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プロフィール
- 荻昌弘とは
- 来歴・人物
- 係累
- 著書
- 企画構成
- 編集
荻昌弘(おぎまさひろ、 1925年8月25日-1988年7月2日)は映画評論家、料理研究家、オーディオ評論家。月曜ロードショーの解説者を長年務め、その落ち着いた語り口から、 淀川長治、 水野晴郎と並んで名解説者として知られた。身長165センチ、体重69キロ。
来歴・人物
| 東京府女子師範学校附属幼稚園(現・東京学芸大学附属幼稚園竹早園舎)から東京府女子師範学校附属小学校(現・東京学芸大学附属竹早小学校)に学ぶ(当時の同期に椿實がいる)。 |
| 小学校時代から映画を愛し、榎本健一やジョニー・ワイズミュラーや大河内傳次郎に夢中になっていたが、職業軍人である父からは映画鑑賞を厳禁され、古本屋で買ってきたスター名鑑を庭に叩きつけられた上「家を出てゆけ」と言われたこともある荻昌弘「わが十代」(『スクリーン』1974年3月号)。 |
| 旧制開成中学校在学中も単独で映画館に出入りすることを学校から禁じられていたため、隠れて『オーケストラの少女』『格子なき牢獄』『巴里祭』『望郷』『未完成交響楽』『舞踏会の手帖』『駅馬車』などの洋画に熱中。 |
| 1943年(昭和18年)に開成中学校を卒業。 |
| 二松學舍専門学校(現・二松學舍大学)在学中は赤羽の化学工場で動員工員として肥料作りを担当荻昌弘「あとのない初年兵」(『わが聯隊陸軍郷土歩兵聯隊の記録』ノーベル書房、1978年)。 |
| 1944年(昭和19年)夏、徴兵検査で第2乙と判定され、小石川区役所から「筋骨薄弱でお国の役に立つかっ」と怒鳴られて強制的に熱海の健民修練所という合宿に送られ、毎朝5時から夜まで1ヶ月間のしごきを受ける荻昌弘『歴史はグルメ』p.167(中公文庫、1986年)。 |
| 1945年(昭和20年)春に召集令状を受け、同年5月15日、第二乙の二等兵として博多の東公園に集合。 |
| この間、4月13日の東京大空襲で大塚の実家が焼失。 |
| 本籍地が熊本だったため九州の西部243部隊に入り、壱岐で伝令として活動しつつ『十八史略』『北越雪譜』を読む。 |
| 復員後、1946年(昭和21年)、東京帝国大学文学部国文学科に入学。 |
| 同じゼミに三浦朱門がいた。 |
| 同年夏、友人2人と京都に伊丹万作の遺族を訪ねたが、土産に持参した羊羹がかびていたことに後で気付き、肝を潰したという荻昌弘『歴史はグルメ』p.114(中公文庫、1986年)。 |
| 大学在学中から中平康や渡辺祐介たちと「東大映画文化研究会」を結成し、映画評論家志望を宣言。 |
| 当時、友人の三浦朱門や阪田寛夫は映画監督を志望して映研への入部を望んだが、荻が「ああ、いいよ。 |
| だけど、入るときは試験をするぞ」と答えたため腹を立て、映画監督志望を断念したという荻昌弘『男の縁日』p.210(大和出版、1979年)。 |
| ただし荻自身は「私は全然、そんなイジワルを言った覚えなど、ないのである」と述べている。 |
| 映画批評家としては飯島正、清水千代太、清水晶、登川直樹、双葉十三郎に師事『荻昌弘の映画批評真剣勝負』p.5ならびにp.9-10。 |
| 1951年(昭和26年)、新制東京大学卒業。 |
| 卒論は「近代日本の劇文学」『荻昌弘の映画批評真剣勝負』p.9。 |
| 大学卒業後はキネマ旬報社に入社。 |
| 『キネマ旬報』同人や『映画旬刊』(雄鶏社)編集委員を経て1956年(昭和31年)からフリーになり当人は「実質は、清水千代太氏、滋野辰彦氏、進藤光太氏、品田雄吉氏らと、出版社を追っ払われた」と記している(『荻昌弘の映画批評真剣勝負』p.235)。 |
| 、TBSテレビ『映画の窓』で映画解説を担当。 |
| 『週刊朝日』では映画評を8年間連載。 |
| 1970年(昭和45年)から1988年(昭和63年)までTBSテレビ『月曜ロードショー』の解説者を務めた。 |
| 落ち着いた雰囲気で視聴者に語りかけるスタイル、そして映画が始まる前はストーリーには極力触れず、出演者やスタッフにまつわる話に絞った解説はおしなべて好評であった。 |
| 東京都立大学で非常勤講師として映画を講義した他、食通としても知られ、「男の料理」の先駆者でもあり、その方面の著書も多い。 |
| ただし当人は食通と呼ばれることを嫌い、「『食通』とは、最もなりたくない、最も嫌悪し最も自戒するタブーの領域である」と発言していた荻昌弘『大人のままごと』p.256(文藝春秋社、1976年)。 |
| 東京大塚の自宅の他、軽井沢と京都と大分県杵築に仕事場を持ち、一時期苗字にちなみ大分県荻町(現在は竹田市と合併)に別荘を所有し、日本各地の食文化と人情を研究していた『私の書斎〈4〉』(竹井出版、1988年)。 |
| 長年日本レコード大賞の審査員を務めたが、関係者からの贈答品を受け取らないことで有名だった。 |
| なお、1973年(昭和48年)の日活ロマンポルノ裁判では映倫側証人として東京地裁で証言している。 |
| ラジオのDJやテレビの司会、旅番組のレポーターとしても活動。 |
| かつて毎年4月21日に放送されていた放送広告の日(現・民放の日)特番では、毎年司会を務めていた。 |
| そのためか、CBC開局35周年特番でも司会を務めていた。 |
| 1982年(昭和57年)5月から1987年(昭和62年)9月までTBS系列『そこが知りたい』の初代司会者を務めた。 |
| 1988年(昭和63年)春から体調を崩し入院していたが、同年7月2日午前8時56分、肝不全により順天堂病院で死去。 |
| 墓は西日暮里の本行寺にある。 |
係累
| 荻昌国(1813年-1862年)-曾祖父。 |
| 別名、荻角兵衛。 |
| 江戸時代末期の肥後熊本藩士で小国郡代を務め、横井小楠の門人として藩政改革を志したが、阿蘇郡臼内切村(うすねぎりむら)の隠れキリシタン集団処刑事件に絡んで自刃を遂げた。 |
| 別名、荻吉九郎。 |
| 侍従として明治天皇に仕えた。 |
| 荻昌道-父。 |
| 陸軍大佐で、敗戦時には熊本市の健軍飛行場長をつとめていた。 |
| ホリプロ宣伝本部に勤務。 |
| 荻昱子(いくこ)-従妹。 |
| 女優として『ブーフーウー』などに出演。 |
| 松田智雄-経済史学者、東大教授。 |
| 父のいとこにあたる。 |
| 妻は野村胡堂の娘。 |
| 耳鼻咽喉科医、慈恵医大教授。 |
著書
| 映画百年史(ビデオ出版,1968)。 |
| ステレオ(毎日新聞社,1968)。 |
| 現代芸術入門(弥生書房,1970)。 |
| 実戦的宿泊論(日本交通公社ベルブックス,1972)。 |
| 男のだいどこ文藝春秋,1972。 |
| 光文社文庫,2006.12。 |
| 大人のままごと文藝春秋,1976。 |
| 文春文庫,1979.9。 |
| 快談快食(日本交通公社出版事業局,1978.6)。 |
| 男の縁日(大和出版,1979.10)。 |
| 味で勝負(毎日新聞社,1980.3)。 |
| 味で勝負続(毎日新聞社,1981.9)。 |
| 快食快談(旺文社文庫,1982.11)。 |
| 歴史はグルメ中央公論社,1983.9。 |
| 中公文庫,1986.6。 |
| 味で勝負part3(毎日新聞社,1984.9)。 |
| 復元万葉びとのたべもの―奈良時代にさかのぼる食文化の形成(共著,みき書房,1986.4)。 |
| ほんもの食べたい(朝日新聞社,1986.6)。 |
| 荻昌弘のシネマ・ライブラリー(ネスコ,1988.12)。 |
| 荻昌弘のシネマ・レストラン(ネスコ,1989.3)。 |
| 荻昌弘の映画批評真剣勝負(近代映画社,1989.3)。 |
| 荻昌弘の試写室.日本映画編1960-1966(砂書房,1995.12)。 |
企画構成
| オーディオ百科.1(オーム社,1972)。 |
| オーディオ百科.2(オーム社,1973)。 |
| オーディオ百科.3(オーム社,1973)。 |
| オーディオ百科.4(オーム社,1973)。 |
編集
| アメリカハンドブック(共編,三省堂,1986.10)。 |
| 日本の名随筆.59菜(作品社,1987.9)。 |
| 読む事典フランス共編,三省堂,1990.9)。 |
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