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つながりの強いひと
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伊藤隆
先代 伊藤隆 略歴
息子の聞き書き
大正10年
誕生
2月11日生まれ紀元節(今の建国記念の日)
幼少時は大井で育つ
昭和11年
巣鴨商業学校(がもしょう)卒業... |
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石原莞爾
昭和の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。栄典は勲一等・功三級。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織... |
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劉傑
中華人民共和国籍の歴史学者、博士(文学)(東京大学)。早稲田大学社会科学部・社会科学総合学術院教授。コロンビア大学客員研究員、朝日新聞アジアネットワー... |
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広田弘毅
日本の外交官、政治家。勲等は勲一等。旧名は丈太郎(じょうたろう)。新字体で広田弘毅(ひろたこうき)とも表記される。外務大臣(第49・50・51・55代)、... |
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重光葵
第二次世界大戦期の、日本の外交官・政治家である。第二次世界大戦中に外務大臣を務め、終戦時に政府全権として降伏文書に調印した。戦後は東京裁判で有期禁... |
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日華
鎌倉時代中期から後期にかけての日蓮宗の僧。号は寂日房。二十家阿闍梨とも称される。甲斐国の出身。日興の有力な門弟の本六の一人。1276年(建治2年)日興が... |
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吉田茂
吉田 茂様 プロフィール 株式会社 イビサ 取締役会長 吉田 茂(よしだ・しげる) 昭和 8年 1月 2日 岐阜県加茂郡八百津町須賀に生まれる 昭和26年 3月 1日 岐... |
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田中氏
田中氏 (富山市出身) ノーベル賞から1年 目次へ >>ホームへ ノーベル化学賞受賞から間もなく1年を迎える島津製作所フェローの田中耕一さん(44)... |
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高橋是清
日本の政治家。立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任:1921年(大正10年)11月13日-1922年(大正11年)6月12日)。大勲位子爵。幼名は和喜次(わき... |
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近衛文麿
日本の政治家。勲等は勲一等。爵位は公爵。新字体で近衛文麿とも表記される。貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、内閣総理大臣(第34... |
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城山三郎
日本の小説家。本名は、杉浦英一(すぎうらえいいち)。経済小説の開拓者であり、伝記小説、歴史小説も多く出している。 |
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蒋介石
蒋介石(しょうかいせき、、1887年10月31日-1975年4月5日)は中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統。孫文の後継者として北伐... |
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柴山兼四郎
日本陸軍 の 軍人 。最終階級は陸軍 中将 。 [ 編集 ] 経歴 茨城県 出身。柴山定次郎の三男として生まれる。 下妻中学校 卒、 拓殖大学 中退を経て、 1912年... |
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幣原喜重郎
日本の男性外交官、政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は男爵。外務大臣(第40・41・43・44代)、貴族院議員、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(... |
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廣田弘毅
いなかったと思います。桂園時代を築いた、桂太郎・西園寺公望の両名は公爵だったかと。平民ですね。廣田弘毅・吉田茂などは外交官試験に合格し外相から総理... |
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バー・モウ
バー・モウ(ラテン文字転写:BaMaw,バーモウ、バモウ、バモー、バーモーとも、1893年2月8日-1977年5月29日)はビルマ(現ミャンマー)の独立運動家、政治家。 |
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臼井勝美
日本の歴史学者、筑波大学名誉教授。専攻は日本近代史。栃木県出身。大正から昭和前期における日中関係史研究の重鎮。外務省では栗原健の指導の下、外交文書... |
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岡田啓介
日本の軍人、政治家。階級は海軍大将。勲等は勲一等。功級は功三級。海軍大臣(第14・18代)、内閣総理大臣(第31代)、拓務大臣(第7代)、逓信大臣(第37代... |
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フランク・クラウス
アメリカ合衆国の元プロボクサー。ペンシルベニア州ピッツバーグ出身。ドイツ系アメリカ人。元世界ミドル級王者。 |
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プロフィール
- 石射猪太郎とは
- 外務省入省まで
- 最初の中国勤務
- 米英等在勤
- 再び中国へ
- 東亜局長時代
- その後、終戦まで
- その他
- 参考文献
- 関連サイト
石射猪太郎(いしいいたろう、1887年2月6日-1954年2月8日)は日本の外交官。日中戦争初期に外務省東亜局長を務めた。戦争拡大に走る軍部に抵抗し、日中和平を試みたことで知られる。最終官歴は駐ビルマ特命全権大使。
外務省入省まで
| 1887年、福島県生まれ。 |
| 福島中学を経て、1908年、東亜同文書院を卒業し満鉄に入社。 |
| その後父の仕事を手伝うべく退社したが、父が事業に失敗し失業。 |
| 岳父から生活援助を受けながら外交官試験の勉強に励み、2回目の挑戦で合格した。 |
| 入省同期の中には沢田廉三がいる。 |
最初の中国勤務
| 1915年、外務省入省。 |
| 1916年領事官補として広東に赴任したが、まもなく原因不明の高熱に苦しみ、静養のため帰国した。 |
| 静養先の磯部温泉で、のち陸軍内の不拡大派の中心人物として知られるようになる柴山兼四郎の知遇を得る。 |
| 病気回復後、同年暮には天津在勤の命を受けて赴任。 |
| 総領事代理として領事裁判に当り、居留民間の訴訟、刑事事件を裁いた。 |
| 天津時代は物価の高騰や家族の病気などで大変窮乏し、離任時には3000ドルの借金を抱えたが、同文書院の先輩の援助で借金を解決することができたという。 |
米英等在勤
| 1918年には、サンフランシスコ在勤。 |
| 続いて1920年にはワシントンの駐米大使館三等書記官となった。 |
| 当時の特命全権大使は幣原喜重郎、館員には佐分利貞夫、広田弘毅、山本五十六、亀井貫一郎等がいた。 |
| 1922年10月には駐メキシコ公使館に転任した。 |
| 1924年6月には再び本省勤務、1925年には通商第三課長となり、中南米諸国への移民業務を担当した。 |
| 1927年、駐英大使館一等書記官に任ぜられ、ロンドン勤務となる。 |
| この時期は「将棋とゴルフ」を趣味としていたという。 |
再び中国へ
| 1929年には在上海総領事を命じられ、再び中国勤務に就く。 |
| 直後、幣原喜重郎外務大臣の意向により在吉林総領事となった。 |
| 1931年満州事変では、吉林省政府と日本軍第二師団の仲介に動き、吉林への平和進駐に貢献したという。 |
| 石射は満州国建国を批判し「東三省中国民衆の一人だって、独立を希望したものがあったろうか」と考えていたが、リットン調査団の調査に対しては、立場上「言って差し支えない真実だけ」を伝えるにとどめざるをえなかった。 |
| 1932年には上海総領事に任命された。 |
| 国際都市上海を平和に保つことが自分の使命であると考え、赴任時「上海だけはいかなる場合にも無風状態に置くのが私の抱負だ」と新聞記者に語ったという。 |
東亜局長時代
| その後1936年の駐シャム(タイ)大使を経て、1937年3月、外務省東亜局長に抜擢される。 |
| 盧溝橋事件では不拡大方針を強く主張し、広田弘毅外相を通じて軍部の主張する三個師団動員を阻止しようとしたが、7月11日に三個師団動員案は閣議決定された。 |
| 石射は上村伸一東亜一課長とともに辞表を提出しようとしたが、広田に慰留された。 |
| 石射はなおも拡大阻止に動き、陸軍省軍務課長柴山兼四郎大佐とも協力して和平への道を探ったが、郎坊事件、広安門事件の発生で果たせず、日中は全面衝突することとなった。 |
| 石射によると、7月29日、昭和天皇から近衛文麿首相に「もうこの辺で外交交渉により問題を解決してはどうか」との言葉があったという。 |
| これに力を得た和平派は、船津辰一郎を上海に派遣して高宗武亜洲司長と会見させ、停戦交渉への道を開こうとしたが、第二次上海事変の勃発により工作は頓挫した。 |
| 11月には、ドイツのオスカー・トラウトマン大使が日中和平に向けた斡旋を行った(トラウトマン工作)。 |
| 12月13日には、その斡旋案を審議すべく五相連絡会議が開かれ、石射も会議の場に出席した。 |
| 各大臣からは日本の戦況有利を背景に、和平条件を加重する発言が相次いだ結果、中国側が到底飲めないような厳しい案文になった。 |
| 石射は発言権のない立場にもかかわらず、思わず「かくのごとく条件が加重されるのでは、中国側は到底和平に応じないであろう」と発言したが無視された。 |
| 絶望した石射は、当日の日記に「こうなれば案文などどうでもよし。 |
| 日本は行く処まで行って、行き詰らねば駄目と見切りをつける」と記している。 |
| 1938年5月には、広田にかわり、宇垣一成陸軍大将が外相に就任した。 |
| 石射は就任まもない宇垣に「何とぞ大臣のお力で「国民政府を相手とせず」を乗り切っていただきたい」と和平への努力を要望し、宇垣も賛意を示したという。 |
| 宇垣は中国との和平交渉の糸口をつくるべく中村豊香港総領事などを通じて工作を行った(宇垣工作)が、興亜院問題をきっかけに辞任することとなった。 |
| 宇垣は石射に「事変の解決を、自分に任せるといっておきながら、今に至って私の権限を削ぐような近衛内閣に留まり得ないのだ」と語ったという。 |
| 石射は大臣の輔弼が不充分であった責を感じ、東亜局長を辞任した。 |
その後、終戦まで
| 1938年11月には駐オランダ公使に転任。 |
| 続いて1940年10月には駐ブラジル大使となった。 |
| 1941年12月の日英、日米開戦はブラジルの首都であるリオ・デ・ジャネイロで迎えることとなった。 |
| 日本と敵対関係になかったブラジルは当初態度を保留したため、石射は日本の同盟国であるドイツ、イタリア両大使とともにブラジルの対枢軸国参戦を阻止すべく各種工作を行ったものの、ブラジルは1942年1月にアメリカやイギリスからの政治的圧力を受けて、日本とドイツ、イタリアとの国交を断絶しその後交戦状態に入った。 |
| 石射は帰国までの間、在ブラジル日本人の帰国に向けた準備及び保護活動などを中心におこなったが、ブラジル当局が日本政府による駐日ブラジル大使館員への冷遇へ対抗し同様の措置を行ったことから、石射らは1日1時間の監視付き以外は外出を禁じられ事実上の監禁生活を送ることとなる。 |
| しかし、日本当局が駐日ブラジル大使館員に対する待遇を軟化させたことを受けて3月に監禁は解かれ、8月に戦時交換船で帰国した。 |
| 英米との開戦後、日本は多くの国と国交を断絶したため、大勢の待命外交官が生じることとなった。 |
| これらの待命外交官を集める形で外務省内に戦時調査室が設置され、石射は帰国後にその主宰を引受けることとなった。 |
| 戦争の帰趨が見えてきた1944年8月、突然駐ビルマ大使を命じられる。 |
| 当時イギリスやアメリカ、オーストラリアなどの連合国に対して日本が劣勢に転じていたことから、「無事で帰れまい」ことを覚悟に赴任、1945年8月の終戦はビルマで迎えることとなった。 |
| 石射は当時の国家代表で日本に協力的であったバー・モウを伴っての逃避行のあと、ビルマの隣国で当時は日本と敵対関係にあったタイに脱出し、そこでタイと同盟関係にあったイギリス軍に拘留されたが、1946年7月にようやく帰国を果たした。 |
| 帰国後の8月7日、外務省に辞表を提出、外交官生活は終焉した。 |
| 同28日には駐ビルマ大使という要職にあったことを理由にGHQの公職追放令を受けた。 |
その他
| 石射は勲二等を受章しているが、省内には「年功による定期叙勲」には「冷淡な雰囲気」があり、石射もかねてから軍人有利の叙勲制度に批判的であったことから、「こうした連中(軍人)とともに功を論ぜられるのを潔しとしないが、どうにもならぬ。 |
| …私は、勲章なるものに愛想をつかしていたのであった」と書き残している。 |
| 昭和天皇に対しては、「平和主義者であった」と高く評価し、短い会見の時間にも「天皇の円満なる御人格を感じ得た」などと自著で述べている。 |
参考文献
| 石射猪太郎『外交官の一生』中公文庫 1986年、新版2007年、ISBN4122048192(本項の記述は、ほとんど同書に依拠、初版は読売新聞社、1950年、のち太平出版社)。 |
| 伊藤隆、劉傑編『石射猪太郎日記』中央公論社 1993年、ISBN4120022307。 |
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