| 稙宗が伊具郡丸森城に隠居した後も、相馬氏と伊達氏は丸森城と伊具郡周辺領域をめぐって抗争は激化し、1540年代から1590年代までの半世紀にもわたって戦に明け暮れたという。 |
| 天文16年(1547)、黒川城主・蘆名盛舜・盛氏(稙宗婿)父子、須賀川城主・二階堂照行(稙宗婿)、三春城主・田村義顕・隆顕(稙宗婿)父子はそれぞれ領地を接し不和を生じた。 |
| 蘆名氏は晴宗派に転じ、大館城主・岩城重隆(晴宗舅)と結んで、安積口に出陣。 |
| 稙宗派・田村氏と争った。 |
| 盛胤の叔父・堀内近胤の正室は蘆名盛舜の娘であるため、政略結婚上、浜通り北の相馬氏は三春城の田村氏を中通り古くは仙道と呼ばれていた。 |
| の二階堂氏、会津の蘆名氏と挟撃する形勢となった。 |
| 同年、伊達晴宗の長男(親隆)は岩城氏へ養子に入った。 |
| 天文17年(1548)、祖母が田村家出身であった岩城重隆は晴宗派と蘆名氏の勢いに乗り、また白河城主・晴綱(白河結城氏)の権勢を後ろ盾にして相馬領へ侵攻した。 |
| このため相馬氏は岩城氏を警戒する事態となった。 |
| 田村氏は伊達父子の間を調停。 |
| 天文の乱は征夷大将軍・足利義輝の仲裁を承けて、稙宗が晴宗と阿武隈川を挟んで相馬・懸田・亘理寄り(拠り)に位置する丸森城に隠居して晴宗に家督を譲るという形で和睦し終結した。 |
| 一方、関東では後北条氏をはじめ、諸大名が下剋上の時勢に乗り勢力を拡張し、足利将軍家の力も及び難かったため、その後も南陸奥の諸大名と国人領主は奥羽、関東の覇権や自家の命運を懸けて争った。 |
| 同年、嫡男・相馬義胤が生まれた。 |
| 天文18年(1549)、父の顕胤が死去したため家督を継いだ盛胤は、以前からの約束を違えず、妹を田村清顕に嫁がせた。 |
| それに際して、化粧料として標葉郡のうち、南津島・葛尾・岩井沢・古道の四か村を田村氏に譲った記録が残っている。 |
| この頃、盛胤の妻の実家である懸田城の主・懸田俊宗・義宗父子は晴宗の出した和睦の条件「懸田城撤廃」を不服として抵抗を続けていたが、天文22年(1553)にはついに滅亡した。 |
| 永禄3年(1560)年、義胤の正室に伊達稙宗の末女を迎える。 |
| 永禄5年(1562)8月15日、佐竹氏の太田城を攻めんとする。 |
| 佐竹義昭、孫沢に迎え討つ。 |
| ついで義昭・盛胤和睦する。 |
| 『常陸誌料「戦国時代の相馬 平成17年1月22日発行 監修 岡田清一 東北福祉大学教授」』。 |
| 永禄6年(1563)、相馬家重臣の青田顕治・胤治父子や草野直清らが離反。 |
| 盛胤は義胤を初陣させ反乱を鎮圧した。 |
| 奥相茶話記によれば、この頃、相馬家では伊達家に義胤の正室・越河御前(伊達稙宗女)を返したとされる。 |
| 永禄7年(1564)、相馬父子は亘理元宗を援け名取郡北目に出陣。 |
| 粟野宗国を伐つ。 |
| 『相馬の歴史と民俗』岩崎敏夫著。 |
| 永禄8年(1565)6月19日、祖父・伊達稙宗が死去。 |
| 永禄9年(1566)5月、相馬家重臣で標葉氏の一族藤橋胤泰(紀伊胤安)の働きにより、伊具郡小斎城(小佐井、宮城県丸森町小斉)を略奪。 |
| 相馬父子は金津(宮城県角田市)、金山城を攻略した。 |
| 金山城の攻略の時期は岡田清一監修の『戦国時代の相馬』で永禄9年とされているが |
| 永禄10年、晴宗の後継・伊達輝宗に長男・梵天丸が生まれる。 |
| 永禄11年(1568)4月3日、伊達輝宗と伊達郡小島に戦う。 |
| 永禄12年(1569)、盛胤の正室掛田御前が死去。 |
| 元亀元年(1570)4月14日、相馬父子伊具郡丸森城を攻め落とす。 |
| この頃、相馬家臣・室原伊勢が岩城方に寝返り、岩城氏に木戸城、富岡城(楢葉郡)を攻められ、これを奪還されるこのことは『奥相秘鑑』には記されているが、『奥相茶話記』には記されていない(『新編奥相秘鑑』森鎮雄)。 |
| また同年、伊達の宿老逃げ来る『相馬の歴史と民俗』岩崎敏夫による。 |
| 時期的に見て中野宗時のことである。 |
| 天正3年(1575)、盛胤は葛西氏、国分氏、亘理氏などの陸奥国南部の諸将と共に伊達輝宗を攻めるが、諸将は旗色を変えて攻め寄せる気配を見せたため、盛胤は自ら殿軍を務め後退したという。 |
| 総軍で追撃を受ければ、相馬父子の命も危なかったが、敵は追撃してこず、鉄砲も音だけで弾丸も飛んでこなかったという。 |
| 天正4年(1576)、義胤の後室に桃生郡深谷の小野城(桜ヶ森館)主・長江盛景の女を迎えた。 |
| 盛胤は亘理領へ出陣。 |
| 小勢の相馬氏は義胤の活躍で、坂本城代・後藤三河を伐つが、城は落とすまでには至らなかった。 |
| 天正6年(1578)1月、盛胤は家督を嫡男の義胤に譲り隠居した。 |
| その後も各地の城代となっていた子の郷胤や隆胤を補佐にあたるなど、政治的・軍事的活動は継続した。 |
| 隠居後も伊達氏とは一進一退の状況が続いていた。 |
| また『藤葉栄衰記』によれば、同年3月、岩城氏とも戦いを交えている。 |
| 天正11年(1583)、佐竹義重、岩城常隆、田村清顕より和睦の使者が来たがこれに従わず、伊達輝宗・政宗父子と伊具郡金山城・丸森城で戦うが、中村城下に自ら出向いた田村清顕の説得で、丸森城、金山城を返還し、伊達氏との和議が成立した。 |
| しかし、天正12年(1584)の蘆名盛隆の死去、天正13年(1585)の伊達輝宗と畠山義継の死去という有力大名家当主の死去が相次ぐと奥羽の情勢は大きく変化した。 |
| 人取橋の戦いでは蘆名・佐竹連合軍に加わり、佐竹氏を総大将として4倍以上の戦力差で政宗を攻めるが、伊達家臣・鬼庭左月斎の奮戦によって政宗を逃した。 |
| 天正14年(1586)には盛胤の妹婿である田村清顕も死去。 |
| 田村氏の継承問題を皮切りに相馬氏と伊達氏の関係は決裂。 |
| 闘争は激化した。 |
| 同年、相馬氏は豊臣政権より奥羽惣無事令を命ぜられている。 |
| 『相馬家文書(原町市史)』※天正15年(1587)説もある。 |
| 天正16年(1588)、大崎家中の内紛に介入した政宗が敗北すると(大崎合戦)、盛胤・義胤父子は蘆名義広と組んで再び政宗と戦う(郡山合戦)が、決戦には至らず、天正17年(1589)には政宗によって新地城(蓑首城)、駒ヶ嶺城など宇多郡の拠点を奪い取られ、蘆名義広が摺上原の戦いで政宗に敗れると、伊達氏は蘆名氏の版図(福島県の会津地方・中通り地方)を併呑し、相馬氏は一気に滅亡の危機に立たされることになる。 |
| 子の隆胤を失うなど不利を悟った盛胤は家名の存続を考え、伊達氏への服属を小高城の義胤に提案した。 |
| しかし、義胤は自害か討死を主張したため、盛胤は武士の本懐であるとして同調し自身も中村城で切腹することを表明した。 |
| 義胤は政宗が攻めてきたときは防戦せず、旗本に突撃して討死することを望み有志を募った。 |
| 翌日、侍五十人、下々四百三十余人が小高城で妙見水を飲み討死の供として誓約したが、このことを聞き伝えると、領内全土から侍だけでなく、町人、百姓、陪従までが誓約したため総勢二千人余になったという。 |
| しかし、翌年、豊臣秀吉の小田原の役が始まったため、伊達氏の侵攻も中断された結果、相馬氏は秀吉に所領を安堵され、近世大名として生き延びることができた。 |
| 慶長5年(1600)、相馬氏は関ヶ原の戦いを中立。 |
| 翌年(1601)、相馬氏の帰趨が定まらない中、盛胤は没した。 |