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つながりの強いひと
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冷泉天皇
日本(平安時代中期)の第63代天皇。村上天皇の第二皇子で、諱は憲平(のりひら)。母は藤原師輔の娘中宮安子。円融天皇の同母兄。 |
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一条天皇
平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年7月31日)-寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 |
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永観
平安時代後期の三論宗の僧。実父は文章生源国経で、石清水八幡宮別当元命の養子となる。禅林寺の7世住持であり、中興の祖とされる。禅林寺の通称である「永観... |
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藤原兼家
平安時代の公卿。従一位摂政・関白・太政大臣に昇る。藤原北家流の藤原師輔の3男で、母は藤原経邦の娘盛子。道隆、道兼、道長らの父。妻の一人に『蜻蛉日記』... |
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藤原道長
藤原道長(ふじわらのみちなが)は平安時代中期の公卿。従一位・摂政・太政大臣・准三后。京都生まれ。藤原兼家の五男(四男という説もある)で、母は摂津守... |
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後一条天皇
平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日(1016年3月24日)-長元9年4月17日(1036年5月15日))。諱は敦成(あつひら)。 |
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三条天皇
三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日)-寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ/いやさだ)。享年42。在... |
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二条天皇
二条天皇(にじょうてんのう、康治2年6月18日(1143年7月31日)-永万元年7月28日(1165年9月5日))は第78代天皇(在位:保元3年8月11日(1158年9月5日)-永... |
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後冷泉天皇
日本の第70代天皇(在位:1045年-1068年)。父後朱雀天皇。母藤原道長女藤原嬉子。諱を親仁(ちかひと)という。紫式部の娘大弐三位が乳母である。 |
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覚源
平安時代後期の真言宗の日本の僧。花山天皇の第3皇子。母は不詳だが、一説には平平子(若狭守平祐忠女)とも言われている。法名は覚深とも表記する(『東大寺... |
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後朱雀天皇
平安時代中期の第69代天皇(在位:長元9年4月17日(1036年5月15日)-寛徳2年1月16日(1045年2月5日))。諱は敦良(あつなが)。 |
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後三条天皇
第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日)-延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。享年40。 |
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伊尹
母
夏末期から商(殷)初期にかけての政治家。商王朝成立に大きな役割を果たした。名は摯(し)。 |
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藤原彰子
第66代一条天皇の皇后(号は中宮)。第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号を上東門院といい、のち大女院などとよばれた。女房に『... |
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藤原道兼
平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の三男。同母の兄弟姉妹に道長、詮子らがいる。官位は正二位・関白・右大臣。贈正一位・太政大臣... |
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禎子内親王
第67代三条天皇の第3皇女で、第69代後朱雀天皇の皇后、女院。「ていし」は有職読みで、実際の読みは「さだこ」または「よしこ」だったと推測されている。母は... |
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枕草子
平安時代中期に中宮定子に仕えた女房清少納言により執筆されたと伝わる随筆。ただし本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれたという。「枕... |
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藤原詮子
平安時代、第64代円融天皇女御。第66代一条天皇生母(国母)。東三条院は院号である。摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女で、母は摂津守藤原中正の女子時姫。... |
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村上天皇
平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年4月28日(946年5月31日)-康保4年5月25日(967年7月5日))。諱は成明(なりあきら)。 |
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プロフィール
- 花山天皇とは
- 系譜
- 略歴
- 正式な后妃
- 皇子女
- 諡号・追号・異名
- 陵墓・霊廟
- 関連項目
花山天皇(かざんてんのう、安和元年10月26日(968年11月29日)-寛弘5年2月8日(1008年3月17日)、在位: 永観2年10月10日(984年11月5日)-寛和2年6月23日(986年7月31日))は、日本(平安時代中期)の第65代天皇。諱は師貞(もろさだ)。かつては華山天皇とも表記されていた。
系譜
| 冷泉天皇の第一皇子。 |
| 母は、摂政太政大臣藤原伊尹(これまさ)の娘・女御懐子。 |
| 三条天皇の異母兄。 |
| 子には花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家)の祖となった清仁親王がいる。 |
略歴
| 安和2年(969年)、叔父円融天皇の即位と共に皇太子になり、永観2年(984年)、同帝の譲位を受けて即位。 |
| 生後10ヶ月足らずで立太子したのは、摂政であった外祖父伊尹の威光によるものだが、17歳で即位時には既に伊尹は亡くなっており、有力な外戚を持たなかった事は、2年足らずの在位という後果を招いた。 |
| 関白には先代に引き続いて藤原頼忠が着任したが、実権を握ったのは、帝の外舅義懐と乳母子藤原惟成であった。 |
| 義懐と惟成は荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化など、革新的な政治を行ったが、程なくして天皇が退位したのに殉じて遁世した。 |
| 19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した。 |
| 突然の出家について、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御藤原忯子が妊娠中に死亡したことを素因とするが、『大鏡』では更に、藤原兼家が、外孫の懐仁(やすひと)親王(一条天皇)を即位させる為に陰謀を巡らした事を伝えている。 |
| 蔵人として仕えていた兼家の三男道兼は、悲しみにくれる天皇と一緒に出家するとそそのかし、内裏から元慶寺(花山寺)に連れ出した。 |
| このとき邪魔が入らぬように鴨川の堤から警護したのが兼家の命を受けた清和源氏の源満仲とその郎党達である。 |
| 安倍晴明の屋敷の前を通ったとき、中から「帝が退位なさるとの天変があった。 |
| もうすでに…式神一人、内裏へ参れ」と言う声が聞こえ、目にみえないものが晴明の家の戸を開けて出てきて一行を目撃し「たったいま当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」と答えたと。 |
| 元慶寺へ着き、天皇落飾すると、道兼は親の兼家に事情を説明してくると寺を抜け出してそのまま逃げてしまい、天皇は欺かれた事を知った。 |
| 内裏から行方不明になった天皇を捜し回った義懐と惟成は元慶寺で天皇を見つけ、そこでともども出家したと伝える。 |
| この事件は寛和の変とも称されている。 |
| この事件は親王時代に学問を教え、当時式部丞になっていた紫式部の父藤原為時や、尾張国郡司百姓等解文で有名な藤原元命の運命にも影を落とした。 |
| 花山天皇は当世から「内劣りの外めでた」等と評され、乱心の振る舞いを記した説話は『大鏡』『古事談』に多い。 |
| その一方で、彼は絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、ユニークな発想に基づく創造はたびたび人の意表を突いた。 |
| 『拾遺和歌集』を親撰したともいわれる。 |
| 出家し法皇となった後には、奈良時代初期に徳道が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺(兵庫県宝塚市)でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め大きな法力を身につけたという。 |
| この花山法皇の観音巡礼が西国三十三箇所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっている。 |
| この巡礼の後、晩年に帰京するまでの十数年間は巡礼途中に気に入った場所である摂津国の東光山(兵庫県三田市)で隠棲生活を送っていたとされ、この地には御廟所があり花山院菩提寺として西国三十三箇所巡礼の番外霊場となっている。 |
| 出家後の有名な事件としては、長徳2年(996年)花山法皇29歳のとき、中関白家の内大臣藤原伊周・隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件がある。 |
| 伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君(かつて寵愛した女御藤原忯子の妹)に花山法皇が通いだしたところ、それを伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家に相談する。 |
| 隆家は従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜く(更に『百錬抄』では、花山法皇の従者の童子二人を殺して首を持ち去ったという話も伝わっている)。 |
| 花山法皇は体裁の悪さと恐怖のあまり口をつぐんで閉じこもっていたが、この事件の噂が広がり伊周・隆家はそれぞれ大宰府・出雲国に流罪となった。 |
| (「長徳の変」)。 |
| 寛弘5年(1008年)2月花山院の東対にて崩御、紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠北高橋町)に葬られた。 |
| 死因ははっきりしないが悪性腫瘍によるものと考えられている。 |
| 乳母は橘則光の母右近尼である。 |
正式な后妃
| 女御:藤原忯子(969-985)-太政大臣為光次女。 |
| 女御:藤原姚子(971-989)-大納言朝光の女。 |
| 女御:藤原諟子(?-1035)-関白太政大臣頼忠次女。 |
| 女御:婉子女王(972-998)-一品式部卿為平親王女、のち藤原実資に再嫁。 |
皇子女
| 正式な后妃との間に子はなく、出家後、乳母子の中務とその娘平平子を同時に寵愛して子を産ませたため、世の人は中務の腹に儲けた清仁親王を「母腹宮」、平子の腹に儲けた昭登親王を「女腹宮」と称した。 |
| 二人の皇子はのちに、それぞれ冷泉院五宮・六宮として親王宣下。 |
| 母:中務(平祐之女)。 |
| 清仁親王(?-1030)-四品弾正尹、花山源氏の祖。 |
| 皇女(?-1024)-上東門院女房。 |
| 母:平平子(平祐忠女、母は中務)。 |
| 昭登親王(998-1035)-四品中務卿。 |
| 深観(1001-1050)。 |
| 覚源(1004-1065)。 |
| なお『栄花物語』によれば皇女四人のうち、平子腹の皇女一人のみ成長したという。 |
| しかし万寿元年(1024年)12月6日にこの皇女(上東門院彰子の女房)は夜中の路上で殺され、翌朝、野犬に食われた酷たらしい姿で発見された(『小右記』)。 |
| この事件は京の公家達を震撼させ、検非違使が捜査にあたり、翌万寿2年(1025年)7月25日に容疑者として法師隆範を捕縛、その法師隆範が藤原道雅の命で皇女を殺害したと自白する。 |
| 藤原道雅の父は花山法皇に矢を射掛けた藤原伊周である。 |
諡号・追号・異名
| 退位後の御在所に因んで「花山院」と呼ばれた。 |
| すべての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。 |
陵墓・霊廟
| 京都市北区衣笠北高橋町にある紙屋川上陵(かみやかわのほとりのみささぎ)。 |
| 『日本紀略』に葬所は「紙屋川の上、法音寺の北」とあり、法音寺北陵とも称したので、幕末に法音寺の旧跡にもとづいて現在地に比定された。 |
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1008年
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花山天皇(かざんてんのう、安和元年10月26日... |
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1024年
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この皇女(上東門院彰子の女房)は夜中の路上... |
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