| タイガース入団時すでに28歳になっていたが投手寿命は非常に長く、45歳まで現役を続け、1リーグ時代の技巧派の代表的投手とされている。 |
| 「七色の変化球」(ストレート、カーブ、シュート、スライダー、シンカー、ドロップ、ナックル)と呼ばれ、ナックルを初めて投げたとも言われる。 |
| だが、普段はそれほど多くの球種を投げておらず、殆どはストレートとカーブで、それを制球力と緩急によって投げ分け、打者を幻惑させた。 |
| コントロールに優れ、わざとコースを3つ続けてはずして3ボールとし打者の打ち気を外してから打ち取ることを楽しみにしていた。 |
| 1年目は10勝をあげる。 |
| 17勝をあげる。 |
| 1、2年それなりの結果を残していたが、この頃は彼より若い西村幸生や御園生崇男の方が活躍していた。 |
| 秋シーズン前に肩痛が悪化する。 |
| 春シーズンは戦線を離脱して治療に専念し、秋シーズン終盤に復帰した。 |
| 全盛期に入り、自己最高の28勝と勝率・防御率のタイトルを獲得。 |
| 以後シーズン20勝以上を6度記録し、スタルヒンや野口二郎と共に、戦中から戦後復興期の日本を代表する投手として活躍を続けた。 |
| 戦前最後のシーズンは35試合しか行われなかったが、そのうち31試合に登板して阪神を優勝に導き、最多勝・勝率1位・防御率1位とMVPを獲得した。 |
| この年の阪神のチーム勝利27勝のうち8割以上の22勝を稼ぎ、2位巨人のチーム勝利(19勝)より多かった。 |
| 36歳で開幕を迎えたシーズンの最多勝獲得は2005年の阪神の後輩下柳剛に並ぶ史上最年長タイ記録である。 |
| 終戦後夫人の故郷・宮城県石巻市で水産会社の社長を務めていた。 |
| プロ野球再開で復帰を要請されたが、年齢も40歳近くでもあり、会社も軌道に乗っていたため当初は復帰を拒否。 |
| しかし戦時に何度も召集された藤村富美男が、体がボロボロになりながら監督兼エースとして投げている、等と聞き心を動かされ復帰を決意したといわれる。 |
| 11月3日対中日戦(後楽園球場)の延長10回裏1死からリリーフ登板。 |
| 勝ち投手となり、スタルヒンに次ぐ200勝目をあげた。 |
| このシーズンは26勝を挙げて優勝に貢献し、二度目のMVPに選ばれた。 |
| 41歳で15勝を挙げ、この年まで阪神在籍13年で501試合に登板し233勝をあげた。 |
| この間、1940年~1941年は助監督を、1942年~1944年、1947年~1949年は監督を兼任している。 |
| 「タイガース子供の会」を個人で立ち上げ、少年野球の発展ひいては阪神ファンの開拓に尽力した。 |
| 2リーグ分裂に伴い、パ・リーグの毎日へ移籍した。 |
| 彼は以前から2リーグ制論者であり、1949年に始まったプロ野球再編問題に際しては阪神と毎日を中心とする新リーグ設立を積極的に支持していたが、結局阪神が巨人と同じリーグに残ることを決定したため、フロントとの対立が深刻化した結果である。 |
| 別当薫・土井垣武・呉昌征らも行動を共にして阪神の弱体化を招いたため、阪神サイドから裏切り者扱いされて長らくそのイメージがつきまとうようになった。 |
| 既に42歳になっており、選手としてはシーズンをフルに戦える余力はなかったが、11月12日の対近鉄戦では最年長完封勝利(当時)を果たしているこの記録は2010年9月4日、中日の山本昌によって更新されるまで、59年10ヶ月の間破られなかった。 |
| 同年の第1回日本シリーズ第1戦に自ら志願して先発。 |
| 老練なピッチングで日本シリーズ最初の勝利投手となり、毎日の日本一に貢献した。 |
| 第6戦に2番手投手として登板した際、その試合ですでに2本の本塁打を放っていた岩本義行を無死満塁から敬遠した。 |
| 満塁での敬遠は日本のプロ野球史上初である(公式戦では1975年に広島・中日戦で記録されたのが最初)。 |
| 黒星1個・自責点8と引き替えで三振1個をもぎ取り、同年正式に現役引退した。 |