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つながりの強いひと
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青木文教
ダライ・ラマ13世の書簡やチベットから請来したコレクションが所蔵されている。 |
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能海寛
チベットを探検した真宗大谷派の僧、仏教学者。 |
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多田等観
多田等観(ただとうかん、1890年(明治23年)7月1日-1967年(昭和42年)2月18日)は僧侶、仏教学者。明治末から大正にかけてチベットに入り、チベット仏教を... |
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河口慧海
黄檗宗の僧侶。仏教学者にして探検家。幼名を定治郎という。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。中国や日本に伝承されている漢語に音訳された仏典に疑問をお... |
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神武天皇
日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇である(古事記、日本書紀による)。日本書紀によると、在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日?... |
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押川春浪
押川春浪(おしかわしゅんろう、1876年(明治9年)3月21日-1914年(大正3年)11月16日)は日本の作家、SF作家、冒険小説家。本名は方存(まさあり)。 |
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根津一
日本の教育者・陸軍軍人。陸軍少佐。幼名は伝次郎、のちに一、山洲と号した。軍人として日清戦争に従軍する一方、上海の日清貿易研究所の運営にあたり、また... |
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乃木希典
日本の武士(長府藩士)、軍人。陸軍大将従二位・勲一等・功一級・伯爵。第10代学習院院長。贈正二位(1916年〔大正5年〕)。家紋は「市松四つ目結い」。幼名... |
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川島浪速
日本の大陸浪人。満蒙独立運動の先駆者として知られる。 |
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横田順彌
作家(SF作家)・明治文化史研究家。愛称は「ヨコジュン」。「横田順弥」と表記されることもある。真木じゅん名義による著書もある。 |
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押川方義
日本人のキリスト教宗教家、教育家。東北学院及び宮城学院の創立者。長男は、冒険小説家の草分け押川春浪(本名、方存)。二男は、プロ野球の生みの親である... |
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九里徳泰
アミューズ所属の冒険家。中央大学助教授。現在は富山県立大学工学部環境工学科教授。神奈川県出身。 |
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寺本婉雅
愛知県海東郡出身で、日本人として3番目にチベットに入った東本願寺の僧である。 |
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木村肥佐生
木村肥佐生 『チベット潜行十年』 から 2009年07月11日 | 抜き書き もと毎日新聞社、1958年7月刊。
彼〔ガヤツェレン。カンパ人〕の話によると、この辺の者... |
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西川一三
日本の情報部員。日中戦争下に内モンゴルより河西回廊を経てチベットに潜行。戦後インドを経て帰国。 |
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野元甚蔵
某所にて「野元甚蔵さんの米寿と長寿を祝う会」。 1939年から約1年間、ダライラマ14世が即位した当時のチベットに滞在、今年数えで88歳を迎える野元さんが法王... |
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成田安輝
成田安輝 【なりた-あんき】 1件の用語解説(成田安輝で検索) Tweet デジタル版 日本人名大辞典+Plus の解説 成田安輝 なりた-あんき  ... |
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興亜義塾
祖国敗戦の噂が流布されるなか、“ヒマラヤ越えのアルバイト”に自活の道を見出す。内陸アジアの厳しい自然と対して生きる純朴な人びととの接触を通し、人類平... |
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山口瑞鳳
日本の仏教学者、チベット学者。東京大学名誉教授、成田山仏教研究所客員研究所員。文学博士(東京大学、1979年)。石川県鳳至郡門前町(現・輪島市)生まれ... |
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プロフィール
- 矢島保治郎とは
- 経歴
- 最初のチベット入り
- 2度目のチベット入り
- 晩年の矢島
- 参考文献
矢島保治郎(やじまやすじろう、1882年(明治15年)8月23日-1963年(昭和38年)2月13日)は日本の探検家、軍人。四川省からのルートで初めてチベット入りした人物であり、 ダライ・ラマ13世の厚遇を受けてチベットの軍事顧問に就任した。文献によっては名前が「保次郎」となっているものもあるが、矢島が使っていた名刺や親族からの手紙などには「保治郎」が使われている。
経歴
| 群馬県佐位郡殖蓮村大字上植木(現・伊勢崎市本関町)の裕福な農家の三男に生まれる。 |
| 群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を中退後、日露戦争に従軍。 |
| 乃木希典率いる第三軍で旅順攻囲戦に参加し、突撃隊である白襷隊にも志願した。 |
| この戦功で軍曹に昇進し、また功七級の金鵄勲章を授与されている。 |
| 1906年(明治39年)、剣術に秀でていたことから陸軍戸山学校(戦術や体操、剣術などの指導者養成を目的とする)へ入学を命じられる。 |
| しかしこの頃になると矢島は、当時ベストセラーとなっていた河口慧海『西蔵旅行記』に大きく刺激され、アジア横断無銭旅行を志すようになっていた。 |
| そこで、チベット人に変装できるようになるため髪を伸ばし始め(チベット人は男でも長髪にする風習があった)、同時に、長髪は規律違反だとして切るように言う同僚や上官に対し「神武天皇だって長い髪をしているではないか。 |
| 俺は神武天皇の従者になってロシア征伐に行くんだ」などと抗弁するなど狂人のふりをするようになる。 |
| これが功を奏し、1907年(明治40年)12月に除隊。 |
| 翌1908年(明治41年)、上京し、キリスト教伝道師島貫兵太夫が設立した渡米支援団体「日本力行会」に入会。 |
| 会の中に「冒険倶楽部」という部を設けて、アジア横断無銭旅行の同志を募った。 |
| 当時は寺本婉雅のチベット入国が話題になっていた時期であり、矢島の計画は好意を持って迎えられ、賛同者は30名に達した。 |
| また、冒険小説家・押川春浪からは、当時貴重品であったコダックのカメラを贈られている(島貫が春浪の父・押川方義の教え子だったことが縁で、矢島は春浪の家に出入りしていた)。 |
| しかし、当初は30人居た賛同者も、計画が進むにつれ脱落していき、結局矢島は単身で横浜港から出発することになる。 |
| 1909年(明治42年)2月3日のことであった。 |
最初のチベット入り
| 上海に到着した矢島は、東亜同文書院の根津一に面会した後、南京-漢口-北京-鄭州-西安-漢中と旅を続け、9月10日に成都へ到着する。 |
| 矢島はここで、約1年の間、打箭炉(ダルツェンド、現・康定)や重慶との間を往復しながらチベットに入国するチャンスを探った。 |
| というのも、当時のチベットは鎖国政策を取っており、特に矢島の成都滞在当時は清との間が緊張状態にあったため、この国境を超えるのは非常に困難だったからである。 |
| 矢島以前にも、能海寛や寺本婉雅がこの国境を抜けようとして失敗している。 |
| 1910年(明治43年)の秋になって矢島は、打箭炉で、かつて西安に滞在していた時に出会ったラマ僧イーヤンと偶然再会する。 |
| イーヤンは茶をチベットへ輸送するキャラバンの一員としてラサへ向かうところであった。 |
| 矢島はこのキャラバンの隊長と交渉し、モンゴル人に変装して隊の一員に加わることに成功する。 |
| この経緯については詳細なことが分かっていないが、浅田晃彦は、矢島はピストルを持っていたことから、護衛役として同行を許されたのではないかと推測している浅田晃彦『世界無銭旅行者矢島保治郎』、筑摩書房、1986年、91-92頁。 |
| こうして、1911年(明治44年)3月4日、矢島はラサに到着し、河口慧海、成田安輝、寺本婉雅に次ぐ、チベットに入国した4人目の日本人となった。 |
| なお、それまでにチベット入りした3人はいずれもインドからのルートで入国しており、四川省から入った人間としては矢島が日本初ということになる。 |
| ラサには1カ月ほど滞在したが、日本人密入国者であることが発覚しそうになってきたため、チベットを南下してシッキム王国(現在のインド・シッキム州)を経由し、インドへと抜けた。 |
| そしてカルカッタから船員として貨物船に乗り込み、1912年(明治45年)3月、日本に一旦帰国する。 |
| 帰国した矢島は力行会を訪ね、再度チベットに赴くための資金援助を希望する。 |
| とはいえ力行会は会の存続自体が危ういほど資金に窮しており、ここでその資金を引き受けたのは川島浪速であった。 |
| 川島は満州・モンゴルの独立運動を行なっていた人物であるが、チベットも最終的には独立させたいと考えており、その計画の一環として矢島へチベットの情報収集を依頼する。 |
| こうして、川島から資金の提供と情報収集の命を受けた矢島は、日本滞在わずか2日で再び船に乗りインドへ向かった。 |
2度目のチベット入り
| インドに到着した矢島は、インドとシッキムの国境近くの町カリンポンからシッキムを経由してと、前年チベットを出国したルートの逆を行くような形でチベットへ再入国した。 |
| なお、この時カリンポンでは、やはりチベット入りを目指していた青木文教と多田等観の二人に偶然出会っている。 |
| 7月23日、ラサに着いた矢島は政府高官たちに接触し、日本とチベットの提携を説いたが、当時のチベットは親英路線が強く、これは成果をあまり上げなかった。 |
| また、この頃チベットと清はラサで戦闘をしている最中であったが、矢島はこれを直接目撃した唯一の日本人である。 |
| 翌1913年(大正2年)の正月には、新年を祝うために日章旗を宿舎の屋根に掲げ、これを役人に咎められるという事件が起きたが、この事件はチベットにも国旗(雪山獅子旗)が制定されるきっかけとなった。 |
| この国旗をデザインしたのは矢島とも青木文教ともいわれている『世界無銭旅行者矢島保治郎』、161頁。 |
| 同年、ラサの地図を制作したことがきっかけでチベット軍の参謀総長と知り合いになり、軍事顧問として迎えられ、兵舎の設計や部隊の教練も依頼された。 |
| さらに、矢島の訓練した隊の演習成績が特に良かったことがダライ・ラマの目にとまり、近衛兵の編成と訓練を頼まれるようになる。 |
| 矢島は親衛隊長としてダライ・ラマが巡幸を行なうときは常に近衛兵を率いて護衛にあたり、また現地の豪商の一人娘と結婚して子供も産まれた。 |
| ダライ・ラマからは絶大な信頼を得ており、その例をあげると、矢島はノルブリンカ離宮内に住居を与えられていたのだが、結婚した際には、離宮は女人禁制の聖域であったにもかかわらず、特別に妻と共に生活することを許されるほどであった。 |
| しかし、その後イギリスのインド政庁がダライ・ラマに矢島の追放を要請。 |
| ダライ・ラマは形の上ではこれを拒否したものの、チベットが親英路線にある現状として、これを完全に無視することはできない話であった。 |
| 矢島としてもその辺りの事情はよく判っており、1918年(大正7年)10月、妻子を連れてラサを発ち、インドを経由して日本へ帰国した。 |
晩年の矢島
| 帰国後は故郷の群馬県で生活したが、妻は慣れぬ環境から1923年(大正12年)に病死し、息子も後に太平洋戦争で戦死した。 |
| また矢島自身にとっても日本での生活はあまり本意なものではなく、「痩せても枯れても俺はチベットの陸軍大将だぞ」が口癖であまり働きもしなかったことから、一種の奇人として地元では扱われていた。 |
| 1963年(昭和38年)2月13日、老衰と肝硬変から死去。 |
参考文献
| 浅田晃彦『世界無銭旅行者矢島保治郎』、筑摩書房、1986年。 |
| 長沢和俊『日本人の冒険と探検』、白水社、1972年、328-332頁。 |
| 横田順彌『明治バンカラ快人伝』、筑摩書房、1996年、277-280頁。 |
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