| right|thumb|観空(公相君)を演武する船越義珍。 |
| 大正11年(1922年)5月、船越は上京して文部省主催の第一回体育展覧会(東京女子高等師範学校附属教育博物館)において、唐手の型や組手の写真を二幅の掛け軸にまとめてパネル展示を行った船越義珍『愛蔵版空手道一路』149頁参照。 |
| 翌6月には、講道館に招かれて、嘉納治五郎と柔道有段者を前にして、船越と東京商大(現・一橋大学)の学生・儀間真謹の二人で、唐手の演武と解説を行った。 |
| このとき船越は公相君、儀間はナイファンチを演武した。 |
| 下富坂(文京区)の道場に、二百人の館員が集まって参観したと言われる。 |
| 船越は、そのまま東京に留まり、沖縄県出身者のための学生寮「明正塾」に寄宿しながら、東京で唐手の指導をすることになった。 |
| 11月には、空手史上初となる『琉球拳法唐手』を出版した。 |
| 講道館の演武は型だけの単独演武だったこともあり、乱取り稽古を重視する柔道家には、あまり強い印象を与えることができなかったとされる講道館での演武を参観した富木謙治は、後に「単独演武ですから余り強い印象は受けませんでした」と回想している。 |
| 『空手道』27頁参照。 |
| ただし儀間はこの時約束組手も演じたと、のちに述べている。 |
| 唐手の稽古が型のみという問題は、その後も繰り返し柔道家の側から不満点として問題提起された。 |
| 乱取りに相当する稽古がなければ、本当の実力を計る物差しが唐手にはないのではないかというのである。 |
| 船越の初期の弟子であった大塚博紀(和道流開祖)や小西康裕(神道自然流開祖)によると、船越は当初15の型を持参して上京したが、組手はあまり知らなかったという『空手道』収録の寄稿文、大塚博紀「明正塾前後」の55頁、ならびに小西康裕「琉球唐手術の先達者」の58、59頁を参照。 |
| 加来耕三『武闘伝』の78、79頁を参照。 |
| 本土における約束組手の誕生である。 |
| 空手の約束組手が神道揚心流に似ているのは、このためであると言う。 |
| 大塚はさらに自由組手を唐手に導入しようと提案したが、これには船越が激しく反対し、そのため両者の関係は次第に難しくなったと言われている。 |
| 小西も、型を重視する船越に釈然としない事で、のちに船越を離れて本部朝基に弟子入りもする。 |
| 教育者(スポーツ要素)である船越から、教育者と対極の場で実戦を経験をして重視する本部に就く事は、船越にしてみれば裏切りであり、「小西を許せん!」と声を上げている『空手道』2002年1月号。 |
| 大正13年(1924年)、船越は「唐手研究会長・富名腰義珍」の名で、空手史上、初めての段位を発行した。 |
| 段位授与者は、粕谷真洋、大塚博紀、小西康裕、儀間真謹らであった。 |
| 同年13年(1924年)10月、慶應義塾大学に唐手研究会が発足、翌14年(1925年)10月には、東京帝国大学にも唐手研究会が発足し、それぞれ船越が初代唐手師範に就任した。 |
| また、この年、船越は二冊目の著書『錬胆護身唐手術』を出版している。 |
| 前著が簡単なイラストによる型の挙動解説であったのに対して、この書では、型の解説に写真が採用された。 |
| 後に、船越は型の立ち幅などを改変するが、この書は改変以前の船越の型を写真で確認することができ、本土空手の型の変遷を探る上で、貴重な資料となっている。 |
| 自由組手や試合化実現の問題は、船越の頭痛の種であった。 |
| 昭和2年(1927年)、東大の唐手研究会が防具唐手を考案し、唐手の試合化を模索し始めると、船越はこれに抗議して、昭和4年(1929年)12月、東大師範を辞任している。 |
| 船越は晩年までおおやけに空手の試合を認めることはなかったが、ただ船越が師範をつとめる大学空手部の中には、すでに昭和10年頃から船越には内緒で自由組手を行っていたようである。 |
| 同年、船越が師範を務める慶應義塾大学唐手研究会が機関誌において、般若心経の「空」の概念から、唐手を空手に改めると発表した。 |
| 空手の表記は、花城長茂が明治38年(1905年)よりすでに使用していたが、東京で空手表記に改められたことにより、急速に空手表記が広まっていった。 |
| 当初、沖縄空手界では反発もあったとされるが、昭和10年代になると、沖縄県でもこれに追随して空手表記が広まった。 |
| 本土で空手の表記が広まる中、唐手表記に固執すると、発祥の地である沖縄県の地位が危うくなると懸念されたためである。 |
| 昭和10年(1936年)、船越は三冊目となる著書『空手道教範』を出版した。 |
| この書では、日本の他の武道のように、新たに「道」の字を付けて、こうして唐手術は空手道という呼称に改められた。 |
| 昭和14年(1940年)、船越は豊島区雑司ヶ谷に念願の「松濤館」道場を建設し、本郷区真砂町(現・文京区)の道場から移った。 |
| しかし、この松濤館は昭和20年(1945年)に戦災で焼失した。 |
| また、同年、船越の後継者として自他共に認める三男・義豪が病のため死去した。 |
| 船越にとっては、苦悩の年であった。 |