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つながりの強いひと
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本庄繁
日本の陸軍軍人。第10師団長・関東軍司令官・侍従武官長を歴任し階級は陸軍大将正三位勲一等功一級男爵に至る。軍を退いてからは軍事保護院総裁や枢密顧問官... |
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張作霖
張作霖(ちょうさくりん,ZhangZuolin)は中華民国初期の軍閥政治家で、北洋軍閥の流れを汲む奉天派の総帥。満州の統治者であり張学良・張学銘・張学思の父。... |
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蒋介石
蒋介石(しょうかいせき、、1887年10月31日-1975年4月5日)は中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統。孫文の後継者として北伐... |
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河本大作
昭和初期に活動した大日本帝国の陸軍軍人。張作霖爆殺事件の首謀者として知られる。 |
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張景恵
対立
張景恵(ちょうけいけい、1871年(清同治10年)-1959年5月)は中国の政治家・軍人。字は敘五。満州国国務総理大臣で、中華民国軍事参議院院長や実業総長など... |
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鄭孝胥
清末の官僚・満州国の政治家・書家。字は太夷、号は蘇戡・蘇盦等。満州国の初代国務院総理(首相)。 |
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張燕
対立
中国後漢末期の武将。常山郡真定県の人。黒山賊という10万の山賊や罪人などを率いた頭領。もとの名は褚燕。字は不明。子に張方(魏の平北将軍)がいる。 |
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日政
江戸時代前期の日蓮宗の僧・漢詩人。山城・深草瑞光寺(京都市)を開山した。俗名は石井元政(もとまさ)。幼名は源八郎、俊平。号は妙子・泰堂・空子・幻子・... |
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謝介石
対立
謝介石(しゃかいせき)は満洲国初代外交部総長。満州国の台湾人で最高官職に就任した人物である。字は又安(幼安とも作る)。謝介石は幼少にして私塾に学び... |
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張学良
中華民国の軍人・政治家。張作霖の長男である。字は漢卿。 |
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石原莞爾
昭和の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。栄典は勲一等・功三級。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織... |
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趙欣伯
公使館付陸軍武官だった 本庄繁 が 張作霖 に推薦したものとされる [3] 。翌年7月、北京政府外交部条約修改委員会委員に任ぜられた。 1928年 (民国17年)6月... |
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施肇基
清末 、 中華民国 の外交官・政治家。 北京政府 、 国民政府 において駐米公使、駐英公使等をつとめた中華民国を代表する外交官の1人である。 字 は 植之 。... |
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張海鵬
張海鵬(ちょうかいほう)は中華民国・満州国の軍人。北京政府、奉天派に属し、後に満州国に参加した。字は仙濤。 |
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袁金鎧
袁金鎧(えんきんがい)は清末から中華民国、満州国の政治家。清朝、北京政府、奉天派の政治家で、後に満州国の要人となった。字は潔珊、兆傭。晩号は傭廬。 |
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板垣征四郎
大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を... |
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阿部信行
日本のアニメプロデューサーについて記述しています。日本の政治家については「 阿部信行 」を、日本のサッカー選手については「 阿部伸行 」をご覧ください... |
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汪兆銘
汪兆銘(おうちょうめい、1883年5月4日-1944年11月10日)は中華民国の政治家。字は季新。号は精衛(中華圏では「汪精衛」と呼ぶのが一般的である)。知日派と... |
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プロフィール
- 臧式毅とは
- 奉天派での台頭
- 張学良の腹心
- 満州国建国において
- 満州国の要人として
- 参考文献
臧式毅(ぞうしきき)は中華民国の軍人・政治家。北京政府、奉天派の軍人で、後に満州国の要人となった。字は奉久。
奉天派での台頭
| 1909年(宣統元年)、日本へ官費留学し東京振武学校を経て、陸軍士官学校騎兵科第9期で学習した。 |
| 1911年(宣統3年)、臧式毅は一時帰国して、南京の革命派の蜂起に参加した。 |
| しかし、革命派の内部対立に失望して、再度日本に渡り学習に復帰した。 |
| 1914年(民国3年)に帰国し、保定陸軍軍官学校で教官をつとめた。 |
| まもなく、参謀本部上校科長の沈鴻烈の下で参謀となる。 |
| 1918年(民国7年)、奉天軍(奉軍)の孫烈臣が湖南省攻撃のために入関してくると、臧式毅は沈鴻烈の下を離れて孫の配下となる。 |
| 1920年(民国9年)、孫が黒竜江督軍となると、臧は督軍公署中校参謀に任命された。 |
| 1921年(民国10年)、孫が吉林督軍に転任すると、臧は上校参謀兼衛隊団長に昇進した。 |
| 民国12年(1923年)、督軍公署参謀長となり、病身の孫に代わって多くの事務を担当した。 |
| 翌年に孫が病没すると、臧は6月に東北陸軍整理処参謀長に就任する。 |
| 第1次奉直戦争に敗北した奉軍の再建、精鋭化に従事した。 |
| この時の臧の仕事振りは、奉天派指導者の張作霖・張学良父子から高く評価されている。 |
張学良の腹心
| 1925年(民国14年)9月、臧式毅は江蘇督弁に任命された楊宇霆に随って、南京に入り、省署参謀長に任命された。 |
| しかし、同年10月に勃発した奉浙戦争で、楊は孫伝芳に敗れて北方へ退却する。 |
| この際に臧は逃げ遅れて孫軍に捕縛されてしまった。 |
| 約半年後に釈放されて奉天に戻ると、奉天派は郭松齢の兵変による損害を回復しようとする段階にあった。 |
| 臧式毅は遼寧省財政庁長に任命され、財政改革を推進した。 |
| 1926年(民国15年)12月1日に、張作霖が安国軍総司令に推戴されると、臧は公署参議として、奉軍留守司令を委ねられている。 |
| 1928年(民国17年)6月4日、張作霖爆殺事件が起きると、臧式毅は張学良に密かに連絡して瀋陽へ呼び戻した。 |
| さらに、様々な雑務を取り仕切って、奉天派中枢の動揺を抑えている。 |
| 易幟後の1929年(民国18年)1月に、張学良が楊宇霆、常蔭槐を粛清する。 |
| 張学良は後事を臧に託し、奉天兵工廠督弁に任命した。 |
| 1930年(民国19年)、臧は遼寧省政府主席に任命された。 |
| 同年に張学良が中原大戦参戦のために出撃すると、臧が後方留守総司令を務めた。 |
満州国建国において
| 1931年(民国20年)の満州事変では、臧式毅は関東軍との間で和平交渉を進めようとしたが、失敗し、関東軍に拘禁されてしまう。 |
| しかし、日本の後ろ盾により袁金鎧、闞朝璽らが組織した奉天地方自治維持会(遼寧省地方自治維持委員会)は、統治のための力量も声望も乏しかった。 |
| そのため日本は臧を釈放し、12月16日に奉天省長に任命して、遼寧の統治を行わせた。 |
| この際に臧式毅は、以後積極的に東三省政権を組織すること、東三省内に日本軍を駐在させて国防を委任し、その軍事費を負担することなどを板垣征四郎から要求された。 |
| 臧は、身の危険を感じて文書に署名せざるを得なかった、とされる「臧式毅筆供」1954年8月9日、中央档案館他編『日本帝国主義侵華档案資料選編-九・一八事変』中華書局、1988年(山室信一『キメラ-満洲国の肖像増補版』、77-78頁より)。 |
| 1932年(民国21年)1月16日、臧式毅は、煕洽・張景恵・馬占山との四者会談に参加した。 |
| 17日に臧は東北行政委員会委員となっている。 |
| 18日、同委員会は電文を発し、東北地方の国民政府からの離脱を宣言した。 |
| しかしこの前後において、溥儀よりも、臧を新国家の首班に擁立すべき、との声も張景恵らからは強かった。 |
| 現地において、辛亥革命以来の中国人の努力を無にしてしまい、また、東三省自治指導運動の意義を抹殺してしまう、との反発があったためである山室前掲、147-148頁。 |
| これを背景にして、2月に建国最高会議が開かれた際には、臧は張景恵らと共に立憲共和制の採用を唱え、帝制採用を唱える張燕卿(煕洽の代理人)・謝介石らと対立した。 |
| この対立は、関東軍の調停により、溥儀をいったん執政に擁立するという案で妥協が図られている山室前掲、151頁。 |
満州国の要人として
| 1932年(大同元年)3月、満州国が正式に成立し、臧式毅は民政部総長(後に大臣)兼奉天省長に任命された。 |
| 1934年(康徳元年)3月、溥儀の皇帝即位の際に、臧式毅は勲一位に叙された。 |
| 10月、四省制から十省制への省制度改革がなされた際に、奉天省長の兼任を解かれている。 |
| 翌年3月、国務総理大臣鄭孝胥が辞任した際に、臧は溥儀から後任に推された。 |
| しかし結局、関東軍の推す張景恵が後任となり、臧は参議府議長とされた山室前掲、241-242頁。 |
| なお鄭孝胥は、間島省省長蔡運升を後任に推していた。 |
| 以後、立法院憲法制度調査委員、国道会議副議長などを歴任したがいずれも閑職であった。 |
| 1940年(民国39年)、汪兆銘(汪精衛)が南京国民政府を樹立すると、臧は満州国代表として南京に赴き、日満華共同宣言に調印した。 |
| 1945年(民国34年)8月17日、臧式毅・煕洽・張景恵らは、通化省臨江県大栗子で参議府緊急会議を開き、康徳帝(溥儀)の退位詔書(詔勅)を承認した(翌18日に公表)。 |
| その後、臧らは新京に戻ってソ連軍との交渉を図った。 |
| しかし、20日にソ連軍は新京に入城し、30日に臧は逮捕された。 |
| 臧式毅の身柄はソ連に移送され、1950年7月31日に中華人民共和国に引き渡された。 |
| 以後、撫順戦犯管理所に収監される。 |
| 1956年11月13日、獄中で病没した。 |
| 享年73(満72歳)。 |
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1923年
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督軍公署参謀長となり、病身の孫に代わって多... |
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1950年
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中華人民共和国に引き渡された |
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