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つながりの強いひと
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草鹿龍之介
日本の海軍軍人。太平洋戦争の主要な部隊で参謀長職を歴任した海軍中将である。剣道家でもあり、一刀正伝無刀流剣術第4代宗家。 |
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JGA Home 金沢 一漫 [カナザワ イルマン]
Iruman Kanazawa ※プロフィールは2006年06月23日時点での情報で... |
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ヨハン・ホイジンガ、またはホイジンハ(、1872年12月7日-1945年2月1日)はオランダの歴史家。学位論文のテーマは古代インド演劇であった。 |
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プロフィール
- 草鹿任一とは
- 経歴
- 戦前
- 戦中
- 戦後
- エピソード
- 親族
- 年譜
- 参考文献
草鹿任一(くさかじんいち、1888年(明治21年)12月7日-1972年(昭和47年)8月24日)は大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
| 草鹿家は加賀大聖寺藩に仕えた一族であった。 |
| 金沢一中を経て、四高に進んだが、退学し海軍兵学校(37期)入校。 |
| 志望者3700名余りの中で3番で合格した。 |
| 卒業席次は179人中21番。 |
| 同期に井上成美困窮した生活を送っていた井上が胃潰瘍で倒れた際には、草鹿は彼の教え子や部下達と共に治療費集めに尽力した。 |
| 大将、小沢治三郎、岩村清一、小松輝久、桑原虎雄各中将などがいる。 |
戦前
| 草鹿は砲術畑を歩み、海軍部内の権威者であった。 |
| 砲術学校射撃科教官、「山城」砲術長、第二艦隊砲術参謀、「長門」砲術長、砲術学校射撃科長、第一艦隊司令部附(砲術指導官)、教育局第二課長、砲術学校校長と砲術科専攻士官の要職を歴任している。 |
| なお、海軍大学校甲種学生(19期)を卒業し、「北上」、「扶桑」の各艦長も勤めている。 |
| 第一航空戦隊司令官、支那方面艦隊参謀長兼第三艦隊参謀長、教育局長を歴任した後、海軍兵学校校長に就任する。 |
| 同期生に「草鹿は兵学校に行儀見習いに行くんだ」と言われ、本人も内心は有難迷惑に感じていた『提督草鹿任一』P112が、赴任するや生徒と共に学ぶをモットーに授業、訓練に参加し、村夫子然とした姿と相俟って、生徒達に「任ちゃん」と呼ばれ慕われた。 |
戦中
| 開戦後の1942年(昭和17年)10月1日第11航空艦隊司令長官に補せられ出征。 |
| 同年12月24日南東方面艦隊司令長官となり終戦まで指揮を執った。 |
| ガダルカナル奪回を目標に米豪連合軍と激戦を繰り広げたが叶わず、その後もラバウルを根拠地として連日の航空戦を展開した。 |
| しかし連合軍の攻勢は激しく、戦線視察に訪れた山本五十六連合艦隊司令長官が搭乗機を撃墜され戦死した。 |
| 草鹿が少尉候補生として練習艦隊で指導を受けたのが山本であり、親しい間柄であった。 |
| 山本戦死の際はその出発を飛行場で見送った草鹿の悲嘆は大きかった。 |
| 連合軍のムンダ、コロンバンガラ上陸を迎え、草鹿はブインに将旗を進め指揮にあたったが、敗勢は挽回できず、隷下部隊の玉砕が相次いだ。 |
| 連合軍は連合艦隊の根拠地であったトラック基地を襲い、所在の艦船、航空機は壊滅的被害を受けた。 |
| これに伴い隷下の航空部隊はラバウルを離れることとなり、草鹿は連合軍の攻撃に備え長期篭城の構えを取った。 |
| 第8方面軍司令官の今村均草鹿の同期生で、共にラバウルで戦った第八艦隊司令長官鮫島具重と同様に人格者として知られていた。 |
| 陸軍大将と協力し、ラバウルに洞窟設備を造り、兵器の開発、新戦法の考案を進めたほか、農地の開墾、生活必需品の生産を行った。 |
| 終戦の際、連合軍側は降伏文書調印の代表者として今村大将を指名するが、草鹿は「海軍は陸軍の指揮下に入ったことはない。 |
| 建軍の本筋から考えて陸軍には海軍の降伏調印の権限は有さない」と頑なに主張し、海軍側の代表者として今村と連名で調印した。 |
戦後
| 豪軍による戦犯調査に対しては、部下を庇う発言や行動に徹した。 |
| 自分自身が知らない部下が起こした事件や問題に対しても「それは自分が命令した」、「それは自分の責任である」と主張し、「私を罰することで部下の責任は問わないで欲しい」と要望したので、豪軍の担当者にも高潔な人物として非常に良い印象を与えたといわれる。 |
| 自らも戦犯指名を受けたが無罪となり、1947年(昭和22年)2月に帰国した。 |
| 戦犯問題では元第八艦隊司令長官三川軍一及び元参謀長大西新蔵の裁判において、問題となった艦船の所属を巡って対立『海軍生活放談』P577~584。 |
| なお大西は草鹿ではなく復員局に不信感を抱いている。 |
| している。 |
| 三川、大西は起訴却下となった。 |
| 復員後は長男と共に製本・出版を営む『光和堂』を開業する傍ら、旧部下の世話を積極的に行い、復員局に足しげく通っては、ラバウルで苦楽を共にした部下の状況を確認するために訪ねていたという。 |
| 復員局の職員は「日本海軍の司令官は数多いが、『俺の部下に変わったことがないか?』といまだに訪ねてこられるのは草鹿さんだけだ」と述べている。 |
| 『ビッグマンスペシャル 連合艦隊・下巻激闘編』世界文化社p.172戦後、加算制度の廃止により恩給を受けられない旧軍人達の救済を目的に、軍人恩給の復活運動に尽力、1961年(昭和36年)に軍人恩給復活達成を果たす事となった。 |
| この際の活躍から「加算の草鹿」とも呼ばれた。 |
| 『軍恩連盟全国連合会』名誉会長等を務めている。 |
| 海軍ラバウル方面会会長に就任し、戦没者の慰霊、遺骨の回収にあたり、1970年(昭和45年)、ラバウルや旧部下の玉砕地等を訪れている。 |
| 草鹿は81歳の高齢で健康状態は良好ではなく、周囲の者が止める中、草鹿の強い要望によりラバウルに向かった。 |
| 同時にブーゲンビル島の山本五十六が搭乗していた一式陸上攻撃機の墜落現場を訪れ、「長官、遅くなりましたが、草鹿ただいま参りました」と述べたという。 |
| 翌年もソロモン方面に赴いている。 |
エピソード
| 非常に頑固で短気な性格であったといわれる。 |
| 筋の通らないことに関しては一切妥協せず、たとえ上官であっても激しく叱責したので、海軍内では浮いた存在であった。 |
| ラバウルでの陸海軍共同会議の際には激しい論議を交わし、同席していた今村均陸軍大将も、たまらず激しく反論したという逸話も残っている。 |
| また気さくな性格で、酒席ではくだけた態度を見せた。 |
| 熱心に参禅しており、女婿の乗艦した潜水艦の行方不明が伝えられても動揺は見せなかったが、後刻草鹿は座禅を組んでいたとう。 |
| 戦犯裁判を受けるためシンガポールに護送されている途中、番兵が元日本兵にビンタをしていた。 |
| 草鹿は止めに入ったが、その番兵は草鹿を耳が聞こえなくなる程殴りつけている。 |
| 草鹿は黙って耐えたが、周囲の者は『真の武人』を見る思いだったという。 |
| 戦後、アメリカ海軍大将アーレイ・バークと深い親交を持った。 |
| アーレイ・バークが反日家から一転して親日家になった理由の1つに、草鹿との交流があるといわれる。 |
年譜
| 1888年12月7日石川県江沼郡大聖寺町に生まれる。 |
| 1895年兵庫県尋常師範学校附属小学校入学。 |
| 1899年神戸市立神戸高等小学校入学。 |
| 1901年金沢第一中学校入学。 |
| 1906年8月第四高等学校入学。 |
| 1909年11月海軍兵学校卒業。 |
| (艦長鈴木貫太郎、指導官山本五十六、指導官附古賀峯一)。 |
| 1910年7月千代田乗組。 |
| 1911年4月常磐乗組。 |
| 8月砲術学校普通科学生。 |
| 12月水雷学校普通科学生。 |
| 1912年4月安芸乗組。 |
| 1913年12月練習艦隊所属浅間乗組。 |
| 1915年12月海軍大尉、海軍大学校乙種学生。 |
| 1916年6月砲術学校高等科学生。 |
| 12月安芸分隊長、軍令部出仕。 |
| 1917年2月浅間分隊長。 |
| 1918年7月浅間砲術長心得、鹿島分隊長。 |
| 1919年浜風砲術長兼分隊長。 |
| 12月海軍大学校甲種学生(19期)。 |
| 1921年12月海軍少佐、比叡副砲長兼分隊長。 |
| 1922年12月砲術学校教官。 |
| 1924年12月山城砲術長。 |
| 1925年12月第二艦隊参謀。 |
| 1926年12月海軍中佐、長門砲術長。 |
| 1927年12月砲術学校教官。 |
| 1930年12月海軍大佐、教育局第二課局員。 |
| 1932年12月第一艦隊司令部附(砲術指導官)。 |
| 1933年11月教育局第二課長。 |
| 1934年3月友鶴事件査問委員会委員。 |
| 1935年2月海軍艦政本部技術会議議員。 |
| 1936年12月海軍少将、砲術学校長。 |
| 1937年12月第一航空戦隊司令官。 |
| 1938年4月支那方面艦隊参謀長兼第三艦隊参謀長。 |
| 1942年8月米軍ガダルカナル上陸。 |
| 10月第11航空艦隊司令長官。 |
| 12月南東方面艦隊司令長官兼第11航空艦隊司令長官。 |
| 6月~7月米軍レンドバ、ムンダ上陸。 |
| 1947年2月帰国,、予備役編入。 |
| 1970年8月遺骨収集団長としてラバウル方面に赴く。 |
参考文献
| 『一海軍士官の半生記』草鹿龍之介、光和堂、1973年。 |
| 『責任ラバウルの将軍今村均』角田房子、新潮社、1984年。 |
| 『海軍生活放談』大西新蔵、原書房、1979年。 |
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