| こののち天正18年に奥州仕置がなされ、天正19年(1591年)には太閤検地がおこなわれた。 |
| 湊合戦は、豊臣秀吉によって惣無事令違反と見なされて一時問題となったものの、実季の中央工作もあって出羽国内の所領7万8,500石余のうち約5万2,440石の安堵が認められた(ただし、実高は15万石におよんだといわれる)。 |
| 旧領の3分の1にあたる約2万6,000石は太閤蔵入地として没収され、実季はその代官に任じられた蔵入地は秋田郡の八郎潟南東岸や豊島郡(のちの河辺郡)の肥沃な土地が多く、実季領と入り組んでいた。 |
| 今村(1969)p.66。 |
| ここで重要なのは、永年にわたる係争の地であった比内(のちの北秋田郡)の領有が確定されたことで、比内を地盤とする浅利氏・嘉成氏の領主権は否定された。 |
| そして、秋田(南秋田郡)・檜山・比内のいわゆる秋田下三郡に加え、豊島郡(河辺郡)を有する大名としての地歩がかためられた。 |
| なお、太閤蔵入地設定の理由としては、蔵米輸送ないし地払いによる運上収益よりもむしろ秋田杉運上のためと考えられている今村(1969)p.66。 |
| 秋田杉運上は、文禄2年(1593年)の前田利家建造の安宅船の船材運上にはじまり、淀舟材木、橋板を経て、慶長2年(1597年)以降は伏見作事用板(太閤板)の運上として固定した。 |
| また、領内の土崎湊(現在の秋田港)、能代湊(能代港)の2港を整備して、領国経済を確立させ、両港および越前国敦賀湊(福井県敦賀市)などでは米のほか木材を販売している塩谷(1987)「秋田杉と手工業」pp.101-102今村(1969)p.66-67。 |
| 250px|right|thumb|湊城跡地に鎮座する土崎神明社。 |
| 奥州仕置後、実季はあらためて平城として雄物川河口の土崎湊に堀をともなう湊城を築いて本拠をここにうつし、秋田城介を号して秋田氏を名乗った。 |
| また、大館城(大館市)・脇本城(男鹿市)・馬場目城(五城目町)などの要地に功臣・一族を配して、比較的安定した領国支配を築いた。 |
| 天正18年(1590年)、実季は秀吉より小田原攻めへの参陣を命じられ、これに従った。 |
| 豊臣秀次を総大将とする天正19年(1591年)の九戸政実の乱における九戸討伐軍、文禄元年(1592年)よりはじまる朝鮮出兵にも参陣している。 |
| 文禄2年(1593年)の朝鮮出兵(文禄の役)での渡海割当は、『浅野家文書』によれば134名であった藤木(1978)pp.230-233『浅野家文書』によれば、東北地方の大名の割当は、蒲生1,500名、伊達500名、最上300名、南部100名、由利五人衆88名、本堂25名、大崎10名であった。 |
| 天正19年の『覚上公御書集』では蒲生3000名、最上500名、秋田250名、南部200名、津軽150名となっている。 |
| なお、『覚上公御書集』記載の員数は渡海割当だけではなく、それを含む軍役の総数である。 |
| 藤木(1978)pp.230-233。 |
| 文禄年間にはまた、自領の一部について検地をおこなった形跡がある加藤「豊臣政権と秋田地方」(1982)pp.202-204。 |
| 文禄3年(1594年)成立とみられる『秋田城之助殿分限帳』では秋田領は9万8,500石、蔵入地2万9,000石余と算定された加藤(1982)pp.199-200『秋田城之助殿分限帳』によれば、蔵入地2万9,000石余については実季の家臣13名が代官となって村落の支配にあたっており、代官13名は重臣から軽輩までさまざまな階層の家臣より成る。 |
| 実季直領は1万700石余で一族重臣による代官24名による支配がなされる。 |
| 一族重臣24名は「三ケ一代官衆」ととばれてその分の石高は2万3,200石余、一般家臣には多種多様な家臣を含む97名で、その分は3万1,000石余であった。 |
| それ以外に、特定の職能にもとづく軽輩を主体とする直属家臣団があり、鉄砲衆45名1,250石、御鎧衆24名514名、飛脚衆12名151石という内訳であった。 |
| 他に寺社領として2,303石があてられていた。 |
| 加藤(1982)pp.199-200。 |
| 文禄3年から文禄4年(1594年)にかけては、比内の浅利氏とのあいだに小競り合いが生じている。 |
| 史料には比内南西部の村がこのとき「秋田よりなてきり」「秋田より放火」との記録がのこる。 |
| 浅利氏の家老であった片山弥伝(比内中野)、浅利七兵衛(十二所)、浅利内膳(八木橋)らは、これを機に直接、実季にしたがうこととなった。 |
| 慶長4年(1599年)から翌年にかけては本拠湊城の大規模な改築をおこなっている湊安東氏は長期にわたって秋田市高清水丘の古代秋田城を利用していた。 |
| 湊城が土崎の地にうつったのは織豊政権期に入ってからであり、一国一城令によって廃城となったのちに現在曳山行事で有名な土崎神明社が建てられた。 |
| 塩谷(1987)p.117。 |
| そこには、多数の大工・鍛冶・大鋸引・葺士・壁ぬりが参加したことが記録にのこされている塩谷(1987)「秋田杉と手工業」pp.117-118。 |