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父・始皇帝が行幸中に病死すると、丞相の李斯と、かつての胡亥の守役で始皇帝の側近の趙高に擁立されて即位する。
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しかしこの即位には疑問を有する者が少なからず存在し、胡亥は即位前後から趙高の勧めに従って兄の扶蘇を自殺に追い込み、公子高ら兄弟を含む皇族や重臣を粛清。
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さらに始皇帝陵や阿房宮、万里の長城の建築を推進し、匈奴の侵攻に備えるべく大規模な徴兵を行なったことで人心の離反を招いた。
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前209年、陳勝・呉広の乱が発生。
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これは半年余りで鎮圧したものの胡亥は更なる土木事業や奢侈な宮廷生活を追求したことから人心はさらに乖離、胡亥に諫言した李斯を趙高の讒言により処刑した。
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この頃から楚の項梁を中心とした反秦勢力が強大化、秦軍では反乱鎮圧に対応不可能な状態となっていたが、自らは後宮にこもり、政務を趙高に委任していた胡亥には秦朝の現状が報告されることなく、趙高が反乱に関する情報を操作していた。
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この時期に、趙高が故意に鹿を馬であると胡亥に献上した、いわゆる「馬鹿」の故事となる出来事があった。
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前207年になると秦軍は各地で反乱軍に敗退、中でも劉邦による軍は都城である咸陽の近郊まで進軍してきた。
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ようやく状況の悪化を知った胡亥は趙高の責任を追及し、粛清を恐れた趙高は一族を率いてクーデターを起こす。
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その結果胡亥は捕らえられ24歳で自殺させられた。
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胡亥が即位するに当たって、始皇帝が長子の扶蘇を後継者とする遺詔を残したが、趙高と李斯により遺詔が改竄されたため胡亥が即位したと『史記』は記録している。
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西嶋定生は「このような偽勅の陰謀があったとしても、それはもともと史料として残る性質のものではない。
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事実として確認できるのは末子胡亥の即位と、長子扶蘇および将軍蒙恬が勅書を受けて死罪となったということだけであって、偽勅がなされたかどうかということは証明しがたいことである。
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末子の即位と長子の非業の死という異常の事態と、二世皇帝時代における秦帝国の急速な凋落とが、後世巷間に、このような偽勅の陰謀というフィクションをつくりあげたのではあるまいか」と述べている中国の歴史シリーズ『秦漢帝国』(文庫版 ISBN 4-06-159273-4)。