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孫文
中国生まれ・アメリカ国籍の政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また... |
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蒋介石
蒋介石(しょうかいせき、、1887年10月31日-1975年4月5日)は中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統。孫文の後継者として北伐... |
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汪兆銘
汪兆銘(おうちょうめい、1883年5月4日-1944年11月10日)は中華民国の政治家。字は季新。号は精衛(中華圏では「汪精衛」と呼ぶのが一般的である)。知日派と... |
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汪精衛
汪精衛と蒋汪合作政権 明治大学社会科学研究所叢書 土屋光芳/著 出版社名 : 人間の科学新社 出版年月 : 2004年11月 ISBNコード : 978-4-8226-025... |
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戴季陶
戴季陶(たいきとう)は中華民国の政治家。本名は伝賢で、字は季陶と選堂がある。号は天仇。 |
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袁世凱
袁世凱(えんせいがい、1859年9月16日(咸豊9年8月20日)-1916年6月6日)は中国清末民初期の軍人・政治家。大清帝国第2代内閣総理大臣、中華民国臨時大総統、... |
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宋教仁
宋教仁(そうきょうじん)は清末民初の革命家・政治家。湖南省桃源県の小地主の家に生まれる。字は得尊、号は敦初。漁夫などの書名を用いた。 |
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黄興
黄興(こうこう)は清末民初の中国人革命家。孫文とともに民国革命の双璧と称される。字は&x53AA;吾。 |
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章炳麟
清末民初にかけて活躍した学者・革命家。字は枚叔(ばいしゅく)。号の太炎でも知られる。 |
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蔣介石
小田村四郎日本李登輝友の会の会長・日本会議副会頭。 |
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康有為
清末民初にかけての思想家・政治家・書家。字は広厦、号は長素、のちに更生(更甡)と称した。出身地から康南海とも呼ばれる。 |
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蔡元培
蔡元培(さいげんばい)は清末民初の政治家、教育家。字は鶴卿又は仲申、民友、孑民。中華民国初代教育総長を務め、1916年から1927年までは北京大学学長(192... |
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閻錫山
閻錫山(えんしゃくざん)は中華民国の軍人、政治家。山西省を拠点に勢力を誇った軍閥(山西派()/())の頭領。日本に留学した知日派だった。字は伯川。号... |
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宋子文
宋子文(そうしぶん)は中華民国の政治家、実業家。 |
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張学良
中華民国の軍人・政治家。張作霖の長男である。字は漢卿。 |
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陳炯明
中華民国の政治家・軍人。広東派の指導者である。 |
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孫科
孫科(そんか、1891年10月20日-1973年9月13日)は中華民国の政治家。孫文の子で、生母は盧慕貞。国民政府において要職を歴任した。字は哲生。 |
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胡適
胡適(漢音:こせき、もしくは 慣用音:こてき)は中華民国の学者・思想家・外交官。原名は嗣&x7A48;、字は希疆、後に適と改名した。「適者生存survivalofth... |
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陶成章
陶成章(とうせいしょう)は清末の革命家。光復会を組織し主要メンバーとなった。字は煥卿。 |
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陳立夫
陳立夫(ちんりつふ)は中華民国の政治家。兄の陳果夫とともに中国国民党内派閥の1つである「CC系」の指導者として知られる。名は祖燕だが、字の立夫で知られ... |
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プロフィール
- 胡漢民とは
- 清末の活動
- 民国初期の活動
- 中国国民党成立後
- 蒋介石との権力闘争
- 参考文献
胡漢民(こかんみん)は清末民初の政治家。中国同盟会以来の革命派人士で、中国国民党の長老。 蒋介石と権力闘争を繰り広げたことでも知られる。旧名は衍鴻、字は展堂。
清末の活動
| 21歳で挙人となった。 |
| 1902年(光緒28年)に、呉敬恒(呉稚暉)・鈕永建らと日本に留学し、弘文学院師範科で学ぶ。 |
| しかし、呉が日本政府と清国公使により日本から追い返される事件が発生し、胡は怒って退学、帰国した。 |
| 帰国後は、ジャーナリスト・教師として活動する。 |
| 1904年(光緒30年)に再び日本へ留学し、法政大学速成法政科で学んだ。 |
| 翌1905年(光緒31年)秋、孫文(孫中山)が中国革命同盟会(まもなく中国同盟会と改名)を成立させると、胡漢民は廖仲愷と共にこれに加入している。 |
| 11月に創刊された同盟会機関誌『民報』では、胡は論客として保皇派との論戦に活躍した。 |
| 1907年(光緒33年)春、孫が日本から国外追放されると、胡もこれに同行し、両広起義に加担している。 |
| 起義失敗後、胡は南洋で資金収集に活動し、1909年(宣統元年)10月、香港で成立した同盟会南方支部で支部長に任ぜられた。 |
民国初期の活動
| 1911年(宣統3年)10月、武昌起義(辛亥革命)が勃発する。 |
| 胡漢民は広東の革命派蜂起を指導して、11月9日に広東の独立を宣布し、都督に推戴された。 |
| 翌1912年(民国元年)1月、南京臨時政府が成立すると、臨時大総統孫文を補佐する大総統秘書長に任ぜられる。 |
| 袁世凱が孫から譲られて臨時大総統となった後の4月、胡は広東に戻り都督専任となった。 |
| 8月、宋教仁が同盟会を基に国民党を結成すると、胡は広東支部長となる。 |
| 1913年(民国2年)3月、宋教仁が袁世凱の刺客に暗殺されると、胡漢民は反発の姿勢をとったが、6月には広東都督から罷免されてしまう(後任は陳炯明)。 |
| そのため、胡は第二革命(二次革命)に大きな関与をなすこともできず、これに失敗した孫とともに日本へ亡命した。 |
| 翌1914年(民国3年)7月、東京で中華革命党が成立すると、胡は同党政治部長に任ぜられている。 |
| 1916年(民国5年)4月、密かに帰国し、陳其美らの反袁活動に与した。 |
| 1917年(民国6年)9月、孫文が護法運動を開始し、広州で護法軍政府(大元帥府)が成立すると、胡漢民は交通部長に任命された。 |
| しかし翌年5月に護法軍政府が7総裁の集団指導制に改組され、岑春煊が主席総裁として孫から実権を奪う。 |
| 孫や胡は怒って上海に去った。 |
| 1919年(民国8年)8月、胡は孫文の指示で雑誌『建設』を創刊し、五四運動や新文化運動を支持する文章を発表している。 |
| 1921年(民国10年)5月、孫が非常大総統となると、胡は総参議に任ぜられた。 |
中国国民党成立後
| 1924年(民国13年)1月、中国国民党が結成されると、胡漢民は中央執行委員会委員に選出された。 |
| 9月、孫文が北伐を開始すると、胡は広東の留守をつとめて大元帥の職権を代行し、広東省長を兼ねている。 |
| 翌月、広東商団の反革命蜂起が起きたが、胡はこれを鎮圧して危機を脱した。 |
| 1925年(民国14年)3月、孫文が死去すると、胡漢民は大元帥代理としての職務をとることになる。 |
| 以後、胡は反共右派の立場を明らかにし始め、国民党右派の西山会議派には直接参加しなかったものの、中国共産党粛清の提案を開始するようになる。 |
| ところがその矢先の8月20日に、容共左派の指導者である廖仲愷が暗殺されてしまった。 |
| 胡は首謀者と疑われて失脚し、9月からソビエト連邦へ赴くことになる。 |
| 1926年(民国15年)4月末に胡はようやく帰国したが、しばらくは表立った活動を控えることになった。 |
| 翌1927年(民国16年)4月、蒋介石が上海クーデター(四・一二事件)を起こし、汪兆銘(汪精衛)らの武漢国民政府に対抗して南京国民政府を樹立すると、胡漢民はこれに協力する形で復帰し、古応芬・伍朝枢・張静江と共に南京国民政府常務委員の地位についた。 |
| 国民党においても、中央政治会議主席、中央執行委員会常務委員兼宣伝部長、中央軍事委員会常務委員などの要職を得ている。 |
| さらに『訓政綱領』と『国民政府組織法』の制定を主導し、1928年(民国17年)10月にこれらを公布した。 |
| これらに基づいて蒋は国民政府主席に、胡は立法院長にそれぞれ就任している。 |
蒋介石との権力闘争
| 蒋介石が次第に軍・党で強力な権限を掌握していくと、次第に胡漢民はこれに反発を覚え始める。 |
| そして両者は、中華民国訓政時期約法の制定をめぐって衝突した。 |
| 1930年(民国19年)、蒋は国民大会を開催して訓政時期約法を制定することを表明したが、胡は「総理(孫文)の著書では訓政時期における約法制定について言及されていない」などとして、これに反対する。 |
| 孫文の遺教に従うべしとの理論上からの反対ではあったが、実態としては蒋のリーダーシップ強化に対する胡の抵抗であった。 |
| 立法院長の地位を盾に胡漢民は約法起草要求に応じず、ついに業を煮やした蒋介石は、1931年(民国20年)2月28日に胡を立法院長から解任し、南京の湯山に軟禁する挙に出る。 |
| これにより同年5月5日の国民大会で訓政時期約法が成立し、6月1日に公布されることになった。 |
| しかし蒋のこの強引な措置は、当然ながら胡支持派からの強烈な反発を呼ぶことになる。 |
| 同年5月27日には、汪兆銘・孫科らが広州で国民党中央執行委員会非常会議を開催し、反蒋の広州国民政府樹立に至った。 |
| さらに満州事変(九・一八事変)が起きると、抗日のための大同団結の世論が高まるようになる。 |
| 結局、蒋介石は10月14日に胡漢民を釈放し、さらに南京・広州両派も再合流することになった。 |
| この際には、政治的妥協から蒋は国民政府主席を辞任、下野し、林森が後任主席に任ぜられている。 |
| その後も、胡は広州にあって国民党中央執行委員会西南執行部常務委員をつとめ、いわゆる「西南派」の中心的指導者として影響力を保ち続けた。 |
| 1935年(民国24年)12月、国民党第5次全国大会で中央執行委員に選出されている。 |
| 1936年(民国25年)5月12日、胡漢民は広州にて脳溢血のため急死した。 |
| 享年57(満56歳)。 |
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