ぎたあたりから選手名やボールカウント、アウトカウントの間違いといったイージーミスが多発し、肩や背中を中心に体が固くなり、声が続かなくなっていった。 |
| そして、試合終了直後は充実感や反省どころではなく、「これでやっと目がつぶれる」といった安堵感だけが残ったほろ苦い実況デビューだった。 |
| その後も、丁寧や教えを受けながら実況デビューの時に出た課題を克服し、最終的にはプロ野球ハイライト用の実況も担当するようになる出典:『あと100っ!』より。 |
競馬中継転向後
| 入社3年目の1971年に「プロ野球ハイライト」が終了。 |
| その頃、先輩である長岡一也から「これから短波放送で生きていこうと思ったら、絶対に競馬をやるべきだ!」と強く勧められて競馬中継の担当に加わる長岡がこれほどまでに競馬班への加入を後押しした背景には、1961年(昭和36年)の入社以来ずっと長岡が一番若手の競馬アナウンサーだったので、早く競馬の後輩アナウンサーが欲しかった事と、白川の持つバリトンの美声は「声が宝物」と言われるくらい声が良くなければいけない競馬アナウンサーには最適であると思ったからだった。 |
| しかし、当時まだ社会的な認知度が低かった競馬に対して好印象を持っていなかった事に加え、競馬実況研修を受けた際のあまりの難しさに「これはとてもできない」と感じてしまったため、競馬中継の仕事に対する姿勢は消極的で、ついには競馬場に向かう電車の中で何度も溜め息をついてしまうくらい嫌いになっていった。 |
| これに業を煮やした大先輩の早坂昇治は、彼に競馬場への出入り禁止を言い渡す。 |
| この一件で奮起した彼は、長岡を通じて早坂に謝罪し、再び競馬中継に携わるようになる。 |
| 実況の方も当時第一線で活躍していた早坂昇治・田島喜男・小林皓正・長岡一也といった先輩達から厳しいチェックを受け、次第に頭角を現すようになる。 |
| そして1972年秋に結婚し、翌1973年には長女が誕生する。 |
| その頃には競馬中継でも実況ローテーションに加わるようになっていった出典:『あと100っ!』より。 |
| 1974年3月31日、初めて重賞競走である第24回ダイヤモンドステークス(勝馬:ゴールドロック)を実況する。 |
| 大阪支社勤務時代は中継・取材と競馬の仕事が中心で、同世代の北野守や藤田直樹の存在も良い刺激となり、この時代が「自分自身にとっていちばん充実し、成長した時期」と壊述している。 |
| なお、大阪へ転勤した1974年の秋には、クラシックレースである第35回菊花賞(勝馬:キタノカチドキ)の実況担当に大抜擢される。 |
| その2年後の1976年春に東京本社に戻る事になるが、その餞別として今度は第36回桜花賞(勝馬:テイタニヤ)を実況している出典:『あと100っ!』より。 |
いよいよダービー実況アナに
| 東京本社へ戻った後、オークスや天皇賞(秋)、有馬記念など大レースの実況を次々と担当。 |
| 以降、2003年(勝馬:ネオユニヴァース)まで通算13回の日本ダービーを実況した。 |
| ちなみに、彼自身の日本ダービー連続実況は、1994年(勝馬:ナリタブライアン)~2000年(勝馬:アグネスフライト)までの連続7回が最長。 |
| メインレースでファンファーレ直後の実況第一声を「お待たせいたしました」と言うのは彼ならではの演出である(必ずではないがよく使っていた)。 |
| また、オグリキャップの引退レースとなった有馬記念(1990年)では「さあ頑張るぞ、オグリキャップ!」というフレーズを残している。 |
| そのほか、彼オリジナルのフレーズである最後の直線での「あと100(m)っ!」は、自身の著書のタイトルになるほど定着している。 |
実況名言集
| 「マティリアルは、マティリアルは、マティリアルはその後のグループでちょっともがいている、ちょっともがいている、青い帽子は後方から4頭目だ!」(1987年 日本ダービー・勝馬、メリーナイス)。 |
| 「さあオグリだ!オグリだ!体半分リード!オグリキャップが先頭ゴールイン!! オグリキャップ日本一の座を獲得!!」(1988年有馬記念・勝馬、オグリキャップ)。 |
| 「赤い帽子がただ一騎!メジロライアンが突っ込んできて現在4番手、坂を登り切りました!!」 「堂々逃げ切った!見事、中野騎手!アイネスフウジンダービー制覇!!」(1990年日本ダービー・勝馬、アイネスフウジン)。 |
| 「さあ頑張るぞ、オグリキャップ!オサイチジョージ、ホワイトストーン、そしてメジロライアン!オグリだ!オグリだ!オグリキャップ!オグリキャップ優勝ゴールイン!! オグリキャップです!ファンの夢をここで実現したオグリキャップ!最後の最後を飾りました堂々の優勝であります!!」(1990年有馬記念・勝馬、オグリキャップ)。 |
| 「あと100(m)!さあトウカイテイオー2冠目前!3馬身、4馬身リード!圧勝です!! トウカイテイオーゴールイン!! 無敗のまま2冠達成したトウカイテイオー!安田隆行騎手!やったとばかりに右ムチを軽くポーンと小手先に入れました!!」(1991年日本ダービー・勝馬、トウカイテイオー)。 |
| 「100(m)を切った!独走に入った!これは強い!とてつもない強さ!! ミホノブルボン!ミホノブルボン!圧勝でゴールイン!!2番手接戦!」(1992年日本ダービー・勝馬、ミホノブルボン)。 |
| 「トウカイテイオーだ!トウカイテイオーだ!1年ぶりの復活ゴールイン!! トウカイテイオーお見事!」(1993年有馬記念・勝馬、トウカイテイオー)。 |
| 「ナリタブライアン圧勝でゴールインです!! 南井克巳騎手41歳!堂々とダービージョッキーの座につきました!!」(1994年日本ダービー・勝馬、ナリタブライアン)。 |
| 「さあ先頭は、完全に抜けたスペシャルウィーク!さあ武豊、これはセーフティーリード!断然強い!セイウンスカイが2番手か?! 外から一気にボールドエンペラーが上がってくる!先頭は、スペシャルウィークゴールイン!! 2番手は3頭でありますが、スペシャルウィーク!ついに武豊騎手、30(歳)を前にダービーを制覇!ガッツポーズ、大きなガッツポーズ武豊!スペシャルウィークやっぱり強かった!!」(1998年日本ダービー・勝馬、スペシャルウィーク)。 |
| 「200(m)を切った!さあ、中を突いてナリタトップロード!渡辺の夢が実るか?大外からアドマイヤベガ、大外からアドマイヤベガ!2頭の一騎打ちになったテイエムオペラオー3番手!アドマイヤベガだ!武(豊)2連勝、ゴールイン!! 史上初めてダービー2連覇武豊騎手!アドマイヤベガ見事な復活劇を見せました!」(1999年日本ダービー・勝馬、アドマイヤベガ)。 |
| 「さあ先頭は、敢然と抜けたエアシャカール!そして、満を持して追い込んだアグネスフライト!エアシャカール、アグネスフライト!3番手の位置には、もう1頭アタラクシア!前は2頭並んだ!さあ河内の夢はどうだ!! 2頭並んだ!アグネスフライト、エアシャカール!」(2000年日本ダービー・勝馬、アグネスフライト)。 |
定年退職後
| 社名がラジオたんぱの時代よりチーフアナウンサーを務め、2005年11月30日にラジオNIKKEIを定年退職。 |
| フリーになった現在もラジオNIKKEIにて「中央競馬実況中継」など、競馬番組を中心に担当している。 |
| また、関東地方の独立UHF放送局で放送されていた、中央競馬ハイライトの土曜日キャスターとしても出演。 |
| 実況の方は2004年の安田記念(勝馬:ツルマルボーイ)を最後にGIの実況を退き、以後はGI開催日以外は人員不足もあって関東主場分のレースを中心に担当していたが、2010年3月28日の中山開催を持ってレース実況からは引退することとなった。 |
| 競馬中継以外では、ラジオNIKKEIが主宰する、各種アナウンサー・キャスターなどの養成講座の講師を担当しており、後輩の育成にも力を入れている。 |
| その講座の一つである「レースアナウンサー養成講座」の受講者からは、中野雷太・舩山陽司(共にラジオNIKKEI)、細渕武揚(RFラジオ日本)、清水久嗣(ニッポン放送)、三浦拓実(NHK)、吉本靖(フリー)、大川充夫・山中寛(共に南関東地方競馬の場内実況を請け負う耳目社所属)、高木大介(テレビ愛知)、米田元気(福島テレビ)といった数多くの競馬実況アナウンサーも輩出しているこのほか、この講座の卒業生からは、清水俊輔(テレビ朝日)、岡村久則(静岡放送)、瀧口俊介(石川テレビ)、水野善公(北海道放送)、梅中悠介(テレビ埼玉)、飯田浩司(ニッポン放送)、二宮淳一・堂前英男(競艇・オートレース実況のオフィス・ケイ・ステーション所属)といった、局アナや公営競技の実況アナウンサーも活躍している。 |
エピソード
| 宿直勤務にすっかり慣れた頃の新人時代、深夜に放送される「大学受験講座」で、先輩達同様に本編・CM・ナレーションを事前収録したが彼が入社した当時の宿直勤務での「大学受験講座」は、本編・CM以外の紹介ナレーションは生放送だった。 |
| しかし、先輩達は1本のテープに本編・CM・ナレーションを全て事前に収録しておき、放送時間には酒を飲んだり麻雀をしたりしていた。 |
| オグリキャップの引退レースとなった1990年の有馬記念では、その年の天皇賞(秋)6着、ジャパンカップ11着と惨敗が続いたオグリキャップをどう実況するか迷いながらファンファーレを聴いていた。 |
| しかし、3コーナーで中団から上がり、4コーナーで先行集団に取り付いてから、最後の直線に向いてもまだオグリキャップが食い下がっている姿を見て、ここまできたらあと一息!と次第にオグリキャップに感情移入して、「さあ頑張れ、オグリキャップ!」と言いそうになり、頭で思った事を一瞬の間に軌道修正するかのように「さあ頑張るぞ、オグリキャップ!」と叫んだ事で、この名実況が生まれた出典:『あと100っ!』より。 |
| 「現役の競馬実況アナウンサーで一番うまい」(成宮明光・元JRA調教師)と競馬ファン・競馬関係者を問わず高い支持を得ているが、「太宰啓介騎手」を「太宰治騎手」、「サダムブルースカイ」を「サダム・フセイン」と言い間違えたり、「週刊競馬大道場!!」(2008年3月終了)の番組タイトルがうまく言えなかったりとおっちょこちょいな一面もある彼の馬名の言い間違いは、同一のレースに出走している別の馬名とごっちゃになってしまうパターンもある。 |
| 例えば、サニーブライアンとメジロブライトがごっちゃになった「サニーブライト」(1997年・日本ダービー)や、マルブツオペラとテイエムオペラオーがごっちゃになった「マルブツオペラオー」(1999年・日本ダービー)などがある。 |
| 改修前の新潟競馬場で、アナウンス中に小さな黄金虫が口の中に入ってしまい、絶句して5~6秒ほど無音になってしまった事がある出典:『あと100っ!』より。 |
| 「レースアナウンサー養成講座」を開講する話が持ち上がった時、彼をはじめとするアナウンサー陣は反対の立場を取っていた出典:『あと100っ!』よりこれは、あまりにも目的を絞り込んだ講座内容に抵抗があった事。 |
| さらに、スポーツ実況の中でも特に難しいとされている競馬実況のアナウンサーを育成するのに、ラジオたんぱ(当時)ですら最低2年かかるものを、約半年間の講習でそのノウハウが伝えきれるのか不安だった事など、数々の困難が予想されたためだった。 |
| 「ラジオたんぱ(当時)の(競馬)アナウンサーは土・日の競馬の日以外は何をしているのですか?」という質問をよくされ、そのたびに「平日は聴かれていないのか…」と瞬間的に淋しくなるという出典:『あと100っ!』より。 |
主なGI実況履歴
| 皐月賞(1995年、2001年)。 |
| 優駿牝馬(?~1986年、1993年)。 |
| 東京優駿(1987年、1990年~1992年、1994年~2000年、2002年、2003年)。 |
| 天皇賞・秋(?~1987年、1990年、1992年、1993年、2000年)。 |
| 有馬記念(1988年、1990年、1992年、1993年、1995年~1999年、2001年、2002年)など。 |
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1945年
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白川 次郎(しらかわ じろう)は、高知県生ま... |
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1952年
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小学校に入学する直前の末、「子供達には東京... |
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