| 小中学生の頃はスイミングクラブに通い、一級下のクラスには齋藤彰俊がいた。 |
| 大東文化大学へ進学後はレスリング部で活躍。 |
| 1986年の全日本学生選手権100kg級に出場し優勝を果たした。 |
| その前年までこのクラスを連覇していたのは本田多聞であった。 |
| 1987年にジャンボ鶴田の紹介で全日本プロレスに入門。 |
| 1987年12月、後楽園ホールでの『ハル薗田選手夫妻を偲ぶメモリアル・セレモニー』でのバトルロイヤルで小橋健太とともにデビューし、1988年2月、滋賀県栗東町民体育館の百田光雄戦で本デビュー。 |
| 同日には自身より1か月遅く入門してきた小橋建太もデビューし、その後は互いに負けじと切磋琢磨していく。 |
| 1990年に三沢光晴、川田利明らが結成した''超世代軍''に加入し、ジャンボ鶴田に対抗。 |
| 鶴田にやられまくりながらも立ち上がるファイトで人気急上昇。 |
| 旭日旗をあしらったタイツをまとい、火の玉小僧の異名をとる。 |
| そのあまりに壮絶な「やられっぷり」は「やられの美学」とまで形容された。 |
| この時期、鶴田の怪物性を最も引き出したのが菊地であった。 |
| 1992年には小橋とのタッグでダグ・ファーナス・ダニー・クロファットのカンナム・エキスプレスを破り、第59代アジア・タッグ王座となった。 |
| 地元仙台市の宮城県スポーツセンターにおける戴冠だった。 |
| 折からの人気に地元の大きな声援が加わり、『前座のタイトル』扱いだったアジアタッグ戦では前代未聞の熱狂を巻き起こした。 |
| ジュニアヘビー級でのシングル戦線では長らく足踏みしたものの、4度目の挑戦となる1996年に日本武道館において渕正信を破り、遂に悲願の世界ジュニアヘビー級王座を獲得した(第16代)。 |
| この王座は2度防衛に成功(相手は浅子覚・ロブ・ヴァン・ダム)、同日には小橋も初めて三冠王者に輝いている。 |
| しかし、同時期に台頭した小川良成を苦手としたため、ジュニアヘビー級で確固たる地盤を築くことができず、王座戦線からは次第に後退。 |
| 全日本在籍時末期には悪役商会でのファイトが中心となっていた。 |
| 2000年の全日本大量選手離脱騒動では三沢らと行動を共にし、全日本プロレスを退団してプロレスリング・ノアに移籍。 |
| 旗揚げ第2戦のメインで小橋が敗れ、秋山との乱闘を救出しお笑い系から離脱、注目を集める。 |
| その後バーニングの一員として小橋と共闘する傍ら、2002年には金丸義信と組んで獣神サンダー・ライガー&田中稔を破り、第9代IWGPジュニアタッグ王座を獲得した。 |
| その後は秋山準との抗争で一時的に脚光を浴びたものの、再び前座戦線に戻っている。 |
| テレビ中継解説者でレフェリーのマイティ井上によると、菊地はヘッドバットの使用過多や、無茶をするファイトスタイルから、パンチドランカーの症状が出ているといい、体調面の不安も抱えている。 |
| 2009年には新日本プロレスベスト・オブ・ザ・スーパージュニアXVIに出場。 |
| 公式戦初戦で優勝した金本浩二に勝利したが、結果は3勝3負の勝ち点6で決勝トーナメント出場は出来なかった。 |
| 2009年12月末日付で「年間報酬保障フリー選手契約が満了」 |
| 以後は奇天烈なキャラクター性を前面に押し出すようになり、古巣の全日や様々なインディー団体で活躍。 |
| 各団体の興行で強烈なインパクトを残し、2010年日本インディー大賞のニューカマー賞を受賞した。 |
| 泉田純至、本田多聞とともにチーム「頑」(かたくな)を結成。 |