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つながりの強いひと
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真崎甚三郎
日本の陸軍軍人。陸軍大将。皇道派の中心人物。佐賀県出身。弟に海軍少将・衆議院議員の眞崎勝次。外務省、宮内庁などの官僚で、延べ25年という異例の長期間... |
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日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は正二位。勲等は勲一等。功級は功四級。陸軍大臣、内閣総理大臣(第33代)、外務大臣(第53代)、文部大臣(... |
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板垣征四郎
大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を... |
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橋本欣五郎
昭和時代の日本の陸軍軍人、政治家(衆議院議員1期)。右翼活動家。たびたびクーデターを試みたが失敗し、極東国際軍事裁判(東京裁判)で訴追された。通称「... |
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平沼騏一郎
友達
日本の司法官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。学位は法学博士。号は機外。大審院検事局検事総長(第8代)、大審院長(第11代)、日本大... |
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山下奉文
日本の陸軍軍人。第二次世界大戦当時の陸軍大将である。官位は陸軍大将従三位勲一等功三級。 |
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阿部信行
日本のアニメプロデューサーについて記述しています。日本の政治家については「 阿部信行 」を、日本のサッカー選手については「 阿部伸行 」をご覧ください... |
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大川周明
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日本の思想家。1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1... |
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松井石根
松井石根(まついいわね、明治11年(1878年)7月27日-昭和23年(1948年)12月23日)、中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官、ハルピン特務機関長、陸軍大将... |
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梅津美治郎
昭和期の陸軍軍人、陸軍大将。通称「無言の将軍」。東京裁判で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。昭和53年(1978年)に靖国神社に合祀される。 |
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犬養毅
日本の政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。通称は仙次郎。号は木堂。中国進歩党総裁、立憲国民党総裁、革新倶楽部総裁、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣... |
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渡辺錠太郎
日本の昭和初期の陸軍軍人で、二・二六事件の犠牲者である。 |
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日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。新字体で東条英機(とうじょうひでき)とも表記される。陸軍大臣、内... |
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木戸幸一
第二次世界大戦期の日本の政治家である。侯爵。最後の内大臣。幸一の父・木戸孝正は明治の元勲・木戸孝允の妹・治子と長州藩士・来原良蔵の長男。夫人は陸軍... |
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米内光政
日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。海軍大臣、内閣総理大臣(第37代)などを歴任した。渾名は「金魚大臣... |
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松岡洋右
松岡洋右(まつおかようすけ、3月4日-6月27日)は日本の外交官、政治家。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦... |
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皇道派
大日本帝国陸軍内にかつて存在した派閥。北一輝らの影響を受けて、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソビエト連邦との対決を志向した。 |
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宇垣一成
宇垣一成(うがきかずしげ、慶応4年6月21日(1868年8月9日)-昭和31年(1956年)4月30日)は日本の陸軍軍人、政治家である。成城学校から陸軍士官学校、陸軍... |
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川島義之
川島義之(かわしまよしゆき、明治11年(1878年)5月25日-昭和20年(1945年)9月8日)は日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。愛媛県生まれ。 |
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プロフィール
- 荒木貞夫とは
- 生い立ち
- 皇道派のシンボル
- 皇道教育の推進
- 戦後
- 家庭
- 人物像
- 年譜
- 関連サイト
荒木貞夫(あらきさだお、明治10年(1877年)5月26日-昭和41年(1966年)11月2日)は、日本の陸軍軍人、第一次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣、男爵。最終階級は陸軍大将。 皇道派の重鎮であり、昭和初期の血気盛んな青年将校のカリスマ的存在であった。昭和6年(1931年)より犬養内閣・齋藤内閣陸相。昭和9年(1934年)、軍事参議官。昭和10年(1935年)、軍功により男爵。昭和11年(1936年)、二・二六事件の粛軍の結果、予備役に編入される。昭和13年(1938年)〜昭和14年(1939年)、第1次近衛内閣・平沼内閣文相として国民の軍国化教育に邁進した。
生い立ち
| 東京都狛江市出身。 |
| 小学校校長で、旧一橋家家臣だった荒木貞之助の長男として生まれる。 |
| 誕生日は木戸孝允の命日でもある。 |
| 日本中学中退を経て、明治30年(1897年)11月、陸軍士官学校卒業(第9期)。 |
| 明治40年(1907年)11月、陸軍大学校を首席で卒業。 |
| 第一次世界大戦中はロシア従軍武官。 |
| シベリア出兵では特務機関長にて参加。 |
| その後、憲兵司令官等を歴任。 |
皇道派のシンボル
| 昭和4年(1929年)、陸軍首脳は「青年将校を煽動する恐れあり」という理由で、第1師団長であった真崎甚三郎を台湾軍司令官として追いやったが、そのときに貞夫も左遷される予定であった。 |
| しかし、教育総監の武藤信義が「せめて荒木は助けてやってくれ」と詫びを入れる形で、貞夫は第6師団長から教育総監部本部長に栄転し東京に残った。 |
| 武藤はどちらかというと反宇垣で皇道派の庇護者であったため、統制派の独裁を嫌い、特に貞夫を可愛がったらしい。 |
| この頃の貞夫の人気というのは大変なもので、東京駅のホームは出迎えの青年将校で溢れ、さながら凱旋将軍のようであったという。 |
| 憲兵司令官時代から大川周明や平沼騏一郎・北一輝・井上日召といった右翼方面の人物と交流を持っていたことから、昭和6年(1931年)の十月事件においては、橋本欣五郎から首相候補として担がれたが、貞夫自身の反対や意見の非統一から計画は頓挫した。 |
| 同年12月、貞夫は教育総監部本部長から、犬養内閣の陸相に就任した。 |
| 参謀総長には閑院宮元帥を担ぎ出してロボット化を謀り、参謀本部の実質トップとなる参謀次長には真崎を台湾軍司令官から呼び戻して就任させた。 |
| 貞夫の人事は、自分の閥で要職を固め、過激思想の青年将校を東京の第1師団に集めた。 |
| この後、貞夫・真崎の取り巻き連を皇道派と呼び、それに対抗する勢力を統制派と呼ぶようになった。 |
| 荒木人事の凄まじさに、「清盛の専横」とか「驕る平氏も久しからず」という恨みの言葉がささやかれるほどであった。 |
| しかし、過激青年将校に自重を求める貞夫の人気は下降し、次第に四面楚歌に追いやられるようになった。 |
| 自分で育て、利用してきた過激青年将校たちを、制御できなくなったのである。 |
| 昭和9年(1934年)1月、ついに貞夫は病気を理由に陸相を辞任する。 |
| 貞夫は後任の陸相に腹心の真崎を希望したが、自らが擁立したはずの閑院宮にも反対され、挫折した。 |
| 極東国際軍事裁判(東京裁判)における岡田啓介の証言によれば、陸相時代には天皇を退位させて、生後間もない皇太子を即位させる計画を持っていたという。 |
| 昭和11年(1936年)の二・二六事件の際には、皇道派の首領として青年将校達を裏で支えていたのでは、という疑惑が持ち上がったが、軍の主要人物の中では、一番明確に反乱将校に原隊復帰を呼びかけていた。 |
| しかし、貞夫はこの事件後の粛軍によって予備役に退かされ、軍人としての第一線からは消えていった。 |
皇道教育の推進
| 昭和13年(1938年)5月26日に、第1次近衛内閣の文部大臣に就任すると同時に、「皇道教育」の強化を前面に打ち出した。 |
| 国民精神総動員の委員長も務め、思想面の戦時体制作りといったプロパガンダを推し進めた。 |
| この頃から、軍部の大学・学園への弾圧が始まり、人民戦線事件に代表されるような思想弾圧が行われるようになった。 |
| 戦後の極東国際軍事裁判においては、文相時代の事柄にも重点が置かれることとなった。 |
| 裁判の法廷において、証人として出廷した大内兵衛は、検事の尋問に応じて宣誓口供書を提出したうえで、弁護団の反対尋問で、軍事教育を通じて、軍部による学園弾圧が強化されていった過程を「1938年、荒木貞夫文相の時、各大学における軍事教育が一層強制的となり、軍部の学校支配が強化された」「軍事教練は、荒木さんが陸相当時、東大で採用するよう要求があった。 |
| この時東大は拒絶したが、1938年に荒木さんが文相になった時、軍事訓練は強制的となった」と証言している。 |
| 上記のようなことから、極東国際軍事裁判においても、検事から「荒木は侵略思想を宣伝し、教育・鼓吹した」と指摘されたが、貞夫の弁護人である菅原裕は「荒木の宣伝したのは、侵略ではなく皇道であって、侵略思想とは正反対の日本古来の精神主義である」と全面的に否定している。 |
戦後
| 戦後はA級戦犯として逮捕され、巣鴨プリズンに拘置された。 |
| 極東国際軍事裁判ではのらりくらりとしながらもその堂々とした態度が他の被告人らを奮い立たせたとも言われ、非常に饒舌で罪状認否で起訴状の内容に対し無罪を主張して熱弁を振るい、ウェブ裁判長から注意されたこともあった。 |
| 判決時にはモーニング姿で被告席に現れた。 |
| 一方で、重光葵の証言によれば、巣鴨プリズン内のアメリカ人憲兵の不遜な態度に反発するあまりに、親ソ的な言動をとるようになった。 |
| 当初アメリカ人憲兵は荒木らA級戦犯に対し、非常に大らかな規律・姿勢で対応していたが、彼らの態度が日増しに尊大になっていくことを問題視し、一転して厳格な態度で接するようになったという。 |
| 極東国際軍事裁判において、A級戦犯として終身刑の判決を受ける。 |
| 昭和30年(1955年)に病気のため仮出所し、その後釈放。 |
| 以後日本全国を回り、講演や近現代史研究のための史料調査などを行い、積極的に活動した。 |
| 昭和41年(1966年)10月末、奈良県吉野郡十津川村の招待で同村を訪問し、同村ゆかりの天誅組・十津川郷士関係の諸史料の調査と講演を行ったが、同年11月1日、宿泊先の「十津川荘」において心臓発作を起こす。 |
| 佐藤栄作首相へ「日本の未来像は、維新の五箇条の御誓文を主とし、つまらぬ事を付け加えずに、これを達成すること」といった遺言を口述し、翌日死去した。 |
| 昭和42年(1967年)11月、一周忌に際し、十津川村は「 |
| 碑文は佐藤栄作の揮毫によるものである。 |
| 十津川村の厚情に対し、遺族は貞夫の遺品となった「恩賜の軍刀」を村に寄贈。 |
| 軍刀は現在 |
家庭
| 妻の錦子は日本赤十字社篤志看護婦人会幹事、大日本国防婦人会副会長、陸海軍将校婦人会幹事長、東洋婦人教育会理事、柏葉婦人会評議員等を歴任。 |
| 明治42年(1909年)、貞夫は錦子との間に長男の貞發を儲けた。 |
| 貞發は幼少時、父がロシア従軍武官となった際、父に連れられシベリアに同行している。 |
| その後貞發はロンドン大学を卒業し、日産自動車に勤務した。 |
| 昭和10年(1935年)、貞夫は男爵に列せられ華族となったが、大邸宅などは構えず、一家で東京・幡ケ谷の2階建て小家屋に住み続けた。 |
人物像
| 青年将校たちとは友達感覚で接し、自宅に彼らを年中たむろさせ、明け方まで痛飲することも多かったことで知られていた。 |
| 少尉に任官したばかりの20歳前後の者が、真夜中に「荒木はいるか!」と大声で叫びながら遊びにやってくるようなこともあり、青年将校たちは、面と向かって大将である貞夫を呼び捨てにし、貞夫も怒るどころかニコニコしながら「若い者は元気があって良いのお」と上機嫌であったという。 |
| その為、他の将校たちから顰蹙を買うことも多く、陸軍内で問題視された「下克上」の風潮も、貞夫による一連の言動が最も大きい要因の一つだったと言われている。 |
| それまで国軍という言い方が普通であった日本陸軍を、「皇軍」と称したのは貞夫がはじめと言われる。 |
| その為、荒木のあだ名は「慢性非常時男」「精神家」(精神科とのシャレ)、あまりにも長いだらだらとしたスピーチも有名なため「牛のよだれ」などであった。 |
年譜
| 明治30年(1897年)11月-陸軍士官学校卒業(9期)。 |
| 明治31年(1898年)6月-少尉に昇進。 |
| 近衛歩兵第1連隊附。 |
| 明治33年(1900年)11月-中尉に昇進。 |
| 明治34年(1901年)3月-陸軍中央幼年学校生徒隊附。 |
| 明治37年(1904年)。 |
| 2月-近衛後備歩兵第1連隊中隊長。 |
| 明治38年(1905年)12月-近衛歩兵第1連隊附。 |
| 明治40年(1907年)11月-陸軍大学校卒業(19期恩賜)。 |
| 参謀本部出仕(ロシア駐在)。 |
| 明治41年(1908年)4月-参謀本部員。 |
| 明治42年(1909年)。 |
| 明治45年(1912年)5月-ロシア公使館付武官補佐官。 |
| 大正2年(1913年)4月-参謀本部員。 |
| 大正3年(1914年)。 |
| 3月-陸軍省副官。 |
| 6月-ロシア軍に従軍(~大正7年(1918年)4月)。 |
| 7月24日-大佐に昇進。 |
| 11月1日-ウラジオストク派遣軍参謀。 |
| 大正8年(1919年)7月25日-歩兵第23連隊長。 |
| 大正10年(1921年)4月1日-参謀本部欧米課長。 |
| 大正12年(1923年)3月17日-少将に昇進。 |
| 1月9日-憲兵司令官。 |
| 大正14年(1925年)5月1日-参謀本部第1部長。 |
| 昭和2年(1927年)7月26日-中将に昇進。 |
| 昭和3年(1928年)8月10日-陸軍大学校校長。 |
| 昭和4年(1929年)8月2日-第6師団長。 |
| 12月13日-陸軍大臣(~昭和9年(1934年)1月23日)。 |
| 昭和8年(1933年)10月20日-大将に昇進。 |
| 昭和9年(1934年)1月23日-軍事参議官。 |
| 昭和10年(1935年)12月26日-男爵を授爵する長男である荒木貞發の証言によると荒木が華族に列せられたのはロマノフ朝から預かった金塊を参謀本部に上納した事が評価されたからという |
| 昭和11年(1936年)3月10日-予備役編入。 |
| 昭和12年(1937年)10月15日-内閣参議。 |
| 昭和13年(1938年)5月26日-文部大臣(~昭和14年(1939年)8月30日)。 |
| 昭和15年(1940年)1月20日-内閣参議(~7月22日)。 |
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1897年
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陸軍士官学校卒業(第9期) |
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貞夫は錦子との間に長男の貞發を儲けた |
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