■
横浜FMは2001年に成績が低迷し監督交代が相次ぎ、出場機会に乏しかった。
■
ラザロニ監督とは特に相性が合わず、石川は紅白戦での「Bチームの控え」にも入れてもらえず、2002年も引き続いてラザロニが指揮を執ることになった状況に危機感を持ち、自ら横浜FM強化部に「(行くチームは)どこでもいいですから試合に出られる環境を作ってください」と直訴した。
■
この2002年から原博実はFC東京の監督に就任しており、すでに東京の右サイドにはチームの顔とも言える佐藤由紀彦の存在もあったが、その佐藤が当時負傷を抱えたことから、佐藤の代役としてアルゼンチンでの石川のスピード溢れるプレーが頭に焼きついていた原がFC東京サイドに獲得を要望。
■
FC東京のクラブ施設を見学に来た石川と対面した際の「今(FC東京に)来たらすぐ使っちゃうよ」という原の口説き文句もあり、4月にFC東京へのレンタル移籍が決定。
■
口説き文句の通り、移籍発表からわずか3日後の駒沢でのナビスコカップ・清水戦で早速右のサイドアタッカーとして先発出場すると、そのずば抜けたスピードによる突破で得点をアシスト、それに加えてそれまでのFC東京には存在しないタイプの、クラブユース育ちならではのテクニックとボールタッチでサポーターを唸らせた。
■
その後、ほぼ同じ時期にFC東京の右サイドバックとして出場機会の与えられた加地亮とのコンビネーションで右サイドからの攻撃を担い、以後ポジションを確保。
■
U-21日本代表としては、10月の釜山アジア大会では準優勝に貢献。
■
2002年シーズン終了後、レンタル元の横浜FMからは「戻って来い」、FC東京からは「残って欲しい」という状況になり、石川本人の判断で東京へのレンタル期限が1年延長され、翌2003年8月には(入れ替わりで横浜FMにレンタル移籍していた佐藤由紀彦と交換トレードのようなかたちで)FC東京に完全移籍となった。
■
また、アテネオリンピックを目指すU-22日本代表として活動する一方で、この年のキリンカップのためのA代表に初選出される。
■
同年の東アジアサッカー選手権でもA代表に選出され、香港戦において国際Aマッチ初出場を記録(U-22代表から抜擢されたのは大久保嘉人、松井大輔と石川の3人)。
■
2004年には再び日本代表候補合宿に招集されていたが、日本サッカー協会のオリンピック優先という方針によりU-23日本代表に合流、アテネオリンピックアジア最終予選を突破する。
■
アテネ本大会では、強豪イタリアと同組だった事もあり、山本昌邦監督は守備重視の戦術で大会に挑んだ為に石川の出番は少なく、ようやく先発で出番が来た試合の前半では攻撃を牽引したにもかかわらずハーフタイムで交代を言い渡され、消化不良のままグループリーグでの敗退が決定。
■
競技場のサポーターに挨拶する際には誰よりも号泣し、ギリシャの地を去ることとなった。
■
クラブでは、リーグ戦ではゴールが無かったが、初選出されたオールスター戦ではゴールを決めた上にMVPを受賞。
■
ナビスコ杯では優勝を体験するが、決勝の浦和戦では退場者を出し更に運動量が求められ、自身初となる延長戦までの120分フル出場で走り回り奮闘したため足がつり始めており、決着をつけるPK戦を蹴る5人を決める際、原監督に「ちょっと厳しいです」と状態を正直に話し、PKメンバーには入らなかった。
■
2005年8月にイタリア・セリエAに昇格となったトレヴィゾから獲得オファーがあり、熟考の末に石川はイタリア移籍を腹に決め、パスポート持参ですぐに出国できる準備を整えた上で、FC東京のクラブハウスでの最終交渉に挑んだが、FC東京の苦戦が続いた時期と重なり、石川が欠けてはJ2降格が現実味を帯びる状況だったため、交渉最終段階にきてオファーを断った(結果論だが、その後開幕からトレヴィゾは大苦戦で最下位を独走しセリエB転落となったことから、行かなくて正解だったという意見もある)。
■
その決断の直後、あらためて心機一転の9月、日産スタジアムでの古巣・横浜FM戦の試合後半に右膝を傷め途中退場。
■
検査の結果、右膝前十字靭帯損傷および右膝外側半月板損傷・全治8ヶ月との診断を受け、長期のリハビリテーション期間を過ごす事になった。
■
2006年にガーロ監督が就任したが、その在任期間が右膝のリハビリの時期と重なっており、ガーロ体制下でのプレーは少ない。
■
同年7月19日のアビスパ福岡戦で305日ぶりの復帰を果たした。
■
その後の倉又寿雄監督体制下から2007年の原監督が復帰したシーズンは、大怪我を負う以前のスタイルを求められていたようであるが、石川本人は既にかなり研究されてもいたそのプレースタイルに疑問を抱き、中へ切れ込んだり、引いてボールを受けたりという自身のプレーの幅の広がりを模索していたため、あくまで以前のように「右サイドで張っている」ことを求める原監督と意見が合わないこともあったといわれる。
■
そのためか調子が上がらず、チーム自体の不調もあり、試合出場の機会が減った時期もあった。
■
2008年に就任した城福浩監督は、石川の目指すプレースタイルを生かしていくことも考えており、再び生き生きとしたプレーが見られるようになった。
■
自由度が増した結果、苦し紛れのパスは減り、課題であったパスやクロスの精度が見違えるほど向上し、安定感が増した。
■
同タイプのプレーをするMF鈴木達也の新加入や、大竹洋平など若手の台頭もありチーム内での競争が活性化し刺激を受けたためもあってか、特にリーグ後半は無くてはならないプレーヤーとなり、チームを3年連続の二桁順位から年間6位、天皇杯4位へと押し上げる原動力となった。
■
2009年5月2日のJリーグディビジョン1の大宮戦で自身初のハットトリックを決めた。
■
この日は、年に一度しか来ない家族が見に行った日でもあった。
■
日本代表への復活を含め、今後のさらなる活躍が期待される。