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つながりの強いひと
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紀夏井
紀夏井(きのなつい、生没年未詳)は平安時代初期の貴族、政治家。大納言・紀古佐美の曾孫。美濃守・紀善峯の三男。母は石川氏。官位は従五位上・右中弁。 |
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雪峰義存
中国の唐末五代の禅僧である。諡号は真覚(眞覺)大師。泉州南安県(福建省)の出身で俗姓は曾氏。 |
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菅原是善
平安時代前期の文人・公家。従三位・菅原清公の四男。官位は従三位・参議。 |
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金憲昌
コブスの中にあるコンテンツの単語とウィキペディアの中にある単語を結びつけるコンテンツです。リンクされたキーワードをクリックするとその意味を表示しま... |
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大江音人
平安時代の貴族・学者。備中権介・大枝本主の嫡男。官位は従三位・参議。江相公と号する。 |
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源融
嵯峨天皇の12男。官位は侍従、右衛門督。大納言などを歴任し、従一位左大臣にいたる。別名河原左大臣。死後正一位を追贈された。 |
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楊渥
楊渥(ようあく)は十国・呉の第2代王。楊行密の長子。楊行密の在位時には牙内諸軍使で、楊行密の晩年に病が重くなると宣州観察使となった。905年(天祐2年)... |
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憲康王
憲康王(けんこうおう、生年不詳–886年)は新羅の第49代の王(在位:875年-886年)であり、姓は金、諱は(てい)。先代の景文王の長子であり、母は第47代の憲... |
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大江朝綱
大江朝綱(おおえのあさつな、886年(仁和2年)-958年1月25日(天徳元年12月28日))は平安時代中期の公卿にして学者及び書家。検非違使別当参議大江音人の孫... |
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平良文
平安時代中期の武将。父は平高望。生母は高望の側室である藤原範世(異説として藤原師世)の娘。通称は村岡五郎。坂東八平氏の実質的な祖とされている。 |
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山田弘
山田弘直 カーディナル 更新日: 2007-04-18 ■ 山田 弘直【やまだ・ひろなお】 【肩書き】 カーディナル 社長 【生年月日】 昭和34年9月8日 【年齢】 ... |
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源是茂
従三位、中納言、民部卿。嵯峨源氏の源融の孫で、源仕(渡辺綱の祖父)の弟。嵯峨源氏は一字名が有名だが、源是茂と弟の源衆望は、二字名の嵯峨源氏である。... |
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法親王
日本の男子皇族が出家して僧籍に入った後に親王宣下を受けた場合の身位・称号。 |
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最澄
平安時代の僧。日本の天台宗の開祖である。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては... |
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南淵年名
南淵年名(みなふちのとしな、大同3年(808年)-貞観19年4月8日(877年5月24日))は平安時代初期の公卿。氏姓は南淵朝臣。因幡権守・南淵永河の子。あるいは... |
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憲徳王
憲徳王(けんとくおう、生年不詳-826年)は新羅の第41代の王(在位:809年-826年)であり、姓は金、諱は彦昇。父は第38代元聖王の元太子の金仁謙(昭聖王によ... |
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紀淑人
平安時代中期の官人。中納言・紀長谷雄の二男。兄に『古今和歌集』真名序の作者紀淑望が、子に宗定がいる。官位は従四位下・式部少輔。 |
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紀長谷雄
平安時代前期から中期にかけての公卿・文人。弾正大忠・紀貞範の子。官位は従三位・中納言。字は寛。通称は紀納言。 |
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百済
古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余族による国家(346年-660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅... |
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紀有常
平安時代の貴族。刑部卿・紀名虎の子。官位は従四位下・周防権守。 |
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プロフィール
紀安雄(きのやすお、弘仁13年(822年)-仁和2年5月28日(886年7月3日))は、平安時代の貴族。氏姓は苅田首のち紀朝臣。助教・苅田種継の子。官位は従五位上・周防守。
経歴
| 卒伝『日本三代実録』仁和2年5月28日丙午条によれば、安雄は左京の出身。 |
| 父は讃岐の国人で、助教を務め従五位下に叙された苅田種継である。 |
| 仁明天皇は経学を深く尊び儒学者を度々呼んだが、御前で論ずる者は居なかった。 |
| そこで、御船氏主を大学博士に苅田種継を助教に任じて両名を呼び寄せ、経学について論じるよう命じた。 |
| 御船氏主は礼について論じ、苅田種継は伝を採り上げて激しい論戦となったが遂に決着は着かなかった。 |
| この当時の怪力の持ち主といえば左近衛の阿刀根継と右近衛の伴氏永で、二人は相撲の最手であり天下に並ぶ者はいなかった。 |
| 仁明天皇はまさに氏主を氏永、種継を根継に見立て、両人に力比べをさせたのである。 |
| 最初は博士候補生となり、天安2年(858年)に直講に任ぜられた。 |
| 貞観年間に入り渤海国王の使いが訪れたため朝廷は見識者を募集、この時より安雄は存問使と領客使を兼務することとなる。 |
| 貞観4年(862年)従六位上のとき、一族の氏雄・今雄らとともに左京職の官人となった。 |
| 同5年(863年)、従五位下に叙され助教となる。 |
| その折、勅によって有識な公卿や大夫を選別することとなり、安雄はその式(規律)の選定を受託した。 |
| 同9年(867年)紀朝臣の姓を賜与される。 |
| 同11年(869年)、勘解由次官と下野介を兼務することとなった。 |
| 同16年(874年)従五位上に叙され、同18年(876年)に主計頭に転任となり、翌年に武蔵守となって京を出た。 |
| 規律を重んじて恩情を排除したので、官人も民衆もたいへん安定したという。 |
| 任期を満了して京に戻り、元慶6年(882年)、鋳銭長官と周防守を兼務することとなった。 |
| 武蔵での業績の評判も聞えなくなった。 |
| 安雄は専ら経学の修業に勤しみ、すこぶる美しい言葉を習った。 |
| 重陽の節には文人を召して交わった。 |
| 老衰のため65歳で亡くなった。 |
| 性格は度量が広くゆったりとしており、従順であったという。 |
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紀安雄さんについてのひとこと紹介
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