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プロフィール
- 荒木村重とは
- 池田・織田家臣時代
- 謀反
- 茶人として復活
- 子孫
- 謀反の理由
- 太平記英雄伝
- 小説
- 参考文献
- 関連項目
- 関連サイト
荒木村重(あらきむらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。利休十哲の1人である。幼名を十二郎、後に弥介(または弥助)。 明智光秀より4年前に 織田信長に反逆した武将として有名である。先祖は 藤原秀郷である。
池田・織田家臣時代
| 天文4年(1535年)、摂津池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(異説として荒木高村)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれる。 |
| 最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となる。 |
| しかし三好三人衆の調略に乗り池田知正と共に三好家に寝返り知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握する。 |
| その後、織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(1573年)に茨木城主となった。 |
| 同年、信長が足利義昭を攻めた時に信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げた。 |
| 天正2年(1574年)、伊丹城主となり、摂津一国を任された。 |
| その後も信長に従い石山合戦(高屋城の戦い、天王寺の戦い)、紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げた。 |
謀反
| 天正6年(1578年)10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した。 |
| 一度は糾問の使者(明智光秀、松井友閑、万見重元)に説得され翻意し、釈明のため安土城に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻った。 |
| 羽柴秀吉は村重と旧知の仲でもある黒田孝高を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁した。 |
| その後村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となった。 |
| それでも村重は「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。 |
| これがうまくいかなければ尼崎城と花熊城とを明け渡して助命を請おう」と言っていたが、天正7年(1579年)9月2日、単身で有岡城を脱出して尼崎城へ移ってしまった。 |
| 11月19日、信長は「尼崎城と華熊城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を荒木久左衛門ら荒木の家臣たちと取り交わした。 |
| 久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、村重は受け入れず、窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔してしまった。 |
| 信長は不憫に思ったものの、村重や久左衛門らを懲らしめるため、人質の処刑を命じた。 |
| 12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。 |
| と記されている。 |
| 12月16日には京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。 |
| 立入宗継はその様子を、。 |
| その後も信長は、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追求していった。 |
| 天正9年(1581年)8月17日には、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害している。 |
| しかし肝心の村重本人は花隈城に移り(花隈城の戦い)、最後は毛利氏に亡命する。 |
茶人として復活
| 天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で横死すると堺に戻りそこに居住する。 |
| そして豊臣秀吉が覇権を握ると、大坂で茶人・荒木道薫として復帰を果たし、千利休らと親交をもった。 |
| はじめは妻子を見捨てて逃亡した自分を嘲って「道糞」と名乗っていたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われている。 |
| 銘器「荒木高麗」を所有していた。 |
| 天正14年(1586年)5月4日、堺で死去。 |
子孫
| 江戸時代初期に絵師として活躍し浮世絵の祖といわれる岩佐又兵衛は、信長による処刑から乳母の機転によって生き延びた子孫のひとりとされている。 |
| 荒木善兵衛も荒木村重の子であり、落城の際に細川忠興が預かって家中で育て、後に丹後大江山の細川家高守城代などを務めた。 |
| 大阪府岸和田市荒木町は、伊丹城陥落時に村重の子供が乳母と共に逃れ、後に開発した場所だと伝えられている |
| 熊本藩に息子荒木村勝の子荒木克之の系統が仕官している。 |
| 荒木夢仁斎源秀縄は荒木流拳法、捕手術を中心とした総合武術の創始者。 |
謀反の理由
| 村重の織田信長に対する謀反の理由は、諸説があって今でも定かではない。 |
| ただ、信長は村重を高く評価して重用していたため、その反逆に驚愕し、一時は彼としては珍しく翻意まで促したと言われている。 |
| 村重は足利義昭や石山本願寺とも親しかったため、両者の要請を受けて信長に反逆した。 |
| 村重が支配していた摂津は当時、中国方面に進出していた羽柴秀吉の播磨、丹波方面に進出していた明智光秀らにとって重要な地点であり、村重が反逆した場合、両者は孤立することになるため、戦略的な謀反だったのではないかという説。 |
| 村重の家臣(中川清秀という)が密かに石山本願寺に兵糧を横流ししていたため、それが信長に発覚した場合の処罰を恐れての謀反であったという説。 |
| 信長の側近・長谷川秀一の傲慢に耐えかねたという説(『当代記』)。 |
| 天正元年(1573年)、村重は信長を近江の瀬田で出迎えたが、この時に信長が刀の先に突き刺して差し出した餅をくわえさせられるという恥辱を味わさせられたという怨恨説。 |
| 黒田孝高と相談の謀略説。 |
| 信長暗殺のため後に成功した本能寺のように手勢が手薄なところへ誘き出し夜襲する計画であったという。 |
| そのため信長の遺産を継いで天下人となった秀吉・徳川家康などからは厚遇されることになったとされる説。 |
| 将来に希望が持てなくなったからという説。 |
| 石山合戦では先鋒を務め、播磨国衆との繋がりもあったが、本願寺攻めの指揮官が佐久間信盛になり、播磨方面軍も羽柴秀吉が司令官に就任したことから活躍の場がなくなったからといわれる。 |
太平記英雄伝
| 『荒木村重錦絵図』は「荒木村重が餅を食らう」シーンを描いた絵図である(凡例参照)。 |
| 『太平記英雄伝』によると織田信長に拝謁した時に、「摂津国は13郡分国にて、城を構え兵士を集めており、それがしに切り取りを申し付ければ身命をとして鎮め申す」と言上した。 |
| これに対して、信長は腰刀を抜き、その剣先を饅頭を盛っている皿に向けて饅頭3〜5個を突き刺し「食してみろ」と村重の目の前に突き刺した。 |
| 周りにいたものは青ざめてしまったが、村重は「ありがたくちょうだいします」と大きな口を開け剣先が貫いた饅頭を一口で食べ、それを見ていた信長は大きな声を上げて笑い、摂津を村重に任せたという、その時の絵図である。 |
| 村重はこの時22歳。 |
| 信長は村重が高槻城を攻略した(高槻城攻城戦)事を激賞し、村重がどのような人物なのか、どのような態度をとるのか試したのではないかと考えられている。 |
| 『太平記英雄伝』がどこまで史実を伝えているか不明だが、信長と村重、両名の人物をよくあらわした錦絵図である。 |
小説
| 遠藤周作『反逆(上・下)』講談社文庫。 |
| 黒部亨『荒木村重―命惜しゅうて候』PHP研究所。 |
| 新宮正春『兵庫の壺―異聞・本能寺の変』新人物往来社。 |
| 岳宏一郎『風の武士―荒木村重』(講談社『花鳥の乱 利休の七哲』収録)。 |
| 神坂次郎『道糞流伝』(新潮社(新潮文庫)『兵庫頭の叛乱』収録)。 |
| 火坂雅志『うずくまる』(文春文庫『壮心の夢』収録)。 |
参考文献
| ”郷土の城ものがたり”阪神地区編集委員会『郷土の城ものがたり(阪神編)』(1973年11月、兵庫県学校厚生会)。 |
| 瓦田昇『荒木村重研究序説-戦国の将村重の軌跡とその時代』(1998年6月、海鳥社)ISBN4-87415-222-8。 |
| 谷口克広『信長軍の司令官』(2005年1月、中央公論新社)。 |
関連項目
| 池田城(摂津国)。 |
| 郡山城(摂津国)。 |
| 池田市‐池田市立歴史民俗資料館前に、彼のものと伝えられる祠が立っている。 |
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1535年
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摂津池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信... |
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1573年
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茨木城主となった |
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