| その間丹羽嘉信について漢学・画技を、浅井図南から本草学・医学を修得した。 |
| 元々は、国学と本草学を学んだというが、どこで誰について学んだのかは定かではない。 |
| -->各地をしばしば巡って紀行を執筆。 |
| 一説には、これには植田義方というスポンサーがあり、彼が書いたものを本にして出していたともいう。 |
| 1783年に30歳で故郷を出奔。 |
| 刃傷などやましい事があったのではとも推測されるが、その理由は不明。 |
| 故郷を離れてからも、郷里の知人に音信を知らせたりしているので、余程の事件があったものとは思えない。 |
| いずれにせよ、以来信州・東北から蝦夷地にいたる長い旅を重ねる。 |
| 享和元年(1801年)に再度の秋田入りをした際には白井真隅と名乗ったが、文化7年(1810年)の日記『氷魚の村君』(ひおのむらぎみ)からは菅江真澄を名乗っている。 |
| 旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。 |
| 今日で言う文化人類学者のフィールドノート(野帳)のようなものであるが、特にそれに付された彼のスケッチ画が注目に値する。 |
| 彩色が施されているものもある。 |
| 写実的で、学術的な記録としての価値も高い。 |
| 彼は、本草学を下にして、多少の漢方の心得もあったという。 |
| 著述は100種200冊ほどを数え、「菅江真澄遊覧記」と総称されている。 |
| この名前で、東洋文庫に収録され、2000年以降、平凡社ライブラリーから5巻本として刊行されている。 |
| 形態は日記、地誌、随筆、図絵集などとなっているが、内容は民俗、歴史、地理、文学、考古、宗教、科学など多岐にわたっており、特に近世後期の民衆の生活を客観的に記していることに特徴がある。 |
| 1797年9月5日、菅江真澄は弘前に来てすぐ、津軽藩主津軽寧親によって開設されたばかりの藩校稽古館によばれ、薬事係に任命された。 |
| これは、山崎永貞によって推薦されたこともあるが、真澄の本草学の知識を利用し、津軽藩の薬草の自給自足をはかるためでもあった。 |
| 真澄は藩医たちと薬草採取を行い、藩の期待に応えたが、1799年4月突如その任を解かれ、過去2年の報酬である金5百疋と南部藩を通っての帰国費用である5両が与えられた。 |
| しかし、真澄はその後2年間津軽藩内にいて、薬草収集の際やその後地元住民から見聞きした事柄をまとめた『岩木山物語』『善知鳥物語』善知鳥村は青森市の旧名『浪岡物語』を著した。 |
| しかし、これらの行為によって真澄は南部藩の間者ではないかと疑わた。 |
| 真澄が村人に必要以上に接近し、見たことを丹念に記録したことを疑われたのである。 |
| 少数の知人は弁護したが、結局身柄追放は動かず、真澄は1801年に3冊の本や津軽藩にいた時期の差し障りのある部分を没収され、津軽藩を追放されることになる。 |
| その後、没収されたこの部分の日記や3冊の本は発見されていない。 |
| 津軽を出た真澄はその後秋田で30年を過ごすことになる。 |
| 1811年、秋田藩金足の豪農奈良家奈良家住宅は秋田県立博物館に付属施設として現存していて、真澄が同家を訪問した場所を確認できる。 |
| また、秋田県立博物館には現在真澄の文書類が保管されている。 |
| を訪れた菅江真澄は、秋田藩の藩校であった明徳館の学者、那珂通博(なかみちひろ)に出会う。 |
| 那珂は領内の様子を書いた文章に自信がなく、菅江真澄に密かに添削を頼んだ。 |
| 奈良家に滞在中に菅江真澄は、藩主の佐竹義和にはじめて会い、出羽六郡の地誌を作ってほしいと頼まれる。 |
| 以降彼は、秋田藩の久保田城下に住み、藩主とも親交を持ち、秋田藩の地誌の作成に携わり、その後は藩内から外に出ることはなかった。 |
| 司馬遼太郎は、このことが菅江真澄の書いた文章が散逸することを防いだとしている。 |
| この出会いがなかったら、菅江真澄の死によって、彼の書いた文章は散逸しただろうとも言っている。 |
| 真澄の著書は真澄が生存中の文政5年1822年に明徳館に献納された。 |
| 明徳館の事業として編纂された『雪の出羽路 平鹿郡』『月の出羽路 仙北郡』も明徳館に献納された。 |
| には、辻兵吉の所有となった。 |
| さらに、秋田県立博物館に寄贈され現在に至っている。 |
| 真澄没後に書斎に残された著書は墓碑建立に協力した人に形見分けされた。 |
| 明治になって、これらは旧久保田藩士の真崎勇助によって収集され、のち栗盛教育財団に寄贈された。 |
| 現在は、大館市立中央図書館蔵となっており、には『菅江真澄著作』47点として秋田県有形文化財に指定されている。 |
| このほか、全国各地や秋田県内の図書館や博物館に所蔵されている書籍等がある。 |
| 豪農奈良家の別家の息子であった石川理紀之助も文書を収集している。 |
| また、署名は判明しているが、未発見本も数多い。 |
| 秋田県立博物館には菅江真澄資料センターがあり、複製資料や映像で真澄の足跡を紹介する常設展示室、文献やDVDソフトを備えたスタディルーム、検索閲覧室などがある。 |
| 秋田市寺内にある菅江真澄翁墓はに秋田市史跡第一号に指定されている。 |
| 真澄は仙北地方で死亡したが、遺骸を寺内に運んで埋葬したものである。 |
| 秋田に住み始めた頃から、道士のような被り物を頭に被り、それがそもそも吉田を出奔するに至った刀傷を隠すためではとも推測されたが、実際にはそのような傷はなかったといわれる。 |
| また、これは津軽藩を追い出された後の事であり、津軽藩で嫌疑をかけられたことを繰り返さないとそのような姿になったとも言われている。 |