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細川政元
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- 細川政元とは
- 家督相続
- 畠山政長との確執
- 明応の政変による政権奪取
- 諸勢力との戦い
- 人物・逸話
- 関連書籍
- 関連項目
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1466年
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細川勝元の嫡男として生まれる |
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1474年
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西軍方の山名政豊と和睦する |
細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代中後期の武将・守護大名。
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文正元年(1466年)、 細川勝元の嫡男として生まれる。
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文明5年(1473年)5月、応仁の乱の最中に病死した勝元の後継として、わずか8歳で家督を相続。
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丹波・摂津・土佐守護に就任する。
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文明6年(1474年)4月、西軍方の 山名政豊と和睦する。
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文明18年(1478年)7月に元服し、 足利義政の偏諱を受けて政元と名乗る。
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管領に任じられたものの、短期間で辞職している。
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延徳元年(1489年)将軍義煕は六角討伐の最中、近江国で病死する。
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結果に不満であった政元は、やがて幕府に距離を置き始める。
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義材の将軍就任は、幕府内で義視と 畠山政長の権勢が高まることとなり、延徳3年(1491年)1月に義視が死去した後は、 畠山政長が幕府の権力を独占するようになる。
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明応2年(1493年)、将軍・義材は 畠山政長と共に 畠山義豊討伐のため河内へ出兵する。
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4月、従軍せず京都に残留していた政元はクーデターを決行、将軍の従兄弟に当たる清晃を第11代将軍として擁立する(明応の政変)。
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この政変により、当初は政長方であった 赤松政則も政元に寝返ったため、孤立無援となった政長は自害、捕らえられた義材は京都竜安寺に幽閉された。
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明応3年(1494年)清晃は還俗して俗名を義高(のち義澄と改名)を名乗り将軍に就任、政元は管領となって将軍を事実上の傀儡にして幕政を牛耳るに至った。
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政変後、越中へ亡命していた義稙(義材)は、明応8年(1499年)に北陸の兵を率いて近江にまで侵攻するが、政元はこれを破り、同じく義稙に呼応した 畠山尚順をも撃破する。
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一方、政元は生涯独身を通し、山伏信仰に凝って諸国を放浪するなどの奇行があり、幕政を混乱させることもあった。
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やがて実際の政務は、「内衆」とよばれた京兆家の重臣達による合議に重きが置かれるようになった。
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さて政元の気分屋的な傾向、そして実子が無かったことは京兆家の家督相続問題にも反映した。
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文亀2年(1502年)、九条家から家督相続を条件に澄之を養子として迎えるが、文亀3年(1503年)5月、一門の阿波守護家から澄元を養子として迎えて家督相続を約束したため、政元は澄之を廃嫡する。
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その結果、澄之・澄元両派の対立が先鋭化するに至る。
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永正元年(1504年)9月、摂津守護代・ 薬師寺元一の謀反を鎮圧し、永正3年(1506年)7月に河内の 畠山義英を討伐、家臣の 赤沢朝経を大和へ派遣、侵攻させる。
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永正4年(1507年)には紀伊、さらに若狭に下向し 武田元信を助け丹後・丹波の 一色義有をも侵攻するなど、自らの勢力の拡大を図った。
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こうして、政元は京兆家の全盛期を築き上げる。
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ところが、政元はこのような戦乱を嫌悪したのか、 修験者として奥州で廻国修行をしたいと言い出したが、この際には家臣の 三好之長の諫言によって断念させられる。
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永正4年(1507年)6月23日、澄之派に懐柔された警護役の竹田孫七・ 香西元長・ 薬師寺長忠によって、湯殿で行水をしていたところを襲われて殺された(永正の錯乱)。
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これ以降、京兆家は内紛を重ねて急速に没落していくことになる。
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生前の奇行や死後の内紛などのため、これまで後世の評価は芳しくはなかったが、近年では管領の地位を長期間にわたって保ち、なおかつ将軍の廃立すら行った政元の時代こそが細川京兆家の全盛期であったと見るのが通説となっている。
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幕政を牛耳り、当時では勢力随一の大名であったことから半将軍と称された。
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その一方で幕府の官僚組織を支配していた政所執事伊勢氏の抵抗や成長した義澄の側近登用による政元抑圧の動きなど、政元の権力を抑えようとする動きも存在していた。
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独身を貫いたのは修験道に凝ったため、あるいは女嫌いで深く衆道(男色)を好んだからなどの諸説がある。
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修験道に凝って政務を放棄し、京都から離れて丹波などまで赴くことがあったため、家宰の 安富元家や家臣の 庄元資、 三好之長らによって連れ戻されることもあったといわれる。
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安芸宍戸氏の出身の 司箭院興仙(宍戸家俊)を修験道の師とした。
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諸国放浪の際、各地の守護らと会見を持っており、自派勢力拡大のための政治目的もあったとされている。
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「魔法半将軍」(集英社コバルト文庫・著者: 鷲田旌刀 ISBN 4-08-600411-9)…細川政元を主人公としたファンタジー小説(ライトノベル)。
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山崎城 (山城国)。
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『花の乱』(NHK大河ドラマ) 演:立川大和→ 今井雅之。
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細川勝元
父
室町時代の武将・守護大名。 |
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足利義政
室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年- 1473年)。 |
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畠山政長
室町時代後期の武将・守護大名。 |
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足利義澄
足利 義澄(あしかが よしずみ)は室町幕府第11代将軍。 |
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細川澄元
戦国時代の武将・守護大名。 |
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細川澄之
室町時代後期(戦国時代)の武将。 |
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畠山義英
畠山基家(義豊)の嫡子。 |
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赤沢朝経
戦国時代(室町時代後期)の武将。 |
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今井雅之
役
兵庫県豊岡市(旧・城崎郡日高町)出身の日本の俳優、演出家。 |
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細川政元
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細川政元 . 細川政元 像(龍安寺蔵) 時代. 室町時代中期. 生誕. 文正元年(1466年) 死没. 永正4年6月23日 ... 細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代中後期の武将・守護大名。 足利氏の庶流細川氏当主。 室町幕府の三管領の1つとなった細川氏本家・京兆家の当主となった。 父は細川勝元で、母は不明。 ...
ja.wikipedia.org
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細川政元 . ほそかわまさもと (1466〜1507) 略伝. 室町時代。 足利幕府管領職。 従四位下。 右京大夫。 幼名は聡明丸。 父は細川勝元。 ... 細川政元 は、あの勝元の子として生まれ、 細川京兆家の後継者としてその未来は輝かしいものとなるはずであった。 だが現実は細川京兆家を分裂へと導いてしまったのである。 ...
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(5)赤沢宗益については、森田恭二氏「 細川政元 政権と内衆赤沢朝経」(『ヒストリア』第八十四号、一九七九年)を参照。 ... 『大乗院寺社雑事記』明応九年六月十二日条には 細川政元 と武田元信が祇園会に際して棧敷を設けた旨が見えており、元信は明らかに幕府方に属している。 とすれば、『大 ...
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歴史上、明応の二年四月と云えば、いわゆる 細川政元 のクーデターが起きた年月として知られている。 ... 彼、 細川政元 が生まれたのは文正元年(1466年)であり、これは応仁の大乱の勃発を翌年に控えた、糾える縄のごとき政争の真っ只中の年である。 足利将軍家も、その幕府の三管領家と呼ばれる ...
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細川政元 (ほそかわ・まさもと) 1466〜1507. 細川勝元の子。 幼名は聡明丸。 通称は九郎。 従四位下・右京大夫。 幕府管領。 雪関と号す。 文明5年(1473)、父・勝元の死により家督を相続して摂津・丹波・讃岐・土佐守護職を継承したが、幼少だったために細川政国の後見を受けた。 ...
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