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つながりの強いひと
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濱口雄幸
日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。号は空谷。大蔵大臣(第29・30代)、内務大臣(第43代)、内閣総理大臣(第27代)などを歴任した。 |
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加藤高明
日本の外交官、政治家。外務大臣(第16・19・26・28代)、貴族院議員、内閣総理大臣(第24代)などを歴任した。位階は正二位。勲等は大勲位。爵位は伯爵。学... |
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田中義一
日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。勲等は勲一等。功級は功三級。爵位は男爵。陸軍大臣、貴族院議員、内閣総理大臣(第26代)、外務大臣(第42代)、... |
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犬養毅
日本の政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。通称は仙次郎。号は木堂。中国進歩党総裁、立憲国民党総裁、革新倶楽部総裁、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣... |
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幣原喜重郎
日本の男性外交官、政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は男爵。外務大臣(第40・41・43・44代)、貴族院議員、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(... |
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鳩山一郎
日本の政治家。弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。位階は正二位。勲等は大勲位。1912年(大正元年)に東京市議会議員に当選。1915年(大正4年)に衆議院議... |
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高橋是清
日本の政治家。立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任:1921年(大正10年)11月13日-1922年(大正11年)6月12日)。大勲位子爵。幼名は和喜次(わき... |
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桂太郎
日本の武士、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功三級。爵位は公爵。諱は清澄(きよずみ)元老井上馨とは義理の親子の... |
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大隈重信
日本の武士(佐賀藩藩士)、政治家、教育者。位階は従一位。勲等は大勲位。爵位は侯爵。政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・11・14・29代)、農... |
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清浦奎吾
日本の司法官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。爵位は伯爵。幼名は普寂(ふじゃく)。旧姓は大久保(おおくぼ)。貴族院議員、司法大臣、農商務大臣... |
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岡田啓介
日本の軍人、政治家。階級は海軍大将。勲等は勲一等。功級は功三級。海軍大臣(第14・18代)、内閣総理大臣(第31代)、拓務大臣(第7代)、逓信大臣(第37代... |
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伊藤博文
日本の武士(長州藩士)、政治家。諱は博文(ひろぶみ)、幼名は利助(りすけ)、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(... |
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原敬
日本の外交官、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。幼名は健次郎。号は一山、逸山。外務次官、大阪毎日新聞社社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣(第11・16... |
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西園寺公望
日本の公家、政治家、元老。位階・勲等・爵位は贈従一位大勲位公爵。雅号は陶庵、不読、竹軒。 |
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加藤友三郎
日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は正二位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。海軍大臣、内閣総理大臣(第21代)などを歴任した。 |
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吉田茂
吉田 茂様 プロフィール 株式会社 イビサ 取締役会長 吉田 茂(よしだ・しげる) 昭和 8年 1月 2日 岐阜県加茂郡八百津町須賀に生まれる 昭和26年 3月 1日 岐... |
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齋藤實
さいとうみのる [サイトウミノル] 本名:齋藤實。1961年3月3日生まれ。宮城県出身。企画・編集者。1983年尚美音楽短期大学音楽情報学科音楽資料卒業(現・... |
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寺内正毅
日本の陸軍軍人、政治家。階級は元帥陸軍大将。位階は従一位。勲等は勲一等。功級は功一級。爵位は伯爵。「&x5167;」の異体字を用いて寺内正毅とも表記される... |
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松方正義
日本の武士、政治家、財政指導者。位階は従一位。勲等は大勲位。爵位は公爵。幼名は金次郎。通称は助左衛門。号は海東。日田県知事(初代)、大蔵大臣(初・... |
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林銑十郎
日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は正二位。勲等は勲一等。功級は功四級。陸軍大臣、内閣総理大臣(第33代)、外務大臣(第53代)、文部大臣(... |
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プロフィール
- 若槻禮次郎とは
- 生い立ち
- 学生時代
- 大蔵省時代
- 第1次若槻内閣
- 第2次若槻内閣
- 重臣時代
- 人物像
- 年譜
- 家族・親族
- 関連サイト
若槻禮次郞(わかつきれいじろう、慶応2年2月5日(1866年3月21日)-1949年(昭和24年)11月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。 爵位は男爵。旧姓は奥村。幼名は源之丞。号は克堂。新字体にて若槻礼次郎(わかつきれいじろう)と表記されることもある。貴族院議員、大蔵大臣(第18・20代)、内務大臣(第41・42代)、内閣総理大臣(第25・28代)、拓務大臣(第4代)などを歴任した。
生い立ち
| 松江藩の下級武士(足軽)奥村仙三郎、クラの次男として生まれる。 |
| 実母クラは3歳の頃急死した。 |
| この頃長男の譲は、父・仙三郎とともに藩命で京都に近い淀川沿いの山崎で勤務をしていたので、奥村家では11歳のイワが3歳の礼次郎の世話をしながら内職をし、かつ留守番を務めていた豊田穣著『宰相・若槻礼次郎-ロンドン軍縮会議首席全権』173頁。 |
| 奥村家は足軽の中でも格式の低い家で、雑賀町の中央に近いところに家を構えることもできず、場末ともいうべき外(はず)れの方の借家に住んでいたが、礼次郎が生まれてから間もなく父仙三郎は西田中というところに小さな家を新築した豊田穣著『宰相・若槻礼次郎-ロンドン軍縮会議首席全権』173頁。 |
| 奥村家は極めて貧乏だったため、内職のようなことをして、ようやく生活していた。 |
| 幼少の頃はまだ帯刀であり、木刀一本腰に差して寺子屋に通った若槻礼次郎著『古風庵回顧録』によれば、「私の幼少の頃はまだ帯刀であった。 |
| 私は数え年七つの時、寺子屋に入ったが一本を腰に差して通ったことを覚えている。 |
| しかし、それは抜けない木刀であった」という。 |
| 小学校を出ると漢学塾へ通うが、1年後にやめて教員伝習校内変則中学科に入る。 |
| しかし家が貧乏で、学資が続かず在学8~9ヵ月にして中学を辞め、しばらくは山へ薪を取りに行ったり、家事の手伝いをしていた。 |
| 16歳のころから3年程、小学校教員をする。 |
| 1883年(明治16年)士官学校の生徒募集があった。 |
| 官費で学資がいらないということから受験したが、体格検査ではねられた。 |
| その翌年司法省法学校が官費で生徒を募集することを知り、飛び立つ思いであったが、試験場は東京まで出て行かなければならない。 |
| しかしその費用がなかったので、能義郡長をしていた叔父若槻敬に相談し、30円の金を借りて、1884年(明治17年)7月頃、数えで19の年に松江を出た。 |
| 『若槻礼次郎自伝 古風庵回顧録 明治、大正、昭和政界秘史』 18-25頁。 |
学生時代
| 東京では大学予備門に通っていた岸清一(のち法学博士)の下宿へ転がり込んだ。 |
| 岸とは血のつながりはないが、近い親類であった『若槻礼次郎自伝古風庵回顧録 明治、大正、昭和政界秘史』 3-21頁。 |
| やがて狭い下宿を見つけて、そこへ移った。 |
| 司法省法学校の入学試験というのは論語、孟子の解釈と、資治通鑑の白文訓点の二課目だった。 |
| 高等学校でも、大学でも、常に首席であった。 |
| 荒井賢太郎と安達峰一郎とが、あるときは安達が二番、あるときは荒井が二番というようなことだった。 |
| 1892年(明治25年)7月、帝国大学法科を98点5分という驚異的な成績を残し、首席で卒業した。 |
| 同期に、後に司法大臣、鉄道大臣を歴任した政党政治家・小川平吉、数期にわたり内務大臣を務めた官僚政治家・水野錬太郎、常設国際司法裁判所所長・安達峰一郎らがいる。 |
大蔵省時代
| 大蔵省に入り、主税局長、次官を歴任する。 |
| この間、帝大時代の師である同郷の梅謙次郎のもとで、和仏法律学校・法政大学の民法・租税法講師を務めた。 |
| 1912年(大正元年)、第3次桂内閣で大蔵大臣、1914年(大正3年)から1915年(大正4年)まで第2次大隈内閣で再度蔵相、1916年(大正5年)、加藤高明らの憲政会結成に参加して副総裁となる。 |
| 1924年(大正13年)、加藤内閣で内務大臣となり、翌年、普通選挙法と治安維持法を成立させる。 |
第1次若槻内閣
| 加藤高明首相が在職中死去したため、憲政会総裁として内相を兼任し組閣。 |
| 彼の内閣の時期には左派政党で一種、社会主義的な「無産政党」が数多く結成された。 |
| 1926年(大正15年)12月25日に大正天皇が崩御し、その日のうちに昭和と改元された。 |
| 明けて1927年(昭和2年)1月、少数与党で臨んだ第52回帝国議会冒頭で、おりからの「朴烈事件」と「松島遊郭事件」に関して、野党が若槻内閣弾劾上奏案を提出した。 |
| 若槻は立憲政友会の田中義一総裁と政友本党の床次竹二郎総裁を待合に招いて、「新帝践祚のおり、予算案だけはなんとしても成立させたいが、上奏案が出ている限りどうしようもない。 |
| 引っ込めてくれさえすれば、こちらとしてもいろいろ考えるから」と持ちかけた。 |
| 野党はこの妥協を承諾、「予算成立の暁には政府に於いても深甚なる考慮をなすべし」という語句を含んだ文書にして三人で署名した。 |
| 「深甚なる考慮」は内閣退陣を暗示し、予算案成立と引き換えに若槻内閣は退陣し、憲政の常道に基づき野党政友会が組閣の大命を受ける様取り計らうことを意味する。 |
| これで若槻は議会を乗り切ったが、予算が通っても一向に総辞職の気配を見せなかったことから、野党は合意文書を公開、「若槻は嘘つき総理である」と攻撃した。 |
| このため謹厳実直な能吏のはずの若槻禮次郎は「ウソツキ禮次郎」と呼ばれる羽目になった。 |
| また帝国議会終盤の3月14日、衆議院予算委員会で片岡直温蔵相は野党の執拗な追及に対し、次官から差し入れられた書付に基づき「現に今日正午頃に於て渡辺銀行が到頭破綻を致しました」と発言する。 |
| 実際には東京渡辺銀行は金策にすでに成功していたが、この発言で預金者が殺到し、休業に追い込まれてしまう。 |
| これにより昭和金融恐慌が勃発した。 |
| 大戦景気のあと不景気に悩まされていた銀行や成金たちは、ここで一気に倒産の憂き目に会うこととなる。 |
| 特に台湾銀行は成金企業の鈴木商店と深い結びつきを持っていたが、台湾銀行が債権回収不能に陥り、休業すると同時に鈴木商店も倒産し、これは恐慌の象徴的事件ともいえる。 |
| 台湾銀行の回収不能債権のうち8割近くが鈴木商店のものだったという。 |
| 若槻内閣は日銀に特融を実施させて経済的混乱の収拾を図るために、台湾銀行救済緊急勅令案の発布を諮るが、枢密院は、本来帝国議会で救済法案を可決して対応すべきところ、勅令による手続きは憲法違反であるとして否決してしまう。 |
| 政策実行不能と考えた若槻は4月20日に内閣総辞職し、政友会の田中義一に組閣の大命が下ることとなる。 |
| しかし、これは陰謀であった。 |
| 若槻内閣は憲政会の内閣であり、穏健外交を政策に掲げていたため、1926年(大正15年)7月から始まった蒋介石の北伐に対してなんら対策を講じなかったのである。 |
| これが枢密院にとっては気に入らないことであった。 |
| そこで枢密院はこの事件を利用して若槻に揺さぶりをかけたものだと考えられる。 |
| よって次代の田中内閣が諮った同様の勅令案に対して枢密院は全く反対をしない。 |
| 但し、内閣と枢密院の見解が食い違った場合、内閣が辞職しなければならないという規定はなく、ここで総辞職をしたのは若槻の性格の弱さとも取れる。 |
第2次若槻内閣
| 次に若槻が内閣を組織するのは1931年(昭和6年)4月のことである。 |
| 憲政会はそのとき立憲民政党となっていた。 |
| 濱口内閣の失策により深刻な不景気を迎えていた国内では「満蒙(満州とモンゴル)は日本の生命線」とまで言われるようになっていたが、満州は蒋介石の北伐により危機に瀕していた。 |
| 当時軍部では、汚職の続く政治家や失策の多い政党内閣に対し、強い危機感が生まれていた。 |
| そんななか「世界最終戦論」を唱える関東軍の石原莞爾、板垣征四郎、土肥原賢二らによって柳条湖付近で南満州鉄道の線路が爆破され、日本本国からの連絡を待たないまま彼らは長春を占領、土肥原を新市長につけてしまう。 |
| 柳条湖事件は満州事変の発端となった。 |
| これは統帥権の所在の不明確さに原因がある。 |
| 統帥権は憲法上天皇にあるが、実際天皇は軍部に対して直接指令することはなく、内閣の軍部大臣が内閣の方針を軍部に伝えていたのである、緩やかなシビリアンコントロールともいえる。 |
| ところが満州事変の場合、閣議で決定した「不拡大方針」を関東軍につたえると、「統帥権干犯だ」といわれ突っぱねられてしまう。 |
| 直後の閣議では不拡大方針が決定され、若槻は両軍部大臣、林奉天大使にもその旨を伝えている。 |
| しかし、各新聞は関東軍の行動を絶賛し、世論は満州事変賛成へと動いてゆく。 |
| そんな中、後に首相となる林銑十郎朝鮮軍司令官は関東軍救援を名目にこれまた本国からの連絡を待たずに独断で満州へ侵攻してしまう。 |
| これにより今まで沈黙していたアメリカとイギリスが非難声明を出すこととなる。 |
| 若槻の不拡大方針は国民、軍部に見放され、ついには安達謙蔵内相が「挙国一致」を訴えたため、閣僚にも見放された状態で閣内不一致総辞職となる。 |
重臣時代
| その後、若槻は首相経験者の立場で政治に参画し、重臣会議のメンバーにもなった。 |
| 1941年(昭和16年)には東條英機を次期首相として奏薦した重臣会議において宇垣一成を次期首相に推し論争を繰り広げている。 |
| 既に1944年(昭和19年)から吉田茂により協力を呼びかけられている。 |
| 1945年(昭和20年)に入ってからは鈴木貫太郎内閣の奏薦やポツダム宣言受諾などに関わった。 |
| なお、昭和10年代前半に次期内大臣という声があったが、民政党の色が強いということで実現しなかった。 |
人物像
| 矢田挿雲は「私生活の話のうちに、毎晩12時頃帰宅して熱燗を一本傾けながら百本以上の私信を処理し『我が妻よ、御身もし余を愛するならば、余に話しかけて余の仕事を妨ぐる勿れ』と箝口令を発布する由が出て居た。 |
| 息子の有格は雑誌『民政』の記者に父について「今日は平生より可成り酔ってゐるやうだな、と思って時に何か緊急な用事……先づ政治上の用向なんぞが出来ますと、今まで酔って居たのが拭き取ってゞも了ったやうに、しらふに成って了って態度も言葉も又容貌も、丸で一滴も飲まない時に返って其用件を片付けます。 |
| ロンドン海軍軍縮会議の首席全権になった際、「骸骨が大砲を引っ張っても仕方がない」と国力と調和した軍備を訴え、右翼から攻撃されている。 |
年譜
| 慶応2年(1866年)2月5日-出雲国松江雑賀町に生まれる。 |
| 1892年(明治25年)7月-帝國大學法科大学仏法科(現在の東京大学法学部)を首席(98点5分の成績)で卒業。 |
| 同期に小川平吉(弁護士、政治家)、水野錬太郎(官僚、政治家)などがいる。 |
| 1894年(明治27年)3月-愛媛県収税長として松山市に赴任、高等官七等。 |
| 1904年(明治37年)10月-主税局長兼行政裁判所評定官。 |
| 1906年(明治39年)1月-第一次西園寺内閣の阪谷芳郎大蔵大臣の下の大蔵次官となる。 |
| 1907年(明治40年)4月-政府財政委員としてロンドンおよびパリに駐在。 |
| 1908年(明治41年)7月-第二次桂内閣の桂首相兼蔵相の下の大蔵次官に再任され、就任のためロンドンから帰朝。 |
| 1911年(明治44年)8月-大蔵次官を辞し貴族院勅選議員となる。 |
| 1912年(大正元年)12月-第三次桂内閣で大蔵大臣に就任。 |
| 1914年(大正3年)4月-第二次大隈内閣で大蔵大臣に再任。 |
| 1924年(大正13年)6月-加藤内閣で内務大臣に就任。 |
| 1948年(昭和23年)10月-東京裁判のジョセフ・キーナン首席検事に宇垣一成、岡田啓介、米内光政と共に招待される。 |
| 1949年(昭和24年)11月20日-静岡県伊東市で狭心症により死去。 |
家族・親族
| ;;;同妻・テツ(法学博士、IOC委員、大日本体育協会会長岸清一の姉豊田穣著『宰相・若槻礼次郎-ロンドン軍縮会議首席全権』172頁)。 |
| 若槻敬は学問もよくできて旧藩時代から藩庁に出仕を命ぜられ、維新以降は島根県の官吏として能義郡、大原郡、八束郡などの郡長を歴任。 |
| 漢学、書道などに優れ、礼次郎は後に養父敬の文章、書などを集めた『槻隠遺稿』という追悼録を編集している豊田穣著『宰相・若槻礼次郎-ロンドン軍縮会議首席全権』184頁。 |
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1866年
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若槻 禮次郞(わかつき れいじろう、慶応2年2... |
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若槻禮次郎さんについてのひとこと紹介
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