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つながりの強いひと
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井上昌己
女性歌手、 シンガーソングライター。愛媛県八幡浜市出身、愛媛県立八幡浜高等学校、日本大学文 理学部卒業。 デビュー当時は楽曲提供を受け... http://ja.wi... |
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工藤わこ
フリーアナウンサー。茨城県取手市出身。アメリカ合衆国にある、チェイフィーカレッジ・ビジネスアドミニストレーション学部卒業。実父は元競輪選手で、現競... |
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緒方浩一
元競輪選手。現在は競輪評論家。熊本県出身。日本競輪学校第30期生。現役時は日本競輪選手会熊本支部所属。師匠は大里清一。 |
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井上茂徳
井上茂徳(いのうえしげのり、1958年3月20日-佐賀県佐賀市出身)は日本の元競輪選手である。現在はSPEEDチャンネル専属競輪解説者、スポーツニッポン専属競輪... |
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高橋健二
高橋健二 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: 案内 , 検索 高橋 健二 (たかはし けんじ) 高橋健二 (ドイツ文学者) - ヘッセ等... |
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松本秀人
HIDE プロフィール ボーカル担当 本名:松本秀人 1964年12月13日 生まれ 神奈川県横須賀市出身 血液型はAB型 ソロ活動では小文字で「hide」 愛称:hideちゃ... |
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阿部道
阿部道(あべとおる。1948年1月19日-)は元競輪選手。宮城県仙台市出身。日本競輪学校第23期卒業。現役時は日本競輪選手会宮城支部所属。初出走は1966年9月16... |
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吉岡稔真
日本の元競輪選手である。現在は競輪解説者・評論家。福岡県北九州市小倉南区出身。血液型はA型。座右の銘は「不動心」。 |
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福島正幸
日本の元競輪選手である。群馬県前橋市出身。日本競輪学校第22期卒業。現役時代は日本競輪選手会群馬支部所属。1966年(昭和41年)デビュー。 |
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東出剛
東出剛(ひがしでたけし、1964年9月25日-2004年2月22日)は競輪選手。千葉県出身。日本競輪学校第54期卒業。ホームバンクは千葉競輪場。初出走は1984年9月2日... |
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田中博
田中博(たなかひろし。1947年3月6日-)は日本競輪選手会群馬支部に所属していた元競輪選手。日本競輪学校第21期生で、同期にはスピードスケート選手から転身... |
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小池和博
日本競輪選手会・埼玉支部に所属していた元競輪選手。日本競輪学校第30期生。同期には高橋健二らがいる。埼玉県立浦和高等学校出身。 |
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藤巻昇
元競輪選手、現在はスポーツ報知北海道総局所属の競輪評論家。現在の山梨県笛吹市石和町出身。日本競輪学校第22期卒業。初出走は1966年1月11日の立川競輪場で... |
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北村徹
元競輪選手。日本競輪選手会・熊本支部に在籍していた。日本競輪学校第43期生の競輪選手、北村哲郎は実弟。 |
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伊藤繁
伊藤繁(いとうしげる1947年8月12日-)は元スピードスケート選手、元競輪選手。長野県安曇野市出身。競輪選手時代は日本競輪選手会神奈川支部所属。日本競輪... |
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荒川秀之助
宮城県名取市出身で、日本競輪選手会・宮城支部に所属していた元競輪選手。 |
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合志正臣
合志正臣(ごうしまさおみ、1977年6月22日-)は競輪選手である。熊本市出身(龍田小学校-楠中学校-熊工)。日本競輪学校第81期卒業。ホームバンクは熊本競輪... |
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山崎芳仁
山崎芳仁(やまざきよしひと、1979年6月12日-)は日本の競輪選手である。福島県いわき市出身。日本競輪学校第88期卒業。日本競輪選手会福島支部所属。師匠は... |
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吉井秀仁
元競輪選手、現在は東京中日スポーツ所属の競輪解説者、競輪レポーター。千葉県茂原市出身。日本競輪学校第38期卒業。現役時は日本競輪選手会千葉支部所属。... |
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武田豊樹
武田豊樹(たけだとよき、1974年1月9日-)は競輪選手。元スピードスケート選手。北海道斜里郡斜里町出身。釧路緑ヶ岡高等学校(現・武修館高等学校)卒業。身... |
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プロフィール
- 矢村正とは
- 経歴
- 中野浩一の実質的な師匠
- 「九州軍団」の必要性を説く
- 韓国競輪開催に尽力
- 参考文献
- 関連サイト
矢村正(やむらただし、1950年-)は日本競輪選手会・熊本支部に所属していた元競輪選手。日本競輪学校第26期生。後述するが、 中野浩一の師匠的な役割を果たした選手として有名だった。
経歴
| デビューは1969年5月24日、ホームバンクである熊本競輪場で迎え1着。 |
| またこの開催では完全優勝も果たす。 |
| 現役時代、164cmという小柄な体格ながらも武器としていた鋭いダッシュ力を生かし、高松記念では4連覇を達成。 |
| 特別競輪(GI)においても、高松宮杯(1973年)、競輪祭競輪王戦(1978年)で決勝3着の実績がある。 |
| しかし当時の熊本及び九州勢は選手間のまとまりが悪く、矢村は常にGIでは孤軍奮闘の形を強いられていた。 |
| したがっていつかはGIタイトルを掴むであろうと思われ続けながらも、ついにGIの栄冠は矢村には巡ってこなかった。 |
| そうした背景があったからか、矢村は1975年にデビューした中野浩一をことの他可愛がった。 |
中野浩一の実質的な師匠
| 中野のホームは久留米競輪場であったが、久留米では心底から信頼を置ける先輩選手がいなかったことから、次第に矢村のいる熊本で練習する機会が増えていった。 |
| そればかりか中野は頻繁に矢村の自宅に泊まり、いつしか矢村の身内であるかのような振る舞いまで行うようになったという。 |
| そんな中野に対し、矢村は中野を実の弟のように振る舞い、また自分の家へ来たければいつでも来ても構わないという姿勢も見せていた。 |
| 中野は当時、「九州のハヤブサ」という異名を取り、次代のスター候補生という期待も当然持たれていたが、ランクが上へと上がるにつれてマークが厳しくなり、中には中野以外の選手だったら誰に勝ってもらっても構わないが、中野にだけは絶対に勝たれたくないと考える選手までいた。 |
| 1977年、1978年と中野は世界自転車選手権、プロ・スプリント2連覇を果たしたものの、78年の競輪祭前まで、GI制覇はいまだ果たせていなかった。 |
| その原因として、中野を盛り立てられる先輩選手が不在で、しかも当時、「伝統」とさえなっていた九州勢のまとまりの悪さを他地区の選手たちに見透かされていると矢村は考えていた。 |
| 1978年の競輪王決勝では、九州勢が4人優出。 |
| 中野-福山治樹の久留米勢に矢村-緒方浩一が続き、九州は当時としては珍しく4人でまとまってラインを組んだ。 |
| 高橋健二の逃げを2センターで豪快に捲りきった中野はついに国内初タイトルを奪取。 |
| 2着に福山が入り、矢村も3着に食い込んだ。 |
| 優勝が決まった瞬間、中野は矢村と肩を抱き合った。 |
| それはまさに「師弟愛」というべきものであった。 |
「九州軍団」の必要性を説く
| 中野の競輪祭における優勝については、中野本人以上に矢村は喜んでいた。 |
| 自分の全盛時代はまさしく孤軍奮闘の状態が続いていた。 |
| しかしこの一戦では珍しく九州が一つにまとまった。 |
| 今後も中野を中心として「九州は一つに」という形ができるのではないかと思われたが、翌1979年の競輪王決勝戦でその考えは脆くも崩れ去る。 |
| このレースでは、何と九州勢は6人も優出を果たした(熊本3名、福岡2名、長崎1名)。 |
| 人気の中心は断然中野。 |
| 矢村もこの6人の中にいた。 |
| ところが吉井秀仁-山口国男-国持一洋の関東勢の4番手という絶好の位置に中野がつけながらも、その外になんと緒方浩一が覆いかぶさってしまった。 |
| この動きを見た矢村は緒方に「引け!」と声を出したが、ペースが上がっている最中なだけに緒方も引くに引けない。 |
| 結局中野は「同士討ち」の形で4番手のまま出るに出られずまさかの4着敗退。 |
| 優勝は逃げ切った吉井にさらわれてしまった。 |
| 当時、山口国男が中心となってフラワーラインが形成されつつあった。 |
| 打倒!中野を合言葉に結成された、いわば「超党派」のようなライングループであったが、この一戦ではラインが手薄だったにもかかわらず、吉井に逃げ切りを許したことでより一層フラワーラインを活気付けてしまった。 |
| 6人も九州勢がいながら、表彰台に上がったのは2着の堤昌彦(福岡)だけ。 |
| この惨憺たる結果に対し、矢村は今こそ九州は一つにまとまらねばならないと強く訴えた。 |
| そこで矢村は後に、緒方を参謀役に据え、フラワーラインに対抗する「九州軍団」を結成させることを考えるが、実質的には「中野シンパライン」といったものであった。 |
| 当然のことながら九州勢内部からは反発の声が上がった。 |
| それでも矢村は、九州の中心は中野であるということを強調した。 |
| 既に中野シンパだった高橋健二や久保千代志に加え、藤巻昇も中野に味方するようになったが、肝心の九州はいまだまとまりが悪かった。 |
| ひいては将来、中野が九州を見捨てかねないと矢村は考え、また中野は超党派で他地区の味方の選手を引き入れていることを示し、今度は九州がそうするべきではないかと訴えた。 |
| すると、後に井上茂徳が頭角をあらわしはじめると、フラワーラインに伍して戦える「九州軍団」が出来上がった。 |
| 上述の通り、その参謀には緒方が就く形となったが、この軍団を形成した実質的な立役者は矢村である。 |
韓国競輪開催に尽力
| 矢村は選手時代の晩年、日本競輪選手会の仕事の一環としてたびたび韓国で競輪が始まることを受け、現地へ技術指導に行った。 |
| つまり韓国競輪の開催に尽力を注いだ。 |
| 2001年に選手を引退した後も「日韓競輪交流親善大使」を務めており、地元・熊本のFI開催においてそのタイトルレースが毎年開催されている。 |
参考文献
| 月刊競輪、1984年10月号。 |
| 中野浩一の競輪へ行こう(ゴマブックス)。 |
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1969年
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ホームバンクである熊本競輪場で迎え1着 |
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1973年
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競輪祭競輪王戦1978年で決勝3着の実績がある |
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