| これは『遼史』で確認できる唯一の契丹人による進士の記録である。 |
| 泰州(現・黒竜江省の肇源あるいは吉林省の前郭爾羅斯旗)・祥州(現・吉林省の長春東北)、平州(現・河北省の盧龍)の二州の刺史(または節度使)、遼興軍節度使を歴任。 |
| 1122年、女真人王朝の金から攻撃を受けた遼の最後の皇帝・天祚帝は、この攻撃を防ぐことができず、中京から西の雲中(山西省)の陰山に逃亡した。 |
| この時、大石は宰相の李処温とともに南京(燕京、現在の北京)において、第7代興宗の孫の耶律淳(天祚帝の従父)を半ば無理やりに擁立して、天錫帝として北遼を建国した。 |
| 耶律淳は大石を軍事統帥に任じ、国家防衛を一任した。 |
| 大石は北遼の国力をもって宋、金2国を相手取って戦うことは困難であると考え、宋、金との和平を検討したが、結局宋は海上の盟に則り燕雲十六州攻撃を開始した。 |
| 宋は童貫の指揮の下で20万の大軍を動員したが、大石はこれを白溝河において撃破した。 |
| その後、天錫帝が病死したため、北遼は秦王・耶律定(天祚帝の五男で皇太子)を立て、天錫帝の未亡人の蕭徳妃が摂政するところとなり、宋はこれに乗じて再び侵攻してきた。 |
| 宋は劉延慶将軍の指揮の下で南京(燕京)に奇襲をかけた。 |
| 大石は南京において市街戦にまで追い込まれたが、宋軍を再び撃破した。 |
| 同時に李処温が宋と金と内通したことが露見したため、大石は李処温とその子の李奭を捕らえてこれを処刑した。 |
| 童貫は自力での北遼攻撃は困難であると判断し、金に燕京攻撃を依頼した。 |
| 阿骨打はこれを受理し、北方より三路から燕京を攻撃した。 |
| 大石は居庸関で迎撃を試みたが失敗し、金軍に捕らえられた。 |
| 阿骨打は大石らを厚遇した『北使記』(金の劉祁著)によると、大石は阿骨打から妻を賜ったと記されている(ただし、この女性が塔不煙(タプイェン)なのかどうかは不詳)。 |
| しかし、大石は秦王、蕭德妃など奉じて1123年、天祚帝の元へと逃亡した『松漠紀聞』によると、大石の先妻はすでに何者かによって、5人の子と共に射殺されたという(原文「''則棄其妻、携五子、宵遁''」)。 |
| 天祚帝は大石に天錫帝を擁立したことを責めたが、大石は傲然と天祚帝が逃げたから擁立したのだと反論し、天祚帝も反論が出来なかったという。 |
| 大石は天祚帝の下で身の安全に不審を抱き、1124年、金軍が迫ると200人ほどの契丹部の重装騎兵を引き連れて外蒙古、遼の北庭都護府である可敦城に逃れ、モンゴル高原一帯の18部の王を招集して自立した。 |
| 1130年、金はこれに対して耶律余賭を派遣して攻撃をかけた。 |
| 大石はこれと交戦したが、激戦にならないうちに突然撤退し、さらに西へ移動してアルタイ山脈西部に入り、ビシュバリクに向かった。 |
| ビシュバリクを首都とする天山ウイグル王国のビルゲ国王は、自ら国境に赴いて大石ら契丹王侯を迎え、大量の軍馬やラクダなどの贈物を贈るなどして、改めて大石ら契丹王家に臣従することを承認したと伝えられる。 |
| その他の西域諸国が10万の兵を挙げて来行を阻んだが、対陣90日で大石に降り貢納した。 |
| この地で1132年に葉迷立(=イミル、現在のウイグル自治区額敏県=ハーミン)で即位して天祐皇帝と名乗り、元号を延慶とした。 |
| これが西遼であるが、イスラーム側の史書では西遼はカラ・キタイ(قراختاىQarāKhitā'ī/قراخطاءQarāKhiṭā':カラー・ヒター(イー)「黒い契丹」の意味)、そして大石以降の君主たちをグル・ハン(=葛爾汗,كورخانKūrkhān>Gürχanテュルク諸語で「全てのハン」、「全世界のハン」ほどの意味。 |
| ただし、13世紀半ばの『ナースィル史話』では「諸ハンの中のハン(khān-ikhānān)」、『集史』では「偉大なる帝王(pādshāh-imu‘aẓẓam)」の意味と説明する)と呼んでいる。 |
| またある説では、大石は隠れマニ教徒だったという。 |
| 1134年、ウイグルでテュルク系の葛邏禄(カルルク)部族による反乱が発生すると、大石は出兵してこれを鎮圧し、この地の北辺を西遼の直轄地と定め、ベラサグン(八剌沙袞,بلاساغونBalāsāghūn、現在のキルギスドクマク付近)へと遷都した。 |
| このように地盤を固めた大石は、天山山脈の南北のシルクロードルートを押さえ、東西に分裂していたカラ・ハン朝の軍を1137年に撃破して東部を領域に治めた。 |
| 当時ベラサグンは東カラハン朝の君主(イブラーヒーム2世?)によって治められていたが、近隣のカルルク部族やカンクリ部族などへの支配力は低下し、逆にこれらの周辺諸部族からの掠奪や反乱に見舞われていたため、耶律大石率いる契丹軍の侵攻に抵抗できる余力はなかった。 |
| この東カラハン朝の君主は、西進してきた大石に使者を派遣し、首都に招き入れて政権を移譲する意思を伝えたという。 |
| これによって東カラハン朝の君主は「ハン」の称号を剥奪され、代わりに「イリグ・トルカン」という称号を与えられたとされている。 |
| 東カラハン朝を手中にした後、大石は北西のカンクリやキルギスの諸部族の征服と帰順に成功し、さらに天山、パミール高原を超えたフェルガーナ地方まで支配を及ぼした。 |
| これによってマーワラーアンナフルを領有していた西カラ・ハン朝の第20代君主マフムード・ハン(2世)は臣属し(1137年)、1141年にはホラズム・シャー朝のアトスズは歳貢としてを毎年金貨3千ディーナールを納めるよう誓約させ、両王朝を臣従させた。 |
| 1141年、大石はカラ・ハン朝を支援していたセルジューク朝の第8代スルタン・サンジャルの率いる大軍をもサマルカンド近郊のカトワーン平原で撃破し、中央アジアに覇を唱えた。 |
| 当時サンジャルは自らの封土であったホラーサーンを拠点としてセルジューク朝君主によるイラン全土の統一的な支配を目論んでいたが、この敗北によって計画は頓挫し、結果、間接支配ながらも中央アジアのイスラム政権は異教徒の傘下となり、これに連動してテュルクメン諸集団の統制が不可能になった。 |
| 12世紀後半には活発化したテュルクメン諸集団によるイラン各地での騒乱とこれに伴うセルジューク朝諸王家の崩壊が生じているが、これらはこの耶律大石による中央アジア侵入とサンジャルを打ち破ったカトワーンの勝利に遠因を見ることができる。 |
| 大石は更に故地の奪還を願って、金に対する7万の親征軍を出発させるが、行軍中に病死した。 |
| 東征軍は引き返さざるを得なくなった。 |
| 大石死後、末子の夷列(=イリ、仁宗)が跡を継いだ。 |
| 西遼は中継貿易で栄え、軍事的には活発な運動を見せなくなる。 |