| 現在の家族構成は本人、母、5歳下の弟が一人、妻、子供3人。 |
| 家族は一般人の為氏名は公表していない。 |
| 尚、子供3人の内、一人は東京大学医学部出身、妻は東京都内出身尚、戦時中に生まれた腹違いの兄も居たが、きみまろが生まれる数年前の1945年に肺炎の為生後半年で夭折、父の前妻も同じく病の為25歳の若さで逝去している。 |
| それ故、きみまろは父が前妻と死別して再婚した後に一番初めに生まれた子供という事になる。 |
| 母親も再婚で、前夫とは病気の為に死別している。 |
| 父(1918年-1997年、故人)は馬の種付けの仕事をしており、戦時中は徴兵されて戦地に出向いた事もある父は日中戦争の時徴兵され、向かった戦地が中国だった。 |
| 馬の種付けの仕事の他、一時期福岡県の小倉で兵器工場に勤務していた事があった。 |
| 馬の種付けだけでは生活が成り立たない為、農業も同時に兼ねていた。 |
| 戦後も引き続き馬の種付けの仕事を続けていた中、自衛隊からスカウトが来たものの、スカウトを突っ撥ねた事がある。 |
| 晩年も農作業等を続けていたが、1997年に耕耘機の事故の為死去。 |
| 本人の父の生い立ちは2010年8月放送のNHK「ファミリーヒストリー」に於いて全貌が公開されている。 |
| 幼少時代から司会者を志しており、毎日の様にドラマ等のナレーターや、市場のセリ等の物真似をやっていた。 |
| 父が選挙の応援演説で熱弁を振るっていた影響から、高校時代、3年間連続弁論大会に出場していた。 |
| 高校卒業後は「司会者を目指す為に上京する」と決めていたが、当時地元のスーパーや工場、郵便局等しか就職先が無い中で、現実的には「司会者になるには大学を出ていないとなれない」という事で1年浪人して拓殖大学に進学した。 |
| 高校卒業後、上京する際、父からは1万円しか貰えず、その1万円を持って夜行列車「高千穂」に乗って上京したという。 |
| 拓殖大学在学中は未明の新聞配達と深夜のキャバレーのバイトを掛け持ちしていた。 |
| ブレイク前の1995~6年頃、高速道路のサービスエリアで自作のカセットテープを配っていたところ、サービスエリアの係員に「何やってんだお前は!お前勝手に物を売るな!」と怒られた事がある。 |
| きみまろが生活している地域では当時、オウム真理教のメンバーらによる一連の事件で厳戒態勢が敷かれていた事もあってか、係員からは「宗教の勧誘テープでも配ってんじゃないのか」と奇異の目で見られた事もあり、時には係員に事務所迄連れて行かれて尋問された事もあった。 |
| その反面、サービスエリアの係員とは仲良くなった事もあったり、あるバスガイドからは「タダで貰ったテープをバス内で流した所、客からは大変好評を受けた」事がきっかけで本人のブレイクへと繋がっている。 |
| 又、当時はカセットテープの販促葉書に「笑って転げて40分」のフレーズと共にきみまろの女形を掲載していた事もあっただが、販促葉書を配る事でマネージャーから「販促葉書を配るのは止めて欲しい」と諭された事もあった。 |
| 下積み時代、地方での仕事が入った場合等、金が無い為にホテル等の宿泊料金が勿体無いという理由で市街地の路上で車中泊していて警察官から職務質問された事もあったと言う。 |
| その反面、職務質問の警察官と仲良くなって遣り取りを楽しんでいた事もあり、きみまろ自身も「売れない時代は警察官が友達の様な存在だった」と述懐している。 |
| キャバレーで司会をしていた時、きみまろ自身がキャバレーのホステス目当ての客に対し抗議が来ても仕方の無いフレーズを掛けた事から、カタギでは無い様な人物から脅されて白菜の漬物を投げ付けられ、背広に付いた跡形が暫く消えなかった事もあった。 |
| 『たけしの誰でもピカソ』の出演に際し、売れない時期に同じ舞台で出演していたビートたけしと楽屋で久し振りの対面を果たす。 |
| 学生時代は柔道をやっていて、初段。 |
| 少年時代は実家が相当貧しかった為、習い事は何もしておらず、本人曰く「学校で習った算盤位」だったとの事。 |
| 高校受験の願書に資格や特技を記入する欄に「算盤7級」と記入した所、担任の教師に呼び出されて「7級は資格の内に入らないから消去する」と言われた事もあった。 |
| 鹿児島の実家には母親が今でも暮らしており、その事についてきみまろは「鹿児島に母親を一人残しているのはとても不憫だから母親を東京に連れてきて一緒に住む」と言っているが母親は言う事を聞いておらず、鹿児島から出たくないと主張している。 |
| その母は挨拶に非常に厳しく、きみまろが帰省したと同時に「挨拶回りに行って来い」と、すぐ挨拶回りを強制し、「通りすがりの人にも挨拶しろ」と教育されていた事を自身の書籍等で公開しているが、きみまろはその事に関しては不服と感じている様で、「俺は挨拶回りの為に帰郷したのでは無い」等と、母親とケンカになる事もままある。 |
| 実家は携帯電話やテレビ放送の電波の受信もままならない程のかなりの過疎地にあり、本人曰く「私が故郷に住んでいた頃は3階以上の建物は見た事が無かった」との事。 |
| かなりの田舎町で育った為か、少年時代は家族が所有している畑で野菜を作って食べたり、きみまろ自身も川で魚やカニ等を釣ったり捕まえたりして食べたり、又、山地で父親が獲ってきた鳥獣類を食べたりする等、自給自足の食生活をしていた。 |
| ネタで使っている「父親が痛風、母親が糖尿のハーフ」というフレーズがあるが、自身も痛風の持病があり(本人によると45歳辺りから患っているとの事)、肉料理を食べられなくなり、旅先等で隠れて肉料理を食べるとすぐ足先がピリピリと痺れるという。 |
| 痛風を患っている為、食事も野菜料理が中心で、本人曰く「精進料理の様な生活を送っている」との事。 |
| 痛風のみならず、高血圧や睡眠時無呼吸症候群も患っており、その他、高校時代迄夜尿症を患っていた。 |
| 高校時代迄続いていた夜尿症については、母親から毎朝蹴られたり、弟とケンカすると苛められたりしていた他、実家は布団一式を買う事も大変な程貧しかった為、濡れたままで臭いの漂う真綿の布団に寝せられていた2004年発行の自身の著書「きみまろ!―爆笑毒舌『ネタ帳』150連発!」より判明。 |
| 趣味は農作業、骨董品の収集、草むしり、ジョギング。 |
| 「綾小路きみまろ」という芸名の由来については2004年に11月27日のZAKZAK(産経新聞社)の取材に対し、ポール牧の持ちネタである「僕の名前、あやのこうじきみまろ~」から盗用した事を告白しているが、「綾小路きみまろ」として活動してから数年後にポール牧本人から許諾を得ている為、法的には一切問題は無い。 |
| ある時、実家に行き来する際に利用している宮崎空港で見つけた「きみまろ」なるチーズ饅頭を購入した所、大変気に入り、自身がゲストとして招かれたテレビ番組や雑誌等でこれを紹介すると、注文が殺到した。 |
| その他、きみまろは栗の果肉を包んだロールケーキ・「綾小路」と言う土産物をプロデュースした事もあり、本人曰く「東京・京都の名店のコラボ」との事。 |
| 趣味の農作業できみまろが所有している耕耘機はホンダ製きみまろが耕している作物は、当初は大根、葱、南瓜等を作っていたが、猿に作物を持っていかれたり食われたりする等の被害に遭った事から、茄子、ピーマン、唐辛子、獅子唐辛子に切り替えた経緯がある。 |
| 一時期、健康食品にも凝っていた事があったが、どれも長続きせず、本人も「健康食品は青汁は別だが、味がしないし、直ぐ飽きる、要するに薬と一緒」と自身の著書で記述している。 |