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つながりの強いひと
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羽生善治
将棋棋士。二上達也九段門下。棋士番号は175。 |
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永世棋聖
独自の勝負観・人生観を展開しており、また8年間の東京都教育委員会の経験を生かして教育問題にも積極的に取り組んでいる。 2000年3月に米長邦雄個人のホーム... |
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中原誠
友達
将棋棋士。2009年3月、引退。十六世名人、および、永世十段・永世王位・名誉王座・永世棋聖という5つの永世称号を保持し、かつ、いずれも引退前から名乗る。... |
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本将棋
人間対人間、人間対コンピューターの対局が選べ、先手の飛車落ちなどのハンデや、コンピューターの強さを5段階から選択できるほか、王の守りを固める“穴熊”や... |
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谷川浩司
将棋棋士。若松政和七段門下。棋士番号は131。兵庫県神戸市須磨区出身。タイトル通算獲得数は歴代4位。永世名人(十七世名人)の資格を保持。日本将棋連盟棋... |
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大山康晴
将棋棋士。棋士番号26。木見金治郎門下。主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代1位)、棋戦優勝44回(歴代1位)、通算1433勝(歴代1位)等がある。十... |
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佐藤康光
将棋棋士。タイトル通算獲得数は、歴代6位。永世棋聖の資格を保持する。棋士番号は182。田中魁秀九段門下。いわゆる「羽生世代」の一人である。京都府綴喜郡... |
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渡部昇一
日本の英語学者、評論家。専攻は英語文法史。上智大学名誉教授、ミュンスター大学博士、ミュンスター大学名誉博士。 |
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加藤一二三
将棋棋士。実力制6人目の名人。剱持松二八段門下(当初は南口繁一九段門下)。棋士番号は64。 |
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藤沢秀行
尊敬
囲碁棋士。本名は藤沢保(たもつ)。その後秀行に改名、本来の名前の読みは「ひでゆき」だが、「しゅうこう」と呼ばれることが多く、「しゅうこう先生」の名... |
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内藤國雄
友達
将棋棋士。棋士番号77。兵庫県神戸市出身。藤内金吾八段門下。演歌歌手、詰将棋作家としても活動。レコードジャケット、音楽配信での氏名の表記は「内藤国雄... |
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中井広恵
LPSA(日本女子プロ将棋協会)所属の女流棋士。同協会初代代表理事(2007年5月-2010年5月)。以前は日本将棋連盟に所属し、当時の女流棋士番号は17。タイトル... |
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森内俊之
将棋棋士。十八世名人資格保持者。棋士番号は183。勝浦修九段門下。神奈川県横浜市出身。日本将棋連盟棋士会副会長(2009年4月-2011年3月)。 |
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島朗
将棋棋士。1980年度(昭和55年度)にプロ入りした強豪グループ、いわゆる「55年組」の一人であり、初代竜王。日本将棋連盟非常勤理事。東北統括本部長。棋士... |
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升田幸三
友達
将棋棋士。実力制第4代名人。広島県双三郡三良坂町(現三次市)生まれ。名前は正しくは「こうそう」と読むが、将棋界では「こうぞう」で通した。木見金治郎九... |
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野村克也
京都府出身の元プロ野球選手(捕手)・監督・野球解説者、野球評論家。所属事務所はエフエンタープライズ。血液型はB型。愛称は「ノムさん」。 |
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林葉直子
将棋の元女流棋士、タレント、作家、タロット占い師。福岡県福岡市出身。第一薬科大学薬学部中退。日本将棋連盟所属当時は、米長邦雄永世棋聖門下、女流棋士... |
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先崎学
将棋棋士。米長邦雄永世棋聖門下。棋士番号は185。青森県生まれ。いわゆる「羽生世代」と呼ばれることがある棋士の一人。彼らの中で先崎だけタイトル戦登場経... |
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居飛車
本 > ホビー・スポーツ > 囲碁・将棋 > 将棋 最強将棋21 四間飛車破り 居飛車穴熊編 著者 : 渡辺明 (著) 出版社名 : 浅川書房 発行年... |
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清水市代
日本将棋連盟所属の女流棋士。高柳敏夫名誉九段門下。女流棋士番号は19。タイトル通算獲得数は歴代1位であり、2位以下を大きく引き離している。日本将棋連盟... |
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プロフィール
- 米長邦雄とは
- 人物
- 弟子
- 交友
- 思想
- 会長として
- お色気
- その他
- 戦績
- 棋風
- 主な成績
- 関連サイト
米長邦雄(よねながくにお、1943年6月10日-)は、将棋棋士。2003年12月、引退。日本将棋連盟会長(2005年-)。タイトル獲得数19期は歴代5位。 永世棋聖の称号を保持し、引退前から名乗る。 佐瀬勇次名誉九段門下。棋士番号は85。東京都教育委員(1999年12月-2007年12月)、日本財団評議員。財団法人JKA(競輪、オートレース)評議員(2009年-)山梨県南巨摩郡増穂町(現・富士川町)出身。中野区立第八中学校、東京都立鷺宮高等学校卒業。中央大学経済学部中退(中央大学学員)。2003年11月、紫綬褒章受章。
人物
| 小学校3年の頃、周囲の大人達を負かすようになる「米長邦雄の本」より。 |
| 小学校6年の頃、師匠となる佐瀬勇次が米長の生家を訪れて、プロ将棋界へ進むことを勧めた。 |
| そのとき佐瀬が両親に言った言葉は、「息子さん(米長)は名人になれるかわからないが、八段にはなれます」であったという2004年7日2日放送の「徹子の部屋」より。 |
| 3人の兄は東京大学に進んだ。 |
| そのうちの一人である泰は、全日本学生名人戦で優勝を果たすなどアマチュア強豪として知られ、秋田工業高等専門学校教授として都市工学を専門とし、将棋の棋風分析の一人者としていられる。 |
| 「兄達は頭が悪いから東大へ行った。 |
| 自分は頭が良いから将棋指しになった」という言葉は有名である。 |
| ただし、実際に米長自身が発言したのかどうかははっきりしていないこの発言は、元々は芹澤博文による(米長がこう言ったという)冗談であり、本人はこのような発言をしていないという。 |
| しかし、あながち間違っていないと思い、積極的に訂正しなかったともしている(読売新聞・「時代の証言者」による)。 |
| ちなみにこれには続きがあり、その兄によれば「馬鹿でなければあんな奴の兄は務まらない」。 |
| 2009年1月9日に前立腺癌で放射線治療を受けていると発表した。 |
| 自身のホームページ「米長邦雄の家」の「癌ノート」に詳細を連載している。 |
| 参議院議員の米長晴信は甥。 |
交友
| 升田幸三とはウマが合い、「麦長君」とよばれて親しまれた。 |
| また、芹澤博文、内藤國雄とも親しい関係で、中原誠とも自称親友の間柄という。 |
| 趣味の一つに囲碁があり、『碁敵が泣いて口惜しがる本』という著書もある。 |
| 囲碁界の無頼派の棋士・藤沢秀行を尊敬して、兄事している。 |
| 大の将棋ファンであった山口瞳は米長のことを親しみを込めオランウータンというあだ名をつけた。 |
| このあだ名をもとに、大橋巨泉司会の「クイズダービー」に出演した際、「米長八段のあだ名は?」という問題が出て、正解は「オランウータン」だったが、米長は「いえ、あだ名はアラン・ドロンです」と切りかえした。 |
| 1993年の名人位獲得には、若手とともに研究を行ったことが大きな要因であったとされる。 |
| 米長は徹底的に自分の序盤戦術を洗い直す作業に取り掛かる。 |
| 名人戦では対局の合間に、当時島朗が主宰して、羽生善治、佐藤康光、森内俊之で構成された伝説の研究会「島研」に顔を出した当時は「将棋世界」誌などで米長の「島研」参加がセンセーショナルに報道されたが、真に序盤研究目的だったのか、中原名人(当時)に対する盤外戦術だったのかは不明。 |
| 特に道場の師範代格で、当時序盤研究の第一人者だった森下卓から、大きな示唆をもらったという。 |
| なお、米長道場は「若手に教えを請う」という姿勢で運営しており、米長は森下卓のことを「先生」と呼んでいた。 |
思想
| 「自分にとっては消化試合だが相手にとって重要な対局であれば、相手を全力で負かす」という理念を持ち、将棋界では「米長哲学(米長理論)」と呼ばれて広く認知されている。 |
| 著書『人間における勝負の研究』では、「何年間かのツキを呼び込む大きな対局であり、名人戦より必死にやるべき対局」と表現している。 |
| 第24期順位戦(1969年度)は、中原誠と同時にB級1組に昇級して迎えた。 |
| A級昇級争いは、12回戦まで終了した残り1局の時点で、内藤國雄が11勝1敗でぶっちぎりのトップ。 |
| もう1人の昇級枠を58歳の大野源一と22歳の中原誠が、ともに9勝3敗で争っていた(順位が上の大野のほうが中原より有利)。 |
| そして、大野にとって「勝てば昇級」の最終13回戦の相手は米長であった。 |
| その米長自身は7勝5敗で昇級にも降級にも絡んでいなかった。 |
| ところが、その一局で米長は、通常タイトル戦でしか着用しない羽織袴の姿で大野の前に現れ、手加減しない姿勢をあらわにした。 |
| 結果は、米長と中原がともに勝ったことにより大野はA級復帰を逃し、中原は米長の‘アシスト’によりA級に昇級した。 |
| なお、米長がA級昇級を果たしたのは翌年であったが、これについて前記の著書の中で、前年のことがあったからこそ昇級できたとの考えを述べている。 |
| 一時、株取引に熱中していたことがある。 |
| 「生活のことを考えたら、将棋が弱くなる。 |
| 他に収入があれば純粋に将棋が指せる」という考えのもとに、『米長流株に勝つ極意』という本を出すほどだった。 |
| しかし、電話1本で株の売買をするだけでお金が儲かるということに自ら疑念を抱き、株取引をする余裕をなくすために新居を購入したという。 |
| 産経新聞の『正論』執筆者に名を連ねるなど、保守的な立場に立った発言が多く、東京都教育委員を務めた期間中はそれが顕著であった。 |
| また2004年10月28日、秋の園遊会に招待された際に天皇と交わした会話が問題となった。 |
会長として
| 2003年、中原誠が会長になったのを受けて、日本将棋連盟の専務理事に就任。 |
| そして、2005年中原誠の後を受け、日本将棋連盟会長に就任。 |
| 名人戦の朝日新聞と毎日新聞による共催実現、瀬川晶司のプロ入り試験実現、日本女子プロ将棋協会(LPSA)の独立問題への対応など、個々の事例については批判もあるが、一定の実績を残している。 |
| また、将棋連盟の赤字体質改善のため、多くのリストラを行ったが、関西本部にあった「将棋博物館」を2006年に閉鎖し、収蔵品を大阪商業大学アミューズメント産業研究所に譲渡したことについては木村義雄十四世名人の娘などから批判を受けた『将棋博物館」閉鎖で木村名人の娘を怒らせた「米長会長」』週刊新潮2006年11月30日号。 |
| 将棋連盟会長となって以降も、自身のサイトからの情報発信に加え、前述の『正論』や東京中日スポーツの連載コラム「セブンデイズ」など個人の立場での寄稿を継続しているため、「個人的な発言なのか、連盟会長としての発言なのか」と将棋界を混乱させることもしばしばである。 |
お色気
| 若き日は端正な容貌であったため、将棋を知らない女性にも人気があった。 |
| そして独特の恋愛観を述べることも多かった。 |
| 「『させてくれ』と女にお願いしているうちは半人前である」「鍛練して『してください』と頼まれるようにならなければいけない。 |
| なおかつ、そのお願いに充分に応えられなくてはならない」『ふたたび運を育てる-ピンチとチャンスは同じもの』37頁 米長邦雄著 クレスト社1998年6月ISBN978-4-877-12069-6。 |
| 42歳のときには、写真週刊誌で鳥取砂丘でのヌード写真を掲載した写真週刊誌FOCUS1985年11月1日号新潮社。 |
| 平成10年版『将棋年鑑』(1998年)の棋士アンケートにおいて、「あなたのストレス解消法は」の質問に「口に出すわけにはいかない」と答え、「可能ならばやってみたいスポーツは」という質問には「段違い平行棒」と答えている。 |
| 2004-2005年に、ニッポン放送のケータイサイトで「米長邦雄のさわやかイロザンゲ」というタイトルのエッセイを週1回で連載した。 |
| 内容は、モテる秘訣、自身の過去についての赤裸々な告白、読者からの人生相談などであった。 |
| 連載中、2004年7月2日に「徹子の部屋」に出演したが、その中で、妻に対する懺悔として、相当のお金をかけて墓を購入したというエピソードを紹介。 |
| そのとき妻に言った一言は(実話か否かは不明であるが)「お前の人生は、はかない人生ではない。 |
戦績
| プロ入りしたのは1963年で、ちょうど大山康晴が五冠独占を続けていた時代に当たる。 |
| A級昇級は1971年、初タイトルは1973年の第22期棋聖戦で、それぞれ数え年で28歳、30歳の時と、超一流と呼ばれる棋士の中では出世は遅い方であった。 |
| 1970年、王位戦で大山康晴に挑戦。 |
| これを含め、大山とのタイトル戦で4連続奪取失敗をする(大山からの初奪取は、1983年(1982年度)の王将戦、棋王戦での2連続奪取である)。 |
| 1973年、第22期棋聖戦で有吉道夫を破り、初のタイトル獲得。 |
| 1973年度の王将戦に始まり、タイトル戦でなかなか中原に勝てなかった。 |
| 2年連続で中原王将への挑戦者となった1975年(1974年度)の第24期王将戦では、七番勝負開幕前のインタビューで「第一局では中原王将(当時)があっと驚く奇策を考えている」と発言。 |
| その言葉通り、先手番となった第一局では三手目に▲8六歩と突く角頭歩戦法を見せるが、後手番の中原誠は冷静に△4四歩と応対。 |
| 中原誠曰く「タイトル戦七番勝負の第七局で、双方残り一分の秒読みになったのは、後にも先にもこの時以外記憶にない」からである。 |
| 中原への8度目の挑戦となった1979年度王位戦はフルセットの戦いとなり、最終局での千日手指し直しの戦いの末に奪取。 |
| 1984年度、中原誠と十段戦七番勝負を戦う。 |
| A級順位戦やタイトル戦などでの森安との激闘は居飛車対振り飛車、特に居飛車急戦の戦術発展に大きく寄与した。 |
| その一例が1985年3月の第42期A級順位戦最終局である後手番森安の四間飛車に先手番の米長は▲5七銀左から鷺宮定跡含みの駒組みを進める。 |
| 早指し将棋選手権で、1974、1977、1979、1980年度に優勝、日本シリーズでは、1980、1984、1986年度に優勝、NHK杯戦でも1978年度に優勝した。 |
| 横歩取り戦法が流行していた頃、1990年(1989年度)の王将戦で挑戦者となった時に、「横歩も取れない様な男に負けては御先祖様に申し訳ない」と新聞紙上でコメントし、南芳一王将(当時)を挑発した。 |
| 1998年、第56期順位戦で4勝5敗の成績ながらリーグ表順位の差で、26年連続で在籍したA級からの降級が決まる。 |
| 2003年12月17日、現役棋士を引退。 |
| 最後の棋戦となった2003年度の王将戦では予選で2人のA級棋士・三浦弘行、藤井猛を破り本戦リーグ入りをする。 |
| 残る2局は森内俊之竜王(当時)、郷田真隆との対局であったが、彼らも和服を着用。 |
棋風
| 四冠王になるなど絶頂期にあったときには、自著『逆転のテクニック』『逆転のテクニック-悪い将棋はこう指せ!』(上巻) 米長邦雄著 日本将棋連盟 ISBN:978-4819701112」の中で序盤研究に否定的な見解を示し、詰将棋で鍛え抜いた読みの力をベースに劣勢になっても相手のミスを招く勝負術ならびに終盤力が将棋における勝負の本質であるとの見解を示していた。 |
| 「角頭歩戦法」はタイトル戦(1975年の王将戦第1局)の舞台で使用し、大きなインパクトを与えた。 |
| 四冠王となった頃に「米長流急戦矢倉」の開発、対振り飛車における「玉頭位取り」や「鷺宮定跡」の整備といった功績がある。 |
| 「矢倉は将棋の純文学」という有名な表現は米長の言葉である |
主な成績
| 順位戦A級以上 26期連続・通算26期(第26=1971年度-第30期、第36期=1977年度-第56期)第30期までの順位戦の期数は、名人戦の期数に対して5期のずれがあり、第36期から名人戦と順位戦の期数がそろえられた。 |
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1943年
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米長 邦雄(よねなが くにお)は、将棋棋士。... |
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1970年
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王位戦で大山康晴に挑戦 |
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投票数
10
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