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つながりの強いひと
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林大
日本の国語学者。国立国語研究所所長、国語学会代表理事などを務めた。1950年代から1980年代までの日本の国語政策に関与した。 |
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小平権一
日本の農政官僚、政治家である。長野県諏訪郡米沢村(現茅野市)出身。旧制諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、第一高等学校工科を途中休学、東京... |
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山崎達之輔
日本の官僚、政治家。以来衆議院議員総選挙に連続7回当選した。 |
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鈴木貫太郎
日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従一位。勲等は勲一等。功級は功三級。爵位は男爵。海軍軍令部長(第8代)、枢密院副議長(第14代)、枢密院... |
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島田俊雄
日本の政治家。衆議院議員選挙に9回当選し、農林大臣・衆議院議長等を務めた。島根県江津市出身。 |
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井野碩哉
日本の政治家、官僚。農林大臣(第20代)、拓務大臣、法務大臣、弾劾裁判所裁判長(第30代)、衆議院議員(1期)、参議院議員(3期)などを務めた。 |
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石黒忠悳
明治時代の医師。日本陸軍軍医。草創期の軍医制度を確立した。爵位は子爵。学位は医学博士。 |
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有馬頼寧
有馬頼寧(ありまよりやす、明治17年(1884年)12月17日 - 昭和32年(1957年)1月9日)は日本の政治家。農政研究者。元農林大臣。日本中央競馬会第2代理事... |
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穂積陳重
妻 親
愛媛県宇和島市出身の法学者。日本初の法学博士の5人の1人。東京帝国大学法学部長。英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人。貴族院議員。枢密院議... |
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那須皓
大正・昭和期の農学者(農学博士)。専攻は農業経済学及び農政研究。東京市本郷区(のち東京都文京区)生まれ。 |
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酒井忠正
貴族院議員、貴族院副議長、農林大臣、勲一等瑞宝章・伯爵、中央農業会長、日本中央競馬会理事長、横綱審議委員会初代委員長、相撲博物館初代館長、雅楽頭系... |
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町田忠治
明治から昭和期の政治家。衆議院議員(当選10回)。立憲民政党・日本進歩党総裁、農林大臣・商工大臣・大蔵大臣(兼任)などを歴任したが最晩年は公職追放さ... |
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後藤文夫
後藤文夫(ごとうふみお、1884年(明治17年)3月7日-1980年(昭和55年)5月13日)は大正・昭和の官僚・政治家。「天皇陛下の警察官」を自称し、新官僚の代表... |
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高橋是清
日本の政治家。立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任:1921年(大正10年)11月13日-1922年(大正11年)6月12日)。大勲位子爵。幼名は和喜次(わき... |
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伍堂卓雄
日本の政治家、実業家、海軍軍人、海軍造兵中将。 |
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山本悌二郎
日本の男性政治家、実業家。元農林大臣。元外務大臣の有田八郎は弟。号は二峯。 |
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柳田國男
柳田國男(やなぎたくにお、1875年(明治8年)7月31日-1962年(昭和37年)8月8日)は日本の民俗学者。現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれで、晩年に名誉町民第1... |
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櫻内幸雄
日本の実業家、政治家。元衆議院議員。商工大臣、農林大臣、大蔵大臣など歴任。旧雲州広瀬藩士大参事・櫻内和一郎の長男。元中国電力会長櫻内乾雄、元衆議院... |
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新渡戸稲造
流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。拓殖大学名誉教授。 |
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近衛文麿
日本の政治家。勲等は勲一等。爵位は公爵。新字体で近衛文麿とも表記される。貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、内閣総理大臣(第34... |
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プロフィール
石黒忠篤(いしぐろただあつ、1884年(明治17年)1月9日-1960年(昭和35年)3月10日)は、日本の農林官僚、政治家。「農政の神様」と称せられ、彼が農商務省・農林省幹部として政策に関与した時期の農政は、「石黒農政」と呼ばれている。妻は 穂積陳重の次女。息子に石黒孝次郎、 石黒光三。
経歴・略伝
| 1884年(明治17年)1月9日、石黒忠悳の長男として、東京に生まれる。 |
| 1896年(明治29年)、高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。 |
| 1901年(明治34年)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。 |
| 1908年(明治41年)、第七高等学校造士館(鹿児島大学の前身)を経て東京帝国大学法科大学を卒業後、農商務省に入省。 |
| 1910年(明治43年)、新渡戸稲造宅で柳田國男らと郷土会を開く。 |
| 1914年(大正3年)、ヨーロッパに農政を研究するため留学する。 |
| 1919年(大正8年)、農務局農政課長。 |
| 1924年(大正13年)、農務局小作課長。 |
| 小作慣行調査、小作調停法案作成に関わる。 |
| 農林省農務局長、蚕糸局長を歴任。 |
| 1931年(昭和6年)、農林次官に就任。 |
| 1934年(昭和9年)、農林省を退官。 |
| 農村厚生協会会長、産業組合中央金庫理事長などを歴任。 |
| 1940年(昭和15年)、第2次近衛内閣の農林大臣に就任。 |
| この間、農業報国連盟理事長、満州移住協会理事長、日本農業研究所理事長を歴任している。 |
| 農業振興、農村救済に取り組み、戦前における農政の第一人者として「農政の神様」と称せられた。 |
| また大正末期以降、小作立法制定に精力を費やした石黒であったが、1930年代には満蒙開拓移民に小作問題解決の途を見いだし、加藤完治とともにその推進役となった。 |
| また、戦争に対する態度としては日独伊三国軍事同盟に閣内では唯一最後まで反対していたという。 |
| 1941年(昭和16年)、病気のため大臣を辞任、この年父・忠悳が死去したが、父の遺言により子爵の爵位を相続せずに返上している。 |
| 1943年(昭和18年)、貴族院議員勅撰(1月14日、東郷茂徳の誘いで2月5日無所属倶楽部入会)。 |
| 1945年(昭和20年)、鈴木貫太郎内閣の農商大臣に任命される。 |
| 1946年(昭和21年)、公職追放される(2月16日に貴族院議員辞職)。 |
| 1952年(昭和27年)、公職追放解除後、第2回参議院議員補欠選挙に静岡県選挙区から立候補し、当選する。 |
| 1960年(昭和35年)3月10日、死去。 |
| 叙従二位、叙勲一等授旭日大綬章。 |
| 参議院議員時代は、緑風会に所属し、同会で議員総会議長を務める。 |
| 憲法調査会委員も務めたほか、戦後も全国農民連合会会長、全国農業会議所理事、全国農業協同組合中央会理事等、農業関係諸団体の要職を歴任した。 |
| だが、七高時代からの親友で鈴木内閣で同じ閣僚であった東郷茂徳(元外務大臣、極東国際軍事裁判で有罪となり獄死)との約束を守り、国政上の要職への就任は一切断って農業の再建と平和主義の推進に力を尽くした。 |
| ちなみに憲法27条1項の勤労の義務条項の制定は敗戦後の混乱下で日本人が二宮尊徳以来の勤労の美徳を失う事を恐れた石黒が友人の代議士の竹山祐太郎に相談して、竹山が勤労の重要性を新憲法でも取り上げるべきだと主張した事がきっかけであったといわれている。 |
関連書籍
| 橋本伝左衛門ほか監修『石黒忠篤伝』岩波書店、1969年。 |
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