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つながりの強いひと
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斎藤一
幕末の武士。新選組隊士。明治時代の警察官。階級は警部。勲等は勲七等青色桐葉章。新選組では副長助勤、三番組組長、撃剣師範を務める。御陵衛士にも入隊。... |
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伊東甲子太郎
新選組参謀及び文学師範、のち御陵衛士(高台寺党)盟主。諱は武明。幼名を祐之、初名は大蔵(大藏)。号は誠斎。変名は宇田兵衛。「甲子太郎」は”きねたろう... |
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近藤勇
江戸時代末期の新選組局長、幕臣。勇は通称、諱は昌宜(まさよし)。慶応4年(1868年)からは大久保剛、のちに大久保大和。家紋は丸に三つ引。 |
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島田魁
新選組二番組伍長。守衛新選組隊長。嶋田ともいう。後に魁の訓を「さきがけ」と改めた。美濃国方県郡雄総村出身。諱は義明。家紋は丸に三つ鱗。 |
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沖田総司
幕末の武士、新選組一番組組長及び撃剣師範。本姓は藤原を称した。諱は春政、後に房良。幼名は宗次郎。 |
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吉村貫一郎
吉村貫一郎(よしむらかんいちろう天保11年(1840年)-慶応4年1月3日(1868年1月27日))。盛岡藩出身。新選組諸士取扱役兼監察方及び撃剣師範。北辰一刀流、新当... |
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永倉新八
幕末の武士(松前藩士)、新選組隊士、明治時代の剣術家。姓は長倉、諱は載之(のりゆき)。幼名は栄吉、栄治。松前藩を脱藩後、新選組に入隊し、二番組組長... |
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鈴木三樹三郎
幕末の武士、新選組九番組組長、御陵衛士、明治時代の警察官僚。幼名は多聞。伊東甲子太郎の実弟。 |
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阿部十郎
新選組隊士。別名は高野十郎。維新後は、隆明と改名。 |
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藤堂平助
新選組八番組組長、のち御陵衛士(高台寺党)。諱は宜虎(たかとら)。 |
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芹沢鴨
幕末の水戸藩浪士、新選組(壬生浪士)の初代筆頭局長。前名は下村嗣司。諱は光幹。本姓は平氏。家系は常陸平氏の平成幹の流れを汲むという芹沢氏。父は芹沢... |
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尾形俊太郎
新選組隊士。沖田総司や永倉新八などと同様の大幹部。諸士取調兼監察及び文学師範。五番組頭、副長助勤、目付も務めている。肥後国熊本藩出身。緒方、小形とも。 |
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毛内有之助
新選組隊士、御陵衛士。諱を良胤、通称は監物(けんもつ)。 |
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井上源三郎
新選組の六番組組長。諱は一武(かずたけ)。 |
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相馬主計
新選組隊士。名は肇、明治時代以降は主殿。箱館戦争に於いて新選組が降伏する際、戦死した土方歳三に代わって隊長として署名したため、新選組最後の隊長とも... |
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富山弥兵衛
新選組隊士、御陵衛士。通称は弥兵衛、四郎。諱は豊国。 |
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山崎烝
新選組諸士調役兼監察。摂津国大坂出身(山城国出身という説もある)、生家は医家または薬種問屋とされる。 |
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新見錦
新見錦(にいみにしき、天保7年(1836年)-文久3年9月13日(1863年10月25日)?)。水戸藩出身。新選組局長のち副長に降格。号は錦山(きんざん)。新選組の羽織... |
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プロフィール
篠原泰之進(しのはらたいのしん、文政11年11月16日(1828年12月22日)-明治44年(1911年)6月13日)は、江戸時代後期の志士。新選組諸士調役兼監察方及び柔術師範、のち御陵衛士(高台寺党)。幼名は泰輔、変名を篠塚友平、秦河内。維新後は、秦林親(はたしげちか)と改名。
来歴
| 筑後国生葉郡高見村(現在の福岡県うきは市浮羽町高見)の豪農・石工業者である篠原元助の長男として生まれる。 |
| 幼時より武芸を好み、久留米藩の森兵右衛門や種田宝蔵院流槍術師範に槍術と剣術を学ぶ。 |
| 1845年、良移心倒流柔術師範の下坂五郎兵衛に柔術を学ぶ。 |
| 1852年、藩士小倉一之進に仕えた後、家老有馬右近の中間となる。 |
| 1858年、有馬の江戸藩邸勤番に伴って上京し、北辰一刀流を学ぶ。 |
| 桜田門外の変の影響を受け、のちに尊王攘夷の志を抱いて水戸に滞在する。 |
| 1861年、江戸の揚心流柔術師範・戸塚彦介のもとに潜伏した後、旗本(講武所柔術師範)窪田鎮勝のもとに滞在して大攘夷論の影響を受ける。 |
| 翌1862年、大阪や京都にて尊攘志士と交わり、のち諸国を巡る。 |
| 1863年、神奈川奉行所の定番役頭取取締だった窪田鎮勝に従い、同奉行所に雇われ、横浜の外国人居留地警備に当たる。 |
| この頃、服部武雄や加納鷲雄、佐野七五三之助らと交遊を深める。 |
| 同年10月、イギリス人3名が税関に乱入したため、縛り上げて海岸に放置する等の暴行事件を起こして江戸に潜伏する。 |
| この頃、伊東甲子太郎と交遊を深める。 |
| 1864年10月、伊東や三木三郎など計7名で新選組加盟を前提に上京。 |
| 1865年に加盟し、諸士調役兼監察・柔術師範を務める。 |
| 近藤勇や伊東に重用され、1866年の長州征伐後の訊問使の一人として広島に下向している。 |
| 1867年3月、御陵衛士結成に伴って新選組を離脱。 |
| この頃、秦河内と称する。 |
| 油小路事件後は薩摩藩邸に匿われ、12月18日、篠原ら御陵衛士の生き残りは伏見街道にて近藤を襲撃する。 |
| 1868年の鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍の一員として戦う。 |
| 戊辰戦争では赤報隊に加わって投獄された後、釈放され、軍曹を拝命して会津や越後で戦功を上げた。 |
| 維新後は秦林親と改名。 |
| 戦功により永世士族の身分、恩賞金250両、終身8人扶持を賜る。 |
| 1869年に弾正台少巡察、1872年に大蔵省造幣使の監察役。 |
| のちに実業家に転身したものの、成功はしなかった。 |
| 晩年はキリスト教に入信する。 |
| 1911年に東京市青山にて死去。 |
備考
| 司馬遼太郎の小説『新選組血風録』では、死因は中耳炎で、普段から水でジャブジャブ耳を洗う癖が仇となったと記されているが(元ネタは子母澤寛の創作)、実際は天寿による大往生である。 |
| そもそも耳を洗う癖は無く、耳を患ったこと自体生涯に一度もなかったという(長男夫人談)。 |
| 『秦林親日記』は日記ではなく、本人が明治末年に執筆した回顧録である。 |
| 篠原の遺した手帳から、御陵衛士が英語を学んでいたとする説がある。 |
| 篠原は息子泰親の英語教育に熱心で、後年、建築家になった泰親は帝国ホテル建築に参加した際、設計者フランク・ロイド・ライトに可愛がられた。 |
| 泰親は子母澤寛との親交が深く、子母澤の新選組関連著作にも証言者として登場する。 |
| しかし篠原関連のエピソードには創作が多い。 |
| 父元助は入婿で、旧姓が秦である。 |
| 維新後の篠原は、伊東一派の新選組加盟の目的を、新選組を勤王に衣替えするためだったと語っている。 |
| 近藤は「徳川あっての今日だ」と言って聞き入れなかったと書き残している。 |
| 御陵衛士拝命は、篠原の尽力であったとされる。 |
| 篠原の神奈川奉行所勤務は、窪田が神奈川奉行所取締役に就任したことによる。 |
| 上京後、伊東らとは違い新選組には即座に加盟せず、大坂の谷万太郎道場に滞在するなど京坂を見学した後、慶応元年にいたって加盟している。 |
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1828年
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篠原 泰之進(しのはら たいのしん、文政11年... |
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1845年
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良移心倒流柔術師範の下坂五郎兵衛に柔術を学ぶ |
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篠原泰之進さんについてのひとこと紹介
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