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光武帝
光武帝(こうぶてい、前6年-57年)は後漢王朝の初代皇帝。南陽蔡陽の人。王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた... |
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呉漢
後漢の武将。字は子顔(しがん)。南陽郡宛の人(『後漢書』列伝8・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第2位に序せられる(『後漢書』列伝12)。 |
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張歩
中国の新代から後漢時代初期にかけての武将。字は文公。徐州琅邪郡不其県の人。弟は張弘、張藍、張壽。新代から後漢時代初期にかけて、中国東部に割拠した群... |
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馮異
馮異(ふうい、?-34年)は後漢の武将。字は公孫(こうそん)、穎川郡父城県の人(『後漢書』列伝7・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第7位に... |
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岑彭
岑彭(しんほう、?-35年)は後漢の武将。字は君然(くんぜん)、南陽郡棘陽の人(『後漢書』列伝7・本伝)。後漢・光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第... |
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馬援
馬援(ばえん、紀元前14年-49年)は中国新末期から後漢初期の武将。字は文淵。諡は忠成。光武帝に仕え、光武帝の敵を多く討ち果たした。その娘(馬皇后)は後... |
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蓋延
後漢の武将。字は巨卿(きょけい)。漁陽郡要陽の人(『後漢書』列伝8・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の11位に序せられる(『後漢書』列伝12)。 |
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雲台二十八将
後漢の光武帝に付き従ってその覇業を助けた二十八人の有能な家臣団を指す。李通、竇融、王常、卓茂などを加えて雲台三十二将と呼ばれることもある。また、光... |
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賈復
賈復(かふく、?-55年)は後漢の武将。字は君文(くんぶん)、南陽冠軍の人(『後漢書』列伝7・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第3位に序せ... |
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耿純
耿純(こうじゅん、?-37年)は後漢の武将。字は伯山(はくざん)、鋸鹿郡宋子の人(『後漢書』列伝11・本伝)。後漢・光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」... |
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皇甫嵩
中国後漢末期の武将。字は義真(ぎしん)。安定郡朝那県出身。皇甫棱の曾孫、扶風都尉皇甫旗の孫、皇甫節の子、度遼将軍皇甫規の甥、皇甫堅・皇甫寿(もしく... |
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王郎
中国の新代の武将、政治家。冀州趙国邯鄲県の人。新末後漢初の群雄の1人で、河北に勢力を張った人物である。本名は王昌で、王郎は別名である。しかし『後漢書... |
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王梁
後漢の武将。字は君厳(くんげん)。漁陽要陽の出身(『後漢書』列伝12・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第18位に序せられる(『後漢書』列伝12)。 |
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祭遵
祭遵(さいじゅん、?-33年)は後漢の武将。字は弟孫(ていそん)、潁川郡潁陽の人(『後漢書』列伝10・本伝)。後漢・光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」... |
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景丹
景丹(けいたん、?-26年)は後漢の武将。字は孫卿(そんきょう)、馮翊櫟陽の人(『後漢書』列伝12・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第10位... |
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王覇
?-59年)は、後漢の武将。字は元伯(げんはく)。穎川穎陽の人(『後漢書』列伝10・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第23位に序せられる(『後漢... |
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杜茂
後漢の武将。字は諸公(しょこう)。南陽冠軍の人(『後漢書』列伝12・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第20位に序せられる(『後漢書』列伝12)。 |
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陰麗華
後漢の光武帝(劉秀)の皇后で明帝の母。諡は烈(諡号としては光烈皇后)。劉秀と同じ南陽郡(河南省)出身の豪族陰氏の娘で、近隣でも評判の美女として、挙... |
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馬武
後漢の武将。字は子張(しちょう)。南陽郡湖陽の人(『後漢書』列伝12・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の15位に序せられる(『後漢書』列伝12)。 |
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馬成
馬成(ばせい、?-56年)は後漢の武将。字は君遷(くんせん)、南陽棘陽の人(『後漢書』列伝12・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第17位に序... |
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プロフィール
耿&x5F07;(こうえん、3年-58年)は後漢の武将。字は伯昭(はくしょう)、扶風茂陵の人(『後漢書』列伝9・本伝)。父は、上谷郡太守の耿況。後漢・ 光武帝の功臣であり、「 雲台二十八将」の第4位に序せられる(『後漢書』列伝12)。
略歴
| →偏将軍〔劉秀〕→大将軍〔劉秀〕。 |
| →建威大将軍〔後漢〕。 |
| →好畤侯〔後漢〕。 |
| →好畤愍侯〔没後〕。 |
| 弟:耿舒耿国耿広耿挙耿覇。 |
| 若くして『詩』『礼』を学び、王莽に朔調の連率(新制における上谷郡の太守)に任じられた父耿況の業務を習い、また兵事を好んだ。 |
| 更始1年(23年)、更始帝が立ち王莽が敗れると、耿況は王莽によって任命されたため安心できず、耿弇が更始帝への使者として上谷より長安に向うが、この時、邯鄲で占い師の王郎が成帝の遺児劉子輿を名乗って挙兵した。 |
| 耿弇の従官は王郎に奔るが、耿弇は更始帝の行大司馬である劉秀が北の中山郡・盧奴に在ると聞いて、馳せて拝謁し、劉秀は耿弇を書記に任じる。 |
| 耿弇は、上谷に帰って兵を集めて、邯鄲を討たんことを求める。 |
| 劉秀は笑って「小僧が大志を持っている」と答えた。 |
| 劉秀に従いて薊に至りし時、邯鄲の兵が来ると言う噂を聞き、劉秀らが南に帰らんとすると、耿弇は「兵は南から来るのですから、南には帰るべきではありません。 |
| 漁陽太守の彭寵は大司馬の同郷人であり、上谷太守は我が父なり、両郡の弓射騎一万人を集めれば、邯鄲は畏るるに足りません」と説得した。 |
| しかし、薊は混乱し、劉秀らは南に脱出し、耿弇は独り北に脱出し昌平県に走り、既に耿弇から檄文を受けて出陣していた耿況と合流する。 |
| 耿弇は耿況に説き、功曹の寇恂をして彭寵に約させ、突騎兵と歩兵を発した。 |
| 耿弇は上谷次官の景丹、寇恂と共に漁陽軍と合し、南戦し、王郎の諸軍を破り、二十二県を押えて、広阿の劉秀に追いた。 |
| 耿弇はその軍を預かり偏将軍となり従いて邯鄲を降した。 |
| 更始2年(24年)、蕭王となった劉秀に、耿弇は人払いして、漢を復興できるのは劉姓以外では難しければ、命に応じて不安定な長安に帰るべきでなく、兵士が減っていることより、幽州の兵を集めるべしと進言する。 |
| 劉秀はこれを受けて耿弇を大将軍と為して、上谷に行かせ、耿弇は、更始帝の任じた上谷太守韋順、漁陽太守蔡充を捕えて斬り、幽州の兵を集めるのに成功した同時期に呉漢も大将軍に任じられ、漁陽郡に向い更始帝の幽州牧苗曽を斬った。 |
| 建武1年(25年)、劉秀の河北平定に他将と共に奔走し、劉秀が皇帝に即位すると、建威大将軍となり、列侯に封じられる。 |
| 建武3年(27年)、呉漢配下として蓋延と共に流賊の青犢を破って降した。 |
| また群雄延岑らと穣に戦いて破った。 |
| 建武4年(28年)、光武帝に進言し、上谷で兵を募り、叛乱した漁陽太守彭寵を撃ち、流賊を撃ち、更に南下して、斉の地を平定する戦略を奉上した。 |
| 祭遵らと涿郡・漁陽郡の討伐に出た。 |
| 建武5年(29年)、呉漢に従いて富平・獲索の賊を破り降した。 |
| 耿弇は陳俊らを率いて張歩を破り、斉の地を平らげる。 |
| 劉秀はこれを讃え「志有る者は事竟に成る」と言った。 |
| 建武6年(30年)、他将と共に公孫述を討つため隴西に向うが、隗囂が叛乱して引き返した。 |
| 隗囂に備え漆県に駐屯した。 |
| 建武13年(37年)、全国が平定された為、大将軍を辞め、列侯として朝請を奉じた大将軍を辞めた時は35歳で、以後は天下の大事に議論が分かれた時には召されて計略を尋ねられた。 |
| 永平1年(58年)、卒した。 |
人柄・逸話
| 漁陽を討つ際に、耿弇は、謀反した漁陽太守彭寵と同じ功績を持つ父上谷太守耿況の謀反の可能性を疑い、劉秀に耿況を召すように求め、劉秀は耿弇・耿況を疑わないが、案じた耿況は弇の弟の国を側近として入朝させた。 |
| 劉秀は耿況に対して侯位で報い、互いに信頼関係を太くした。 |
| 耿弇は、斉の張歩に対して、徹底した計略戦を仕掛け、後世、魏の曹操も「囲魏救趙(魏を囲んで趙を救う)計」の実例としてその戦い方を解説している。 |
| その計略は、攻城の準備をした上で捕虜をわざと逃がし、敵の救援が来るのを待ち伏せで攻める(囲魏救趙)。 |
| 二つの城の片方を攻めると宣言し、そちらを警戒させて、夜中にもう一方の無警戒の城に接近してこれを落し、驚いた敵に他方の城も放棄させる声東撃西岑彭もこの計を使っている。 |
| しかも、それは耿弇が使う以前である。 |
| 敵を怒らせて誘い出させる(調虎離山)。 |
| 敵にわざと攻めさせ、攻め切れず疲れて退却する所を襲う(以逸待労)。 |
| 『後漢書』には、耿弇の平らげる所の軍は四十六、城を落すこと三百、未だかつて挫折なしとある。 |
| 耿弇の弟には、舒、国、広、挙、覇があり、兄弟六人が青紫の綬の重職に付き、当時名誉であるとされた。 |
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