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森内俊之
将棋棋士。十八世名人資格保持者。棋士番号は183。勝浦修九段門下。神奈川県横浜市出身。日本将棋連盟棋士会副会長(2009年4月-2011年3月)。 |
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渡辺明
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永世名人(えいせいめいじん) - カルチャー&エンタテインメント - 2007年7月22日 将棋の名誉称号の1つ。「名人」とはもともと、江戸時代初期の1612年に大橋... |
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プロフィール
- 羽生善治とは
- 概要
- プロデビューまで
- 戦績
- デビュー、そしてスターダムへ
- 七冠独占
- 七冠以後
- 棋風・評価
- 対局関連の逸話
- 関連サイト
羽生善治(はぶよしはる、1970年9月27日-)は、将棋棋士。 二上達也九段門下。棋士番号は175。
概要
| 1996年2月14日に将棋界で初の7タイトル独占を達成。 |
| 通算タイトル獲得数は、大山康晴に並び歴代1位タイ。 |
| 全7タイトル戦のうち竜王戦を除く6つでの永世称号(永世名人(十九世名人)・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世棋聖・永世王将)の資格の保持(いわゆる「永世六冠」)も史上初タイトル戦の数が6つ以上になってからの「永世六冠」は羽生が初めて。 |
| タイトル戦が5つの時代には大山康晴が「永世五冠」を達成している。 |
| である。 |
| 羽生とほぼ同じ年齢にトップクラスの実力者が集中しており、彼らは「羽生世代」と呼ばれる。 |
プロデビューまで
| 埼玉県所沢市で生まれ、幼稚園に入る頃から東京都八王子市に移り住む『将棋世界[4月臨時増刊号]七冠王、羽生善治。 |
| 』日本将棋連盟、1996年、168-175頁「羽生善治、生い立ちの記」(記・炬口勝弘)。 |
| 小学校1年生のとき、近所に住む同級生から将棋の駒の動かし方を教わる羽生に将棋を教えたこの同級生は小学校3年のときに山形県に引っ越し、以来、音信不通であったが、1995年にタイトル就位式で再会を果たす。 |
| 『将棋世界[4月臨時増刊号]七冠王、羽生善治。 |
| 』日本将棋連盟、1996年、171頁。 |
| 2年生(1978年)の夏、将棋に熱中している我が子の姿を見ていた母が将棋道場「八王子将棋クラブ」の「第1回夏休み小中学生将棋大会」に出場を申し込み、大会デビュー(1勝の後2連敗で失格)。 |
| それがきっかけで、同年10月28日から毎週末に同道場に通うようになる。 |
| 家が新興住宅地にあったため周囲にまだあまり店がなく、週末に両親が車で八王子市街に出かけて買いだめをするたび、道場の席主に母があいさつして羽生を預けた。 |
| 道場のいちばん下は7級であったが、昇級の楽しみを与えるため席主が与えた段級は14級であった。 |
| その後、棋力は急速に向上していき、翌年の小学3年のときに初段、4年生の10月に四段、5年生の10月に五段となり、いわゆるアマ強豪のレベルとなる。 |
| なお、家でも将棋を指し、それは両親と妹の計3名による‘連合軍’と羽生1名が対戦して、連合軍が不利な展開になったときは将棋盤を180度回転して指し継ぐという家族内ルールNHK『クイズ日本人の質問』インタビューであったが、羽生の上達が速かったため長続きしなかった。 |
| 1979年、3年生で4級のとき、日本橋東急デパートの「よい子日本一決定戦・小学生低学年の部」で準優勝(優勝は先崎学)をし、その翌年も関東各地のデパートの大会で準優勝や3位入賞をする。 |
| 将棋大会出場時は、母が我が子を見つけやすくするため、いつも広島東洋カープの赤い野球帽である‘赤ヘル’を被らせていた(羽生自身は読売ジャイアンツファンであった)田中寅彦『羽生善治神様が愛した青年』ベストセラーズ、1996年ISBN978-4584191286。 |
| そして、1981年1月7日、「第1回小田急将棋まつり小学生大会」でデパート大会での初優勝をする。 |
| このとき、準決勝で森内俊之を、決勝で小倉久史を破っている。 |
| 森内とのライバル関係は、この頃から始まった。 |
| ある将棋大会では、先手・森内の初手▲5八飛という珍しい手に対して後手の羽生が△5二飛と返すというきわめて珍しい序盤を見せることもあった『将棋マガジン』1996年6月号日本将棋連盟、37頁。 |
| 同年、5年生に上がると、アマ名人戦の都下予選(7月12日)を史上最年少で通過。 |
| 8月には東京の4つの小学生大会で優勝する。 |
| 5年生のとき、奨励会への入会を志し、道場の師範代である中嶋克安指導棋士(二上の最初の弟子)中嶋克安指導棋士は、父が病気で倒れたため奨励会を退会して家業を継ぎ、そのかたわら道場(のちの八王子将棋クラブ)を開いた。 |
| に相談をしたが、中嶋は「小学生将棋名人戦で優勝をすること」という厳しい条件を突きつけた小学生将棋名人戦には3年生のときから参加し、2年連続1回戦負けの後、前年の5年生時はベスト8であった。 |
| しかし、6年生の春(1982年4月3日)、羽生は見事優勝し条件をクリアした。 |
| このとき森内は3位、NHKテレビ解説者は3日後に二十歳の誕生日を迎える谷川浩司新八段だった。 |
| 母は対局が行われたNHKのスタジオから、すぐに二上に電話を入れた。 |
| 同年、奨励会入会試験に合格。 |
| 以降、1年あまりで6級から初段に昇段するなど驚異的な速度で昇級・昇段(後述)を重ね、1985年12月18日に三段での13勝4敗を記録。 |
| この成績をもって、当時の規定当時は、三段リーグの制度がなかった。 |
| により四段に昇段してプロに昇格。 |
| 加藤一二三、谷川浩司に続く史上3人目の中学生棋士となる。 |
デビュー、そしてスターダムへ
| デビューから年度が明け、実質の初年度となる1986年度に全棋士中1位の勝率0.741(40勝14敗)を記録し、将棋大賞の新人賞と勝率1位賞を受賞する。 |
| 羽生に追随してデビューしてきた同年代の強豪棋士達とともに、いわゆる「チャイルドブランド」島朗による命名。 |
| と呼ばれる新世代のグループを形成し、羽生は、その代表的存在として勝ち進む。 |
| 羽生を一気にスターダムへ押し上げることになったのは、五段時代の第38回(1988年度)NHK杯戦である。 |
| 大山康晴(3回戦)、加藤一二三(4回戦=準々決勝)、谷川浩司(準決勝)、中原誠(決勝)と、当時現役の名人経験者4人をすべて破るという、まるで作った舞台設定これについて谷川浩司は「まず抽選をするわけですから」と述べた上で、「(羽生が)持って生まれた運」と表現している。 |
| (『別冊宝島380将棋王手飛車読本-将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』宝島社、1998年、16頁ISBN978-4796693806)。 |
| のような勝ち上がりで優勝した。 |
| 対・加藤戦では終盤61手目に加藤陣に打った妙手▲5二銀右図は1手前の局面。 |
| 打った銀を飛車で取っても金で取っても加藤の玉が詰むに驚いた解説役の米長邦雄は「おぉー、やった!」とマイクの音が割れる大声を上げた。 |
| 対局室と解説室は離れているにもかかわらず、その声は対局室の羽生に聞こえた2010年12月25日放送『NHK杯将棋トーナメント60周年記念歴代優勝者が選ぶ名勝負十局』(NHK教育テレビジョン)で本局が1位に選ばれた際の、羽生自身による証言である。 |
| 解説者の「叫び声」が聞こえた経験は、この1回だけとのこと。 |
| 加藤は仕方なく△4二玉としたが、その5手後(67手目)に投了に追い込まれた。 |
| 後に加藤はこの対局について、「▲5二銀自体は奨励会員でも指せる」と述べているが、中盤戦で攻められている側に玉将を上がった▲4八玉を高く評価している(『将棋世界』2007年11月号日本将棋連盟、102頁「加藤一二三九段、1000敗を語る」)。 |
| 連勝を止めたのは大山康晴。 |
| )をし、将棋大賞の最優秀棋士賞を史上最年少(18歳)で受賞した。 |
| 無冠の棋士が受賞したのも、史上初である。 |
| なお、記録4部門独占は羽生だけが達成している記録で、しかも、その後に3回(合計4回)達成している(''将棋大賞''を参照)。 |
| 1989年、第2期竜王戦で3組優勝者として挑戦者決定トーナメントを勝ち上がって挑戦権を得、タイトル戦初登場。 |
| 七番勝負の相手は、研究会「島研」での‘恩師’であり前年に初代竜王の座に就いた島朗であった。 |
| 持将棋1局を含む全8局の熱闘を4勝3敗で制し、初のタイトル獲得。 |
| 棋界で名人位と並んで序列トップの竜王位に就いた。 |
| 19歳2か月でのタイトル獲得は、当時の最年少記録であった(最年少タイトルの記録は、翌年、18歳の屋敷伸之によって塗り替えられる)。 |
| この年度は、先手番での勝率が0.9355(29勝2敗)であった |
| 翌年11月に谷川に竜王位を奪取され、無冠の「前竜王」という肩書きになるが、4か月後の1991年3月に棋王位を獲得し、以降、一冠以上を保持する状態が長く続く。 |
| また、肩書きとして段位を名乗ったのは竜王挑戦時の「六段」が最後である。 |
七冠独占
| 1992年度、第40期王座戦で福崎文吾から奪取して、初めて複数冠(王座・棋王)となる。 |
| ここから長い王座戦連覇が始まり、後に、大山が持つ同一タイトル連覇記録を塗り替えることとなる。 |
| 同年、第5期竜王戦で谷川竜王(三冠)との三冠対二冠の天王山対決を制し、「タイトル保有の図式が逆転」森下卓が述べた。 |
| さらには「もしも谷川が竜王を防衛していたとしたら、羽生は七冠どころか四冠も難しかったのではないか」とも述べている(『将棋マガジン』1996年6月号日本将棋連盟、16頁)。 |
| した。 |
| 1993年度、谷川から棋聖を、郷田真隆から王位を奪取して五冠王(大山、中原に次いで3人目)となる。 |
| 羽生はこのときに「初めて七冠を意識した」『将棋世界[4月臨時増刊号]七冠王、羽生善治。 |
| 』(日本将棋連盟、1996年)68-69頁「七冠を得た喜び」(記・羽生善治)。 |
| しかし、竜王位を佐藤康光に奪われ四冠に後退する。 |
| 一方、順位戦では、1991年度(第50期)のB級2組から2期連続昇級でA級に昇格。 |
| そして迎えた第52期(1993年度)A級順位戦では、谷川と並んで7勝2敗で1位タイの成績で終え、プレーオフで谷川に勝ち、A級初参加にして名人挑戦権を得る。 |
| この第52期(1994年度)名人戦七番勝負の相手は、前年から初めて名人位に就いていた50歳の米長邦雄名人であった。 |
| 羽生は3連勝・2連敗米長は、もしもストレート負けしたら引退すると心の中で決めていたが、3連敗の後に2勝を返した(日本将棋連盟「米長邦雄の本」)。 |
| 残るタイトルは、谷川が保持する王将位ただ一つとなった。 |
| ついに、1995年1月からの王将戦七番勝負で、全冠制覇をかけて谷川王将に挑むことになる。 |
| この第44期王将戦七番勝負はフルセットの戦いとなり、その間、同時進行していた棋王戦五番勝負では森下卓に対し3-0で早々と防衛をしていた。 |
| そして最後の第7局(1995年3月23-24日)は、青森県・奥入瀬で行われた。 |
| 相矢倉の戦形となったが、2日目に千日手が成立。 |
| つまり、相手の手を真似し合ったような格好であったこのことを谷川は「お互いの意思がピッタリ合った」と表現している(日本将棋連盟書籍編 『谷川vs羽生100番勝負-最高峰の激闘譜!』日本将棋連盟、2000年ISBN978-4819702102)。 |
| 阪神淡路大震災で被災谷川は、第1局と第2局の間に阪神淡路大震災で被災していた。 |
| 谷川は後に「(逆に)もしも震災がなかったら、このとき敗れていたのかもしれない」という旨を語っている(『別冊宝島380将棋王手飛車読本-将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』宝島社、1998年、20-21頁ISBN978-4796693806)。 |
| なお、これらの防衛戦、リーグ戦の中では、終盤戦で相手の悪手に助けられた逆転勝ちがいくつもあった第53期名人戦第1局の108手目、森下は悪手△8三桂(△6七飛成で王手をしながら金を取れば勝勢)を指して羽生の逆転勝ちとなった。 |
| 谷川王将への挑戦権を争う王将リーグでも、森内が95手目に悪手▲9二竜(単に▲5八香として馬を取れば大優勢)を指したことによってもつれ、結果、羽生の勝ちとなった(以上、「将棋マガジン」1996年3月号「さわやか流・米長邦雄のタイトル戦教室」より)。 |
| 羽生は開幕から3連勝し、山口県のマリンピアくろいでの第4局(1996年2月13日-2月14日)を迎える。 |
| フルセットの戦いではなかったが、「(森内に)色々な作戦を持って来られたり、封じ手時刻ぎりぎりで指されたりして、ハードな名人戦だった」という将棋マガジン(日本将棋連盟)1996年8月号でのインタビュー。 |
| 次の防衛戦(七冠王としての3つ目の防衛戦)は、2期連続で伏兵・三浦弘行五段羽生の全冠独占後に『将棋マガジン』(日本将棋連盟)の中で「羽生から最初にタイトルを奪取するのは誰?」というアンケートが行われ、大抵の人が谷川浩司や佐藤康光の名を挙げた中、三浦と答えたのは僅か4人であった。 |
| の趣向を見せた三浦に敗れ、七冠独占は167日で幕を降ろした(1996年2月14日=王将奪取日-7月30日=棋聖失冠日)。 |
七冠以後
| 三浦から棋聖位を奪われたのと同年の第9期竜王戦と、翌1997年の第55期名人戦という2つのビッグタイトル戦で、いずれも谷川に敗れ四冠に後退。 |
| 第38期(1997年度)王位戦七番勝負(対・佐藤康光)から第48期(2000年度)王座戦五番勝負(対・藤井猛)にかけて、登場した15回のタイトル戦で全て獲得に成功(防衛14、奪取1)大山康晴が1963年度初頭から1966年度初頭にかけて、当時の全5タイトル戦に渡って記録した19連続獲得には及ばない。 |
棋風・評価
| 勝又清和は「大山の力強い受け、中原の自然流の攻め、加藤(一)の重厚な攻め、谷川の光速の寄せ、米長の泥沼流の指し回し、佐藤(康)の緻密流の深い読み、丸山の激辛流の指し回し、森内の鉄板流の受け、といった歴代名人の長所を状況に応じて指し手に反映させる‘歴代名人の長所をすべて兼ね備えた男’」としている『将棋世界』2008年10月号日本将棋連盟、68頁「これならわかる!最新戦法講義」。 |
対局関連の逸話
| (2008年10月2日・NHKデジタル衛星ハイビジョン、2008年11月8日未明(11月7日深夜)・NHK衛星第2テレビジョン)と語り、一方、谷川は「どちらが勝ってもおかしくない名局」、「4-0か4-1かというのは、その後のことを考えれば大きかったかもしれない」『別冊宝島380将棋王手飛車読本-将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』宝島社、1998年、17頁ISBN978-4796693806という旨を述べている。 |
| 手の震えが出るようになったのは30代に入ってからであるたとえば、『プロフェッショナル仕事の流儀』(NHK総合、2006年7月13日放送)で紹介された藤井猛との朝日オープンでの対局や、『囲碁・将棋ジャーナル』(NHKBS2、2008年5月17日放送)で紹介された2008年の森内との名人戦第3局(大逆転の一局、後述)でも見られ、さらに、同第4局の▲6二角成を指す際に6二の金を取るときには、隣の駒を乱してしまうほど激しく震えた。 |
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1970年
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羽生 善治(はぶ よしはる)は、将棋棋士。二... |
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かけて大山康晴が名人戦で樹立した同一タイト... |
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