| 元亀2年11月1日、順慶は明智光秀と佐久間信盛の斡旋をもってして信長に臣従し、その支援を得ることで大和における所領を守った。 |
| 対する松永久秀は、信長と反目して15代将軍・足利義昭、武田信玄と結託していたが、順慶は久秀と和議を結んだ。 |
| 北小路城に久秀・久通父子を招待して猿楽を催すなど表面上はしばらく円滑な関係が続いた。 |
| だが元亀3年(1572年)になると久秀は反信長の態度をますます顕在化させ、つかの間の和睦も破綻することとなる。 |
| その後はしばらく小競り合いが続く。 |
| 臣従後、順慶は信長傘下として主に一向一揆討伐などに参戦して活躍した。 |
| 三好義継討伐(若江城の戦い)では先陣を務め、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいては信長に鉄砲隊50人を供出した。 |
| 同年8月の越前一向一揆攻略にも5000の兵を率いて参戦した。 |
| また信長の臣従に際しその証として母親と家臣2人を人質として差し出している。 |
| 翌天正4年(1576年)5月10日、信長により大和守護に任ぜられた。 |
| 5月22日には、人質として差し出していた順慶の母が帰国した。 |
| 母の帰国を許可されたことの返礼も兼ねて、順慶は築城中であった安土城を訪問、信長に拝謁し、太刀二振に柿、布などを献上し、信長からは縮緬や馬を賜っている。 |
| 天正5年(1577年)、順慶は他の諸将と共に反乱を起こした雑賀一揆を鎮圧した。 |
| 同年、松永久秀が信長に対して謀反を起こすと、信貴山城攻めの先鋒を務めている(信貴山城の戦い)。 |
| 手始めに片岡城を陥落させ、続いて信貴山城へ総攻撃が行われた。 |
| 10月10日、遂に城は陥落、久秀父子は自害して果てた。 |
| 信貴山城陥落については、順慶が本願寺の援軍と称して潜入させた手勢が内部から切り崩しを行い、落城に貢献したと『大和軍記』は伝えている。 |
| また、『大和志科』は、久秀の遺骸を順慶が回収し、達磨寺に手厚く葬ったと記述している。 |
| 『和洲諸将軍伝』にも、久秀の遺骸が達磨寺に葬られた旨の記述があるが、ここでは久秀の遺骸を回収し葬った人物は「入江大五良」と書かれている。 |
| 久秀父子の滅亡もあって、天正6年(1578年)に大和平定が果たされた。 |
| 同年、信長の命令により龍王山城を破却している。 |
| 同年4月、播磨攻めに参戦。 |
| 6月には神吉頼定が籠城する神吉城を攻撃している。 |
| 帰国後の10月には、石山本願寺に呼応した吉野の一向衆徒を鎮圧。 |
| 天正7年(1579年)には、信長に反旗を翻した荒木村重が篭る有岡城攻めに参加した(有岡城の戦い)。 |
| 天正8年(1580年)、居城を筒井城から大和郡山城へ移転する計画を立てていた所に、信長より本城とする城以外の城の破却を促す通達が寄せられる。 |
| 順慶は筒井城はじめ支城を破却し、築城した大和郡山城に移転した。 |
| 筒井城から大和郡山城へ拠点を移した根拠としては、筒井城が低地にあり、水害の影響を被りやすかったという問題があった。 |
| 同年、やはり信長の命令により大和一帯に差出検地を実施している。 |
| これに伴い、岡弥二郎・高田当次郎・戒重ら、かつて松永久秀に追従していた筒井家配下の人物達が、信長に一度離反した咎で明智光秀らの主導で処断された。 |
| 翌9年(1581年)には、かねてより確執があった吐田遠秀を闇討ちにして葬っている。 |
| 同年の天正伊賀の乱では他の武将と共に織田信雄に属し、大和から伊賀へと進攻、3700の手勢を指揮し、蒲生氏郷と共に比自山の裾野に布陣するが、伊賀衆の夜襲を受け、半数の兵士を失う苦戦を強いられる。 |