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つながりの強いひと
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立原杏所
親
江戸時代中期から後期にかけての武士、南画家。本姓は平氏。家系は常陸平氏大掾氏の一門・鹿島氏の庶流といい、鹿島成幹の子・立原五郎久幹を祖とする立原氏... |
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安島帯刀
妻 親
幕末に活躍した水戸藩の家老。安政の大獄で切腹を命じられた。維新後、靖国神社・護国神社・回天神社に合祀された。信立は諱で、通称ははじめ弥次郎(旧字体... |
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立原道造
昭和初期に活動し24歳で急逝した詩人。また建築家としても足跡を残している。父は立原貞次郎(婿養子)、母は立原登免(通称光子)。次男として生まれる。先祖に... |
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立原翠軒
親
立原翠軒(たちはらすいけん、延享元年6月7日(1744年7月16日)-文政6年3月4日(1823年4月14日))は江戸時代中期~後期の水戸藩士。学者として5代藩主徳川宗... |
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藤田小四郎
藤田小四郎(ふじたこしろう、1842年(天保13年)-1865年3月20日(元治2年2月23日))は幕末に活躍した水戸藩士。水戸天狗党の首領格。贈従四位。 |
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徳川慶篤
江戸時代後期の大名。常陸水戸藩第10代藩主。諡号は順公。最後の将軍・徳川慶喜の同母・長兄。 |
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茅根伊予之介
幕末の水戸藩士。本姓は藤原氏。家系は常陸国の豪族小野崎氏の一門茅根氏。諱は為宜、泰。字は伯陽、士誠。号は寒緑。父は茅根伊左衛門為俊、母は増子幸八郎... |
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田丸稲之衛門
田丸稲之衛門(たまるいなのえもん、文化2年(1805年)-慶應元年2月4日(1865年3月1日))は幕末期の志士。本姓は源氏。家系は村上源氏の名門 中院家の流れ... |
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里見四郎左衛門
幕末の尊王志士。代々水戸藩士の家に生まれる。当主は里見四郎左衛門の名を襲名した。里見四郎左衛門親長。親候の子。水戸藩旗奉行。元治元年、諸生党と戦い... |
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徳川斉昭
江戸時代末期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。 |
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武田耕雲斎
幕末の人。水戸藩の天狗党の首領。本姓は源氏。家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の傍系 甲斐源氏の流れで小笠原氏の庶流にあたる跡部氏。位階は贈正四位。 |
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松平頼徳
江戸時代の大名。水戸藩の支藩である常陸宍戸藩の第9代藩主。第8代藩主・松平頼位の長男。水戸市回天神社祭神。母は松平保福の娘。正室は松平頼儀の三男・松... |
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戸田忠太夫
戸田忠太夫(とだちゅうだゆう、文化元年(1804年)-安政2年10月2日(1855年11月11日))は水戸藩の政治家。水戸藩家老。尊王志士として活躍した。本姓は源氏... |
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鳥居瀬兵衛
鳥居瀬兵衛(とりいせべえ、文化7年(1810年)-元治元年10月5日(1864年11月4日))は幕末期の水戸藩士。本姓は平氏。家系は譜代大名 鳥居氏の一門。諱は信... |
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榊原新左衛門
榊原新左衛門(さかきばらしんざえもん、天保5年(1834年)-慶應元年4月5日(1865年4月29日))は幕末期の政治家であり尊皇志士諱は照煦。仮名は新左衛門。幼... |
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尼子長三郎
尼子長三郎(あまこちょうさぶろう、文政元年(1818年)-文久3年(1863年))は幕末の志士。家系は宇多源氏の血筋にて佐々木氏(京極氏)の一門たる尼子氏。... |
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戸田銀次郎
戸田銀次郎(とだぎんじろう、文政12年(1829年)9月-慶應元年7月5日(1865年8月25日))は幕末期の政治家であり、水戸藩家老を務めた。諱は忠則。字は孝甫。... |
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家老
妻
武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。 |
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尼子久次郎
尼子久次郎(あまこきゅうじろう、弘化3年(1846年)-元治元年12月17日(1865年1月14日))は幕末の志士。本姓は源氏。家系は戦国大名・尼子氏の末裔。諱は久... |
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吉成恒次郎
幕末の志士。明治時代の官吏。本姓は坂上氏。家系は坂上氏の流れを汲む田村氏の庶流。但し、本家・田村氏には平氏説あり。諱は一徳。仮名恒次郎。変名は鈴木... |
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プロフィール
立原朴次郎(たちはらぼくじろう、天保3年6月18日(1832年7月15日)-元治元年8月23日(1864年9月23日))は水戸藩士。本姓は平氏。家系は常陸平氏大掾氏の一門鹿島氏の庶流立原氏。幕末の志士として天狗党の乱で活躍、討ち死にする。水戸藩彰考館総裁 立原翠軒の孫で 立原杏所の三男。兄の元三郎、清彦の死により嫡男となり家督を継ぐ。母は山崎重左衛門元儔の女。妻は水戸藩家老・ 安島帯刀の長女。幼名は百里。通称は朴次郎、諱は瓚、号は祐堂、千。墓は常澄村六地蔵寺。妻安島氏との間に長男萬之介と長女・羊子がいる。
生涯
| 天保3年(1832年)に江戸にある水戸藩小石川藩邸において誕生する。 |
| 同11年(1840年)には家督を継ぎ、200石、中之寄合となる。 |
| 同12年(1841年)、児小姓格式中奥小姓となり、嘉永3年(1850年)には中奥小姓に昇進した。 |
| 同6年(1853年)、定江戸小姓へと進み、安政3年(1856年)には武芸出精を賞されるなど武芸に秀でた。 |
| 同5年(1858年)、先手同心頭となり、藩主徳川斉昭が幕譴を受けるとこの雪冤に奔走。 |
| この年、安政の大獄が起こり、水戸藩士も多数捕縛されるなど世情は不安定なものとなった。 |
| 岳父である水戸藩家老・安島帯刀も幕府の疑義を受けて評定所に出頭を命ぜられるなど、藩内には緊張感が高まっていた。 |
| 安政6年(1859年)9月23日、岳父・安島帯刀が幕譴を受け切腹、その他、茅根伊予之介はじめ藩士の多くも斬首を命ぜられると水戸藩内の不満は一気に高潮していった。 |
| 万延元年(1860年)、朴次郎は混乱の中にあって武芸に精進し、再び武芸出精で賞された。 |
| 同年8月、目付に昇進。 |
| 文久3年(1863年)、将軍上洛に際しては、藩主徳川慶篤に随行して京都における尊皇攘夷の風潮に触れた。 |
| 元治元年(1864年)、田丸稲之衛門、藤田小四郎ら水戸藩の攘夷派が筑波山に挙兵すると、朴次郎は役目柄、これを説得しにいくこととなったがかえって説得されてしまう。 |
| 一連の藩内情勢の混乱を受けて、藩主慶篤が事態収拾を図り、支藩の宍戸藩主・松平頼徳に目代を命じて水戸城に派遣すると、水戸城内を牛耳っていた諸生党が頼徳が水戸藩天狗党をともなっていることを挙げて入城を拒否、尊王派と諸生派との間で戦いが起こった。 |
| 朴次郎も頼徳に随い、水戸城に派遣されていたが、諸生党の抵抗にあってこれと戦い、8月23日討ち死にした。 |
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1832年
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江戸にある水戸藩小石川藩邸において誕生する |
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1858年
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先手同心頭となり、藩主徳川斉昭が幕譴を受け... |
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