| 1980年代後半に、東京都練馬区内に一軒家を建てた。 |
| 本人は「東京都内」と喜んでいたが、同僚の東尾修は、「03(東京の市外局番)は03でも、次が9じゃね…」と、埼玉県境に近いことを冷やかしていた。 |
| 阪神との1985年の日本シリーズで、遊撃後方への飛球を追い左翼手の金森永時と衝突し右膝の靭帯を損傷。 |
| このケガがきっかけで1987年以後は三塁手に転向。 |
| ダイエーの二軍監督時代、スタメンをあみだくじやジャンケンで決めていたことが発覚し、解任された。 |
| 石毛自身は「プロとして自分で考え、行動できる選手を育成するため」という意図があったと述懐する。 |
| 石毛によると、一軍監督の王貞治は、石毛の進言で選手を一軍に上げても、一度結果を出せないと見切りを付ける性格だった。 |
| 二軍に戻された選手が、次に調子が上がってきたと進言しても、「いや、そいつはもういい。 |
| もうわかっているから」と、なかなか再度のチャンスは与えられなかった。 |
| こうしたことから、さまざまな打順を経験させることで、たとえば二軍で主砲であっても、一軍でバントを命じられて失敗しないようにといった狙いがあった石毛、前掲書 pp.72-74。 |
| また、解雇になった原因はスタメン選びではなく、球団の管理部長にダイエーの強化策について聞かれ、進言した内容にあったという。 |
| 「(西武では)根本さんがまず素材のいい人間を集めた。 |
| これはある面では編成の仕事だ」という部分が、ダイエーの選手、あるいはスカウトに対する批判と受け取られ、球団側の怒りを買ってしまったという石毛、前掲書 pp.79-80。 |
| オリックスの監督に就任して、仰木彬前監督は選手が一堂に会したミーティングを開いたことがなく、指示は選手に個別に伝えていたと聞いて驚き、早速マネージャーにミーティングの場所を確保させた。 |
| 石毛は仰木のやり方について、「小さなことかもしれないが、そういう面で、仰木さんが九年間、監督指揮をとっていたオリックスが、すべてにおいて多少ぬるくなり、その結果弱くなっていったのかなと思った。 |
| 仰木さんは、野茂野茂が渡米したのは、近鉄バファローズで仰木退任後の鈴木啓示監督の時、同じく吉井が渡米したのはヤクルトスワローズで野村克也監督の時であり、いずれも「仰木がアメリカに送り出した」わけではない。 |
| なお、吉井は2003年に帰国し、オリックスに入団した。 |
| 、イチロー、長谷川、吉井、田口といったいい選手を育て、彼らにとってはいい指導者、いい恩師だったかもしれないが、みんなアメリカに送り出してしまい、客観的に見れば日本の野球界にとって財産ともいえるような人材をみんな放出してしまったのはなぜなんだろう、どうなんだろうという思いもある。 |
| 仰木さんは優勝経験もある名将、知将と言われる人なので、私の知らないやり方があったのかもしれないが、選手に個別に伝えていくやり方は、チームとして、組織として、機能していたんだろうかとも思ったりした。 |
| 石毛、前掲書 p.97オリックスに所属していたイチローは2000年、田口は2001年を最後に渡米しており、石毛の就任時はチーム力が大きく低下していた。 |
| なお、田口は2010年にオリックスに復帰している。 |
| 」と批判している。 |
| オリックスの監督時代、サンケイスポーツのウェブ記事において石毛のコメントの「オレ(俺)」という箇所が「ポレ」と誤記されたことがある。 |
| これがきっかけで、インターネットの電子掲示板等において一部のプロ野球ファンが石毛のことを「ポレ」球団名を「ポリックス」と呼ぶようになった。 |
| オリックス監督を解任された後、IBLJの設立を思いついたことについては「(監督が)3年契約で、残り1年8ヶ月分の給料はもらえる。 |
| どうせあぶく銭だし、活動資金になるなと思ってね」と述べている「明日へ地域独立リーグ1」2008年7月31日付読売新聞大阪版夕刊。 |
| 四国アイランドリーグの発足後はリーグの事務局が置かれた高松市を拠点とし、香川県の観光ポスターに起用されたこともあった。 |
| しかし、運営会社であるIBLJの社長を退いてからは松山市に活動の中心を移している。 |
| リーグのコミッショナー退任後の2008年1月に、愛媛マンダリンパイレーツのシニア・チームアドバイザーに就任した。 |
| 野茂英雄のロサンゼルス・ドジャース在籍当時、主砲として君臨したエリック・キャロスは、石毛をこれまで出逢った人物のなかでは最高レベルの人間と評している。 |
| 新人王を獲った翌年、当時監督であった広岡達朗に「お前、それでよく新人王が獲れたな」と挑発を受けている。 |
| このことを広岡は、「守備はそう上手いと思わなかったが打撃で活躍して意気揚々としていた。 |
| もう少し上手くなれる選手だと思ったから、あえて挑発した。 |
| また、セの原辰徳かパの石毛かと言われていたので、『今、人気からすると原のほうが上だが、その実力では力でも勝てない。 |
| 」と振り返っている日本経済新聞 私の履歴書2010年8月23日付夕刊。 |
| 上記のこともあって最初は広岡の言うことを素直に聞かなかったが、石毛のライバル選手に広岡が手取り足取り教えるうちに言うことを聞くようになっていった日本経済新聞 私の履歴書2010年8月23日付夕刊。 |