| 1989年、日本サッカーリーグ2部の三菱重工業サッカー部(後に三菱自動車工業へ移管)に加入。 |
| 三菱重工は、このシーズンから2部へ降格しており、当初予定されていたブンデスリーガのクラブへの留学も取りやめとなっていた。 |
| エースの原博実が肝炎により戦線を離脱すると斉藤和夫監督により開幕からレギュラーに抜擢。 |
| ルーキーながら36得点という圧倒的な力を見せ得点王に輝き、三菱重工を1年で1部に復帰させる原動力となった。 |
| 1990年、日本代表に初選出。 |
| 同年7月27日のダイナスティカップの韓国戦で代表デビューを飾るとレギュラーへ定着し(後述)、同年9月のアジア競技大会にも出場した。 |
| しかし、代表では右ウイングバックという本来とは違うポジションを与えられ得点よりも守備に忙殺されていた。 |
| このため福田自身はウイングバックへの起用に不満を抱き代表辞退も考えていた『ミスターレッズ福田正博』48-52頁。 |
| 1991年、関係者の慰留もあって代表辞退を撤回。 |
| 同年5月のキリンカップでは最終戦のトッテナム・ホットスパー戦にて、北澤豪の決勝点をアシストする活躍などで初優勝に貢献した。 |
| また同年には所属する三菱のプロリーグ参加が決定したこともあってプロ契約を結んでいる『ミスターレッズ福田正博』53-55頁。 |
| 1992年、ハンス・オフトが監督に就任。 |
| 5月のキリンカップサッカーでは代表に選出されたが、2試合連続で控え選手にも選ばれず不満が募り、オフトに猛抗議をおこなった『ミスターレッズ福田正博』58-59頁。 |
| この一件で代表から外されることも覚悟していた福田だったが、6月のオランダ遠征でも引き続き招集を受け攻撃的MFのポジションを獲得。 |
| この遠征でオフトの信頼を受けると8月のダイナスティカップや11月のAFCアジアカップ優勝に貢献し、オフト率いる代表チームにおいて欠くことのできない選手の一人となっていった。 |
| 同年には所属する三菱がプロリーグ設立に伴い浦和レッドダイヤモンズと改称。 |
| 森孝慈監督の下で攻撃的サッカーへの転換を図ったチームの中でもエースとして牽引。 |
| エスクデロ、柱谷幸一、福田で構成される3トップでナビスコカップ5位、天皇杯全日本サッカー選手権大会ベスト4進出に貢献した。 |
| 1993年、Jリーグ開幕。 |
| サッカー専門誌では前年の好成績もあって浦和の評価は高かったが、成績は低迷しサントリーシリーズ、NICOSシリーズ共に最下位に終わった。 |
| 福田自身も代表チームへの招集やプロとしての重圧に苦しみ精彩を欠くことが多かった『ミスターレッズ福田正博』64-78頁。 |
| 日本代表では1994FIFAワールドカップ1次予選ではレギュラーとして活躍したものの、最終予選では調子を落とし第2戦のイラン戦後はスタメンから外れ、最終戦のイラク戦(いわゆるドーハの悲劇)は途中交代での出場であった。 |
| 1994年、浦和では前年同様に成績が低迷。 |
| 福田はサントリーシリーズ(1stステージ)のベルマーレ平塚戦で1試合4得点の活躍があったものの、スポーツヘルニアに苦しみ長期離脱。 |
| ミヒャエル・ルンメニゲの紹介で菊原志郎と共にドイツに渡って治療を受けた『ミスターレッズ福田正博』90-96頁。 |
| 代表ではオフトに代わってブラジルのパウロ・ロベルト・ファルカンが監督に就任したが怪我の影響もあって招集されることはなかった。 |
| シーズンオフには福田の去就が報じられ、自身も移籍を直訴したが最終的に残留を決断した『ミスターレッズ福田正博』98-102頁。 |
| 1995年、ホルガー・オジェックが監督に就任すると福田はそれまでの鬱憤を晴らすかのように実力を発揮。 |
| MFのウーベ・バインとのコンビネーションで得点を重ね、日本人選手初のJリーグ年間得点王となり、チームもサントリーシリーズでは優勝争いに絡むなど3位と成績を向上させる原動力となった。 |
| シーズン終了後にはベストイレブンにも選ばれた。 |
| 日本代表へも復帰を果たし、2月のダイナスティカップや6月にイングランドで開催されたアンブロカップに出場。 |
| 8月に行われたブラジルとの親善試合では前年のワールドカップ優勝国を相手に得点を記録している。 |
| また、同年12月8日にはアジアサッカー連盟の月間最優秀選手に選出されている。 |
| 1996年、この時期から福田のサッカー人生は怪我との戦いとなった。 |
| 1996年シーズン開幕直前に負傷すると8月には練習中に左足首を骨折しリーグ戦4試合の出場に終わった。 |
| 翌1997年は左足首手術の際に埋め込まれたプレートの影響による痛みに終始苦しめられたものの、29試合で21得点を記録した。 |
| 前年にはオジェック監督やバイン、同年10月にはギド・ブッフバルトといった功労者がチームを去っていったが、エースとしてチームを牽引した。 |
| 1998年には痛みの原因となっていた左足首のプレートを除去したが、左足付け根の肉離れが再発しリハビリと復帰を繰り返した。 |
| 1999年、シーズン途中に原博実監督が成績不振により解任されると後任のア・デモス監督との確執もあって控えに回ることが多くなり、チームも2部リーグへと降格した。 |
| 2000年に入っても福田のコンディションは上がらず、ポーランドからアンジェイ・クビツァが加入した事もあって12試合の出場に留まった。 |
| 2001年、チームも外国人選手、スタッフも従来のヨーロッパ路線からブラジル路線へと転換を図っていたが福田は出場機会を与えられることは少なく14試合出場に留まった。 |
| 2002年、日本代表時代に指導を受けたハンス・オフトが監督に就任。 |
| 「最後のシーズンのつもりで戦う」決意で挑んだ2002年シーズンはオフトの下で様々なポジションで適性を試され、拘り続けたストライカーではなく中盤に下がり右サイドハーフを務めるようになり、2ndステージに入るとに守備的MFへとポジションを移した。 |
| この年の2ndステージでは開幕から9試合負けなし(8勝1分)を成し遂げ首位に立つなど優勝争いに加わり、同年のナビスコカップでは準優勝に貢献した。 |
| 2002年シーズンを最後に、日本代表時代の同僚であった井原正巳とともに現役を引退した。 |
| 翌2003年6月15日には埼玉スタジアム2002で、5万人以上の観衆を集めて引退試合が行われた |
| その年に浦和は初タイトルを獲得するのだが、福田は浦和での選手生活を通じてタイトルを獲得することはできなかった。 |