| 寛永10年(1633年)誕生。 |
| 当時信濃飯田藩主であった脇坂安元の嗣子安経が、備中松山藩主池田長幸の遺領についての話し合いの席で池田長頼に殺害されたため、安元は堀田正盛の弟安利を養子に迎えたが、わずか19歳で亡くなる。 |
| そこで安元は、安利の甥にあたる正盛の次男安吉(安政)を寛永17年(1640年)に養嗣子として迎えた。 |
| 養嗣子となってからは、名君として知られた養父安元の元で飯田藩の経営にも深く関わっている。 |
| また、養嗣子となった同年に3代将軍徳川家光に拝謁している。 |
| 慶安4年(1651年)には従五位下中務少輔に叙任されている。 |
| 承応3年(1654年)に養父の死により家督相続。 |
| この際、襲封した5万5,000石の内、2,000石を叔父である脇坂安方に分け与えている。 |
| 万治元年(1658年)、江戸城の本丸修営に携わっている。 |
| また他にも、後に3度の大坂城加番や青蓮院法親王、勅使に対して馳走職を担当するなど、幕政に貢献している。 |
| 万治3年(1660年)、下総佐倉藩10万石の藩主であった安政の実兄堀田正信は、旗本の困窮などで幕政を非難し、無断帰国したため改易蟄居処分となった。 |
| この時、兄の身柄を幕命により引き取っている(後に安政の龍野移封の際には、母方の叔父に当たる若狭小浜藩主酒井忠直に預け替えとなった)。 |
| 寛文12年(1672年)、飯田から播磨龍野藩(揖東・揖西・三木の三郡)に転封。 |
| 龍野は万治元年(1658年)に京極氏が丸亀藩に転出して以降14年余り天領となっていたため、城も破却され、荒れた状態となっていた。 |
| 当時の様子は「城地、武家屋敷はことごとく田畑となっていた」といわれるほど、城郭は荒んでいた。 |
| そこで、安政は幕府の許可を得ると直ちに城の再建に取りかかる。 |
| 安政は町屋、農家に泊まり、1年余りで修理再建を行ったが、行ったのは修復のみであり、京極時代の城の再建であったともいえる。 |
| この時に築かれた城が現在の龍野城の元となっている(但し建物などは明治維新以降に再び破却され、現在見られる建物は昭和54年(1979年)になって順次再建された物である)。 |
| その後、城下町の整備も進め、現在のたつの市(旧龍野市)の原型を作り上げた。 |
| しかし、脇坂家時代の龍野の城下町は、規模でいうと26万石の大名であった京極時代の城下町と比べて大きく縮小しており、城下町の中心部を集中的に整備し発展させたといえる。 |
| その他、現在もたつの市の名産である「薄口醤油」の生産を奨励するなど龍野藩の発展に尽くす。 |
| 延宝6年(1678年)、安政は嫡子安村を多病を理由に廃嫡し、5男の安照を嫡子とした。 |
| しかし、安村は廃嫡されるまでに既に4代将軍徳川家綱への拝謁と叙任を終えていたため、反感を募らせていたと思われ直接行動に出た。 |
| 天和2年(1682年)、安村は譜代である近江彦根藩主井伊直興に直談判にでたが、面会を拒否され、続いて上野天真法親王に直訴した。 |
| しかしこれは裏目に出て、これを聞いた幕府は激怒し、安村の身柄を小浜藩主酒井忠隆に預け、19年余り幽閉された(後に許されている)。 |
| 天和3年(1683年)、安政は実家が譜代大名・堀田氏であることを理由として、脇坂家を外様から譜代へと扱いを変えてもらうよう幕府に申請し、許しを得た事で江戸城での伺候席が譜代の帝鑑間詰となり、外様から「願譜代」となる。 |
| 貞享元年(1684年)、5男の安照に家督を譲り、隠居して如水と号した。 |
| 元禄7年4月20日(1694年5月13日)、龍野にて死去。 |