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つながりの強いひと
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坂井三郎
大日本帝国海軍の戦闘機搭乗員(パイロット)。太平洋戦争終戦時は海軍少尉、最終階級は海軍中尉。終戦までに大小の敵機64機撃墜のスコアを残す日本のエース... |
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源田実
源田実(げんだみのる、源田實、1904年(明治37年)8月16日-1989年(平成元年)8月15日)は日本の広島県山県郡出身の大日本帝国海軍軍人、航空自衛官、政治家... |
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石川啄木
同級生
日本の歌人・詩人・評論家。本名は、石川一(いしかわはじめ)。 |
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関行男
第二次世界大戦中における日本海軍航空隊の艦上爆撃機、戦闘機パイロット。愛媛県西条市出身。最終階級は海軍大尉(死後海軍中佐に二階級特進)。海軍兵学校7... |
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平野耕太
日本の漫画家。東京都足立区出身。主にアクションかギャグ、どちらかを区切って取り扱った作品が多い。 |
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島津豊久
安土桃山時代の武将。父は島津家久、母は樺山善久の娘。妻は島津忠長の娘。幼名は豊寿丸。字は又七郎。初期の名は忠豊。官位は侍従、中務大輔。法名は天岑昌運。 |
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杉田庄一
太平洋戦争期の大日本帝国海軍の戦闘機搭乗員。新潟県東頸城郡安塚村(現上越市)出身。存命時の階級は上等飛行兵曹、最終階級は少尉。零式艦上戦闘機及び局... |
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岩本徹三
日本海軍の戦闘機搭乗員。「最強の零戦パイロット」と謳われた名操縦士である。太平洋戦争時の日米パイロットの中で唯一撃墜数200機超えを主張するエース・パ... |
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鴛淵孝
好きだったメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のレコードを私にくださって、私が女学校 にはいったときは、いかにも兄らしい優しい手紙をくれました 」 光... |
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笹井醇一
太平洋戦争期の日本海軍の戦闘機搭乗員で零戦の撃墜王。海軍少佐(死後、中尉から二階級特進)。 |
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山口多聞
大日本帝国海軍の軍人。ミッドウェー海戦において、第二航空戦隊司令官として戦死した海軍中将。太平洋戦争期の日本海軍を代表する提督として高く評価されて... |
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ドリフターズ
ザ・ドリフターズ(TheDrifters)はアメリカ合衆国のコーラス・グループ。1950年代から1960年代にかけて隆盛した黒人コーラス・グループのひとつ。 |
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福興
金の官僚。金の皇室の姓である女真完顔部の出身で、太祖第6子の梁王斡啜(宗弼・兀朮)の曾孫とされる。中国名は承暉、字は維明。女真名は福興。 |
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原広司
日本の建築家。東京大学名誉教授。大江健三郎と親交が深い。夫人の弟は北川フラム。 |
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豊田穣
日本の小説家・作家、元海軍軍人(最終階級は海軍中尉)。本名は同じ字であるが、「とよだみのる」と読む。豊田は先の大戦について「日本をあの戦争に追い込... |
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源義経
1966年1月2日~12月25日にNHKで放送された4作目の大河ドラマ。 |
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山本五十六
新潟県出身の大日本帝国海軍の軍人。26、27代連合艦隊司令長官。位階勲等は元帥海軍大将・正三位・大勲位・功一級。ソロモン戦線で米軍の攻撃によって戦死す... |
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穴吹智
大日本帝国陸軍の軍人、陸上自衛隊の自衛官。戦闘機操縦者(空中勤務者)、ヘリコプター操縦者。最終階級は帝国陸軍では陸軍曹長、陸自では2等陸佐。香川県出... |
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加藤建夫
大日本帝国陸軍の軍人、戦闘機操縦者(空中勤務者)。最終階級は陸軍少将。北海道上川郡東旭川村(現:旭川市東旭川町)出身。旭川中学(現:北海道旭川東高... |
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武藤金義
大日本帝国海軍所属のエース・パイロット。 |
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プロフィール
- 菅野直とは
- 幼少 - 中学時代
- 海軍兵学校 - 飛行学生時代
- 南方戦線
- 特攻と菅野
- 第343海軍航空隊
- 8月1日 最後の戦闘
- 伝記
- 関連項目
菅野直(かんのなおし、1921年9月23日-1945年8月1日)は、 太平洋戦争期の日本海軍の戦闘機搭乗員。宮城県角田町(現角田市)出身。海軍兵学校70期、第38期飛行学生。最終階級は中佐。零式艦上戦闘機・局地戦闘機紫電改を操り、個人・協同含め敵機撃墜破数72機。
幼少 - 中学時代
| 菅野は警察署署長だった父親と厳しい母親の元、菅野家の次男として生まれた。 |
| 菅野の姉は「直が中学1年の頃まで添い寝をしてあげていた」と語っている。 |
| しかし、旧制中学校へ進学すると、石川啄木に傾倒し、短歌を詠むことを好み、同級生と文学について論議を交わすサークルまで作るほどの文学好き少年となっていた。 |
| 当時を知る人の証言として、「当時の菅野は、勇猛果敢と伝え聞く菅野隊長と同一人物とは思えないほどの軟派当時は文学や読書が好きな者を指して軟派と称しており、現代の「ナンパ・軟派」とは意味が違う。 |
| な男であった」と口を揃える。 |
海軍兵学校 - 飛行学生時代
| 1938年12月、海軍兵学校70期として入校。 |
| 1943年2月、戦闘機専攻学生となり、大分海軍航空隊へ配属される。 |
| 教官との空中模擬戦では、模擬戦で教官機とあわや接触という状態を何度も繰り返し、また着陸禁止区域に着陸を試みたりするなどで飛行機を何機も壊し、「菅野デストロイヤー」というあだ名がつく。 |
| 菅野の破天荒ぶりは、海軍の他の基地に居る同期生にまで広まっていた。 |
南方戦線
| 1944年4月、第343海軍航空隊(初代、通称「隼」部隊)分隊長として南洋に進出する。 |
| 同年7月、同隊解隊後に第201海軍航空隊の分隊長を任ぜられる。 |
| この頃の菅野はまさに豪快な男であった。 |
| ヤップ島での防空戦闘では零戦を駆り、アメリカ陸軍爆撃機B-24の垂直尾翼に乗機の主翼を引っ掛けて吹き飛ばして撃墜したり、一度に2機のB-24を撃墜するといったこともあった。 |
| また乗機の胴体に指揮官認識マークとして黄色の帯を描いていたことから、その戦闘ぶりを見た米軍パイロット達の間では「イエローファイター」と渾名され怖れられていたという。 |
特攻と菅野
| 1944年10月、レイテ沖海戦。 |
| 海軍はこの戦いから特別攻撃を開始。 |
| この最初の特別攻撃隊の隊長として第201航空隊の分隊長としてフィリピンに配属されていた菅野を任命する動きがあったが、菅野はその直前に201空が新しく受領する零戦のテストのため、群馬県太田市の中島飛行機小泉製作所へ赴いており、このため同じくフィリピンに配属されていた、菅野と海軍兵学校の同期で第201航空隊戦闘301飛行隊分隊長関行男大尉が神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長として任命されたといわれる。 |
| そして後にこの経緯を聞いた菅野は「オレが関のところをとるんだったんだがなあ…」と寂しげに呟いたという。 |
| その後菅野は特攻機の直掩・戦果確認を務めることとなったが、落下傘を装備しての任務は、部下たちにも禁止した。 |
| 基地に帰還する時搭乗していた輸送機の操縦桿を自ら握り、墜落すれすれのスタント飛行によって敵の奇襲から逃れるということもあった。 |
| その時不時着したルバング島では救援の到着するまでの数日間、原住民に対して島の王様のように振る舞っていたという。 |
第343海軍航空隊
| フィリピンにおける戦況は日々悪化の一途をたどり、菅野もいずれは特攻するしかないほどの状況となりつつあった。 |
| そんな中、菅野に内地帰還命令が下る。 |
| 航空機至上主義を掲げた源田実が発案、自らが司令を務める二代目「第343海軍航空隊」隷下の戦闘301飛行隊「新選組」隊長への転属であった。 |
| 菅野以下、戦闘301の面々は続々と松山基地に集結、局地戦闘機「紫電」及び「紫電改」にて錬成を開始する。 |
| その後、時を同じくして出水・大村各基地にて錬成を続けていた戦闘407・701各飛行隊と合流、松山基地にて編成を完結した。 |
| ここでの菅野は「猛将」と異名されており、熱血漢ぶりを存分に発揮していた。 |
| B-29邀撃時には、前上方より背面急降下でB-29のコクピットのみに狙いを定め、搭乗員の顔が見えるほどまでに接近し、接触寸前で交わしていくという攻撃方法を編み出す。 |
8月1日 最後の戦闘
| 菅野の指揮する戦闘第301飛行隊所属の堀光雄飛曹長(戦後、三上と改姓)の戦後の回想によると、この日、隊長菅野以下紫電改20数機は九州に向けて北上中のB-24爆撃機編隊発見の報を受け、これを邀撃すべく大村基地を出撃した。 |
| 屋久島近くに達すると島の西方にB-24の一団を発見。 |
| 敵上方より急降下に入ったとき、堀の無線に「ワレ、機銃筒内爆発ス。 |
| ワレ、菅野一番」と入電する。 |
| これを聞いた堀機が菅野機を探したがどこにも見当たらず、自機の翼を傾けて下方を覗いたところ、はるか下方を水平に飛ぶ菅野機を発見、即座に近づいたところ左翼日の丸の右脇に大きな破孔を発見した。 |
| 菅野の二番機である堀は責務を果たすべく、すぐさま戦闘を中止し菅野機の護衛に回ったが、菅野は堀に対し戦闘空域に戻るよう指示。 |
| 堀はその指示を無視してなおも護衛を続けたが、ついに菅野は拳骨を振りまわして怒り出し、堀に戦闘空域に戻るように再度指示した。 |
| 堀は泣く泣くその指示に従ったが、その瞬間にそれまで怒りで鬼の形相であった菅野の表情が和らいだのを見たという。 |
| そして堀機が菅野機を離れ戦闘に戻るとやがて再び菅野からの無線が入電した。 |
| 「空戦ヤメ、全機アツマレ」菅野がいると思われる空域へ向かう途中再び入電、「ワレ、機銃筒内爆発ス。 |
| 諸君ノ協力ニ感謝ス、ワレ、菅野一番」そして菅野機は空のどこにも見当たらなかった。 |
| 燃料の続く限り捜索したがついに見つけることはできず、海軍基地はもとより、陸軍飛行場にも菅野が着陸していないか問い合わせたもののどの基地にも着陸していないとの報告であった。 |
| 結局この日の戦闘で菅野機を含む3機が未帰還となったなお菅野はこの日、どういうわけか愛機の「343-A-15」号機ではなく「343-A-01」号機での出撃であった。 |
| 彼の死因は全ての機体を均等に整備出来なかった343空の整備部隊の不備であるとも言える。 |
| 同日のアメリカ軍の戦闘記録によると、当のB-24の一団は敵機撃墜0と報告しているが、近隣空域でP-51の一団が陸軍機疾風と空戦、4機を撃墜と報告している。 |
| 日本側にこの日、疾風を装備する陸軍部隊が同空域で行動した記録がないため、343空の紫電改と疾風を米軍側が誤認したものと思われる。 |
| また、撃墜機数と未帰還機数の不一致は戦果誤認と思われる。 |
| これから推測すると、菅野は最終的にP-51に撃墜された可能性が高いと思われるが、現在に至るまで確定しておらず謎に包まれている。 |
| 菅野の行方も生死も不明のまま、終戦後1か月以上経った9月20日、源田は菅野を空戦の末の戦死として二階級特進を具申している。 |
| ここで菅野は正式に8月1日に戦死と認定され、中佐に昇進した。 |
| 菅野は第343空で18機を撃墜したといわれている。 |
| 遺品として存命中に愛用していた財布が靖国神社の遊就館に展示されている。 |
伝記
| 碇義朗『最後の撃墜王紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』。 |
| (光人社、1991年)ISBN4-7698-0588-8。 |
| (光人社NF文庫、2007年)ISBN978-4-7698-2542-5。 |
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1938年
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海軍兵学校70期として入校 |
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1944年
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第343海軍航空隊(初代、通称「隼」部隊)分... |
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