| 港区の大会で上位に入賞するなど活躍した。 |
| スポーツ推薦で東海大学付属高輪台高等学校への進学が内定していたが、急に力士を志し、母親の知人から時津風部屋所属の立田川親方(元横綱・鏡里)を紹介された。 |
| だが、身長が基準に達していなかった事もありあっさりと断られた。 |
| しかし力士志望は変わる事がなく、今度は二子山部屋に出向き二子山親方(元横綱・若乃花)に入門を直訴。 |
| 試しに若い力士と1番取って勝ったため入門を許可され、中学卒業後に二子山部屋に入門。 |
| 1964年5月場所、16歳で初土俵を踏んだ。 |
| 同期の初土俵には、後の関脇・金剛(現二所ノ関)や小結・玉輝山らがいる。 |
| 小兵でやや三段目から幕下に昇進するまで時間が掛かったが、着実に番付を上げていった。 |
| 1971年1月場所、22歳で十両に昇進。 |
| 十両に定着しかけた矢先、同年7月場所中に盲腸炎に罹り途中休場を余儀なくされ、翌9月場所では幕下に陥落した。 |
| しかし同場所、7戦全勝で幕下優勝を果たし1場所で十両に復帰。 |
| その後は順調に番付を上げてゆき、1973年1月場所、24歳で入幕を果たした。 |
| 新入幕の場所は大きく負け越し、その後2年半ほどは幕内上位・中位と十両を2度往復したが、1975年9月場所で4度目の入幕を果たすと以降17場所連続で幕内の地位を維持した。 |
| 小兵だが、立合い一瞬の蹴手繰りや立ち合いから回転の速い突っ張りで動き回って蹴返しを決めるといった堂々たる取り口だった。 |
| また右前褌を取り、一気に攻め込む正攻法の相撲も時折見せた。 |
| 1976年3月場所では、西前頭13枚目で11勝4敗と大勝した(三賞受賞は逸している)。 |
| この場所では若獅子の他、旭國東関脇、13勝2敗で西横綱・輪島との優勝決定戦に敗れたものの技能賞を受賞、場所後大関に昇進した。 |
| 現大島)・鷲羽山(東小結、10勝5敗で敢闘賞受賞。 |
| 現出羽海)・北瀬海(西前頭11枚目、11日目に輪島を破り金星を挙げるなど12勝3敗で殊勲賞受賞。 |
| 現君ヶ濱と小柄な力士達が揃って活躍して優勝争いを盛り上げ、「小兵力士旋風」が吹き荒れた。 |
| そして同年7月場所では東前頭6枚目で三重ノ海(現武蔵川)や大受(現朝日山)を破るなど11勝4敗と再び大勝ちし、生涯唯一の三賞となる敢闘賞を受賞。 |
| 三役昇進当確の星を挙げて翌9月場所、初めて小結に昇進した。 |
| しかし、3勝12敗と大敗を喫し1場所で平幕に陥落。 |
| 三役経験は結局この1場所だけに終わっている。 |
| 以降は前頭上位~中位での土俵が続き、1978年7月場所では3年ぶりに十両に陥落した。 |
| その後、十両上位~中位で何度か好成績を残すも番付運に泣かされ、1981年7月場所で再び入幕するまで3年以上掛かってしまった。 |
| 1982年7月場所中、右膝を故障。 |
| それ以降、本来の相撲がまったく取れなくなり怪我と戦いながらの相撲が続いた。 |
| そして1983年3月場所は西十両9枚目の地位で迎えたが、膝の調子が思わしくなく途中休場もあったため5勝8敗2休と関取の地位を維持するには困難な成績となり、場所後に35歳で現役を引退した(但し、5月場所の番付発表後に引退を表明したため、同場所の番付には東幕下2枚目に「若獅子」の名が載っている)。 |
| 引退後は年寄・鳴戸を借り株で襲名し二子山部屋の部屋付きの親方として後進の指導に当たった他、指導普及部委員も務めた。 |
| その後、1986年1月に年寄・峰崎に名跡を変更すると同年9月には荒汐を名乗り、さらに翌年以降は小野川など8つの年寄名跡をすべて借り株で襲名した(最初の鳴戸から数えると、全部で11の名跡を借りた事になる)。 |
| 都合13年、年寄として角界にいたが、1996年7月場所を最後に廃業し日本相撲協会を去った。 |
| その後は一時、峰崎部屋(廃業直前に二子山部屋から峰崎部屋に移籍していた)のコーチを務めたが、後に相撲界から離れ東京都杉並区(阿佐ケ谷駅前)で「讃岐うどん和田」を経営した(現在は閉店)。 |