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つながりの強いひと
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後朱雀天皇
平安時代中期の第69代天皇(在位:長元9年4月17日(1036年5月15日)-寛徳2年1月16日(1045年2月5日))。諱は敦良(あつなが)。 |
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三条天皇
三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日)-寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ/いやさだ)。享年42。在... |
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藤原道長
母
藤原道長(ふじわらのみちなが)は平安時代中期の公卿。従一位・摂政・太政大臣・准三后。京都生まれ。藤原兼家の五男(四男という説もある)で、母は摂津守... |
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後三条天皇
第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日)-延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。享年40。 |
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大正天皇
日本の第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。明治以降で初の一夫一妻制をとった天皇。 |
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後冷泉天皇
日本の第70代天皇(在位:1045年-1068年)。父後朱雀天皇。母藤原道長女藤原嬉子。諱を親仁(ちかひと)という。紫式部の娘大弐三位が乳母である。 |
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白河天皇
第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日)-応徳3年11月26日(1087年1月5日))。諱を貞仁(さだひと)という。 |
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後一条天皇
平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月24日)-長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。 |
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藤原妍子
母
摂政藤原道長の次女。母は源倫子。第67代三条天皇中宮。別名枇杷殿皇太后。子女は禎子内親王(後朱雀天皇皇后)。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・威... |
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娟子内親王
第67代後朱雀天皇第2皇女。母は皇后禎子内親王。賀茂斎院、のち源俊房の室。同母姉に良子内親王(伊勢斎宮)、同母弟に第69代後三条天皇がいる。父・後朱雀天... |
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堀河天皇
堀河天皇(ほりかわてんのう、承暦3年7月9日(1079年8月8日)-嘉承2年7月19日(1107年8月9日))は平安時代後期の第73代天皇(在位:応徳3年11月26日(1087年... |
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一条天皇
平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年7月31日)-寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 |
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篤子内親王
第71代後三条天皇の第4皇女。母は滋野井御息所藤原茂子(藤原能信養女)。同母兄に白河天皇。賀茂斎院、のち堀河天皇の皇后(中宮)。康平5年(1062年)に3歳... |
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章子内親王
時の白河天皇女御藤原賢子を立后させるためだったともいわれ、非国母の故か院分受領は給わっていない)。余りにも濃すぎる血縁関係のためか、夫帝との間には... |
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藤原頼通
平安時代の公卿。藤原北家、太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣・准三宮。幼名は田鶴。通称宇治殿。法名は蓮花覚、後に寂覚。父道... |
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藤原彰子
第66代一条天皇の皇后(号は中宮)。第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号を上東門院といい、のち大女院などとよばれた。女房に『... |
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藤原賢子
第72代白河天皇中宮。父は右大臣源顕房、母は源隆俊の女隆子。太政大臣藤原師実の養女。延久3年(1071年)3月9日、東宮貞仁親王(白河天皇)に入内する。同5... |
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鳥羽天皇
鳥羽天皇(とばてんのう、康和5年1月16日(1103年2月24日)-保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9... |
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冷泉天皇
日本(平安時代中期)の第63代天皇。村上天皇の第二皇子で、諱は憲平(のりひら)。母は藤原師輔の娘中宮安子。円融天皇の同母兄。 |
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藤原嬉子
摂政藤原道長の六女。母は源倫子。第69代後朱雀天皇尚侍、第70代後冷泉天皇生母。同母の兄弟に頼通・教通、上東門院彰子・妍子・威子。 |
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プロフィール
禎子内親王(ていしないしんのう、長和2年7月6日(1013年8月15日)-寛治8年1月16日(1094年2月3日))は、第67代 三条天皇の第3皇女で、第69代 後朱雀天皇の皇后、女院。「ていし」は有職読みで、実際の読みは「さだこ」または「よしこ」だったと推測されている。母は摂政 藤原道長の娘で皇后の妍子。院号は陽明門院。子女は尊仁 親王( 後三条天皇)、伊勢斎宮 良子内親王、賀茂斎院 娟子内親王。
生涯
| 長和2年10月(1013年)、内親王宣下を受け、同4年着袴、三宮に准ぜられる。 |
| 禎子内親王の誕生は祖父道長と父三条天皇の間がしっくりいかない最中のことであり、それだけに皇子誕生で関係改善を期していた道長は女子の誕生に不機嫌であった。 |
| しかし三条天皇はこの末の皇女に非常に愛情を注ぎ、道長ものちにはその外孫にふさわしく遇して、着裳の際には伯母の太皇太后彰子が腰結いの役をつとめている。 |
| 治安3年(1023年)上東門院にて着裳、一品に叙される。 |
| 万寿4年(1027年)、皇太子敦良親王に入内。 |
| 叔母の皇太子妃嬉子の死後、当時叔父教通に娘がいたにもかかわらず、道長の意向で禎子が敦良と結婚していることからも、道長一族のひとりとして大切にされていた様子がうかがえる。 |
| 長元2年(1030年)良子内親王を、同5年(1032年)娟子内親王を出産したのち、同7年(1034年)尊仁親王を出産した。 |
| 長元9年、夫の皇太子敦良が即位(後朱雀天皇)。 |
| 同10年2月(1037年)、中宮に冊立されるが、3月嫄子(藤原頼通養女)の立后で皇后宮に転じる。 |
| このころから、禎子と摂関家の関係は急速に悪化していったらしい。 |
| 頼通や教通らが次々と娘たちを入内させる一方で、皇后でありながら禎子はほとんど宮中入りすらままならなかった。 |
| そんな禎子を陰で支えたのは頼通・教通らの異母弟能信であった。 |
| 『今鏡』の伝えるところによれば、中宮大夫でもあった彼の働きで、禎子所生の尊仁親王は異母兄後冷泉天皇の皇太弟になることができたという。 |
| 寛徳2年(1045年)後朱雀天皇が崩御。 |
| 後冷泉天皇が即位し、尊仁が立太子する。 |
| 同年7月、禎子は出家する。 |
| 永承6年(1051年)皇太后となる。 |
| 治暦4年(1068年)後冷泉天皇の崩御により、尊仁親王が即位(後三条天皇)。 |
| 後冷泉の中宮章子が皇太后に、同じく女御歓子が皇后に、皇后寛子が中宮になったことにともない太皇太后となる。 |
| 同5年女院を宣下され陽明門院(ようめいもんいん)を号す。 |
| 禎子もいまや国母として、かつての上東門院彰子にも劣らぬ影響力を持つに至った。 |
| そののち後三条天皇は在位5年余りで譲位、間もなく崩御したが、陽明門院は忘れ形見の孫娘篤子内親王を養女として愛育するようになる。 |
| しかし後三条天皇の後を継いだ白河天皇は、父の遺命に背き、異母弟輔仁親王を皇位継承から排除して、我が子善仁親王(後の堀河天皇、陽明門院からみれば曾孫にあたる)への譲位を強行した。 |
| これに陽明門院が激怒して一時両者の間が疎遠となる。 |
| だが、白河上皇もいつまでも実の祖母と仲違いを続ける訳にはいかず、篤子を堀河天皇に入内・立后させた。 |
| これを見届けたのち、寛治8年(1094年)疱瘡で崩御した。 |
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1013年
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内親王宣下を受け、同4年着袴、三宮に准ぜられる |
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1027年
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皇太子敦良親王に入内 |
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禎子内親王さんについてのひとこと紹介
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