| 愛称は「はっちゃく」で本人のブログでも使われている。 |
| また「はっちゃく」という地酒も発売されている。 |
| 元々右利きだが、幼少時の怪我が原因で左投げに転向した。 |
| ちなみに足は左利きである。 |
| 1993年のドラフトで千葉ロッテマリーンズに投手として7位指名され入団。 |
| しかし半年で3回肩を壊し打者に転向。 |
| 入団4年目の1997年に振り子打法を引っさげ一軍デビュー、即座に一塁のレギュラーに定着。 |
| しかしその後は石井浩郎、ボーリック、初芝清などにポジションを譲り外野を守ることも多くなった。 |
| 2001年に一塁手に復帰し、才能が開花。 |
| 7年連続首位打者のイチローがメジャーリーグに渡った最初の年に、小笠原道大(当時・日本ハム)との熾烈な争いを制し打率.346で首位打者を獲得。 |
| また18本塁打を放ち、初芝清以来不在だったロッテの和製大砲としての期待にも応えた。 |
| 2002年はタイトルホルダー故の厳しいマークに遭い17死球を受けるも打率3割を記録。 |
| 2003年には全140試合に出場し、打率3割、50二塁打に加え21本塁打も記録。 |
| 外国人選手起用の都合上で夏場に3年ぶりに外野を守ったが、2試合で元に戻された。 |
| また初めて一塁手部門でゴールデングラブ賞を獲得。 |
| 2004年、韓国で56本塁打を記録した李承燁が入団したが、この年も打率.31411HRと安定した実力を見せ一塁のレギュラーを守った。 |
| 2005年は故障もありやや低調なシーズンだったが、終盤の追い込みで辛うじて5年連続の打率3割を達成。 |
| チャンスでの強さは変わらず、ロッテのプレーオフ進出に大きく貢献した。 |
| そのプレーオフでも好調を維持し、ロッテの31年ぶりのリーグ優勝に貢献した。 |
| 日本シリーズ第3戦では阪神の桟原将司から満塁本塁打を放った。 |
| アジアシリーズでは腰痛のため選手登録はされなかった。 |
| また、この年にはリーグトップの犠飛(9本)を打っている。 |
| 2006年4月、初の月間MVPを受賞。 |
| また7月に死球により左手を骨折し、約1か月間の戦線離脱もあったが、6年連続の打率3割を達成。 |
| 成績は打率.312、4本塁打。 |
| 同年、FA権を取得。 |
| 2007年は開幕から故障し、5月までは3割を維持して復帰直後こそ高打率だったものの、怪我の影響で打率を徐々に落とし、打率.258、本塁打4という自己最低の成績に終わってしまった。 |
| 前年まで左投手に対して3割近く打っていたが、この年は打率.181に終わった。 |
| しかし勝負強さは健在で、得点圏打率は.339だった。 |
| 更に打点は57と前年より多かった。 |
| 規定打席にはわずか1打席足りず届かなかった。 |
| それでも守備では往年の動きが健在で、自身3度目のゴールデングラブ賞を獲得。 |
| オフには複数年契約が切れ、メジャー挑戦も視野に入れたFA宣言も噂されたが、宣言せずに残留した。 |
| 2008年も怪我をし、前年度の自己最低記録を更新してしまった。 |
| 復帰後はDHや代打での出場が多くなった。 |
| 2009年 シーズン当初はここ数年同様低調で打率は2割前半に沈み、またチャンスに弱く得点圏打率は1割台、長打率も2割台後半まで低くなり打順は主に2番や8番で堀幸一やゲイリー・バーナム・ジュニアと併用されていたが、8月後半から徐々に調子を上げ、勝負強さと長打力を取り戻しシーズン終盤には再び3番に定着、3割には届かなかったものの2年ぶりに100安打、3年ぶりに規定打席に到達した。 |
| 2010年は、金泰均の加入で主にDHや代打の切り札として出場。 |
| この年はここ数年の不振から脱却し、序盤は7番や代打で出場していたものの後半戦は里崎智也、サブローの離脱や大松尚逸の不振から6番や5番を打つことも多くなり、9月8日の対オリックス戦では不振の金泰均に代わって、7年ぶりに4番でのスタメン出場を果たした。 |
| 5月13日の対横浜戦(横浜スタジアム)にて6回表1死満塁の場面で代打出場し、真田裕貴から、ライトポール際へ大飛球を放ち、最初は一塁塁審にファールを宣告されるも、2010年から導入されたビデオ判定により本塁打と認定され代打逆転満塁ビデオ判定弾となった。 |
| ビデオ判定導入以降ファウルが本塁打に覆ったのは初。 |
| 規定打席には到達しなかったものの最終的に打率は.295を記録し、ここ数年減少していた本塁打も13本と2004年以来の2桁を記録した。 |
| また、指名打者部門でベストナインに選ばれた。 |
| ベストナイン受賞は自身初である。 |