| 当時すでにアイヌ語を自在に操れる話者は少なくなっていたが、アイヌ語を完全に母語とする祖母に育てられたため、アイヌ語と日本語、2つの言語を母語として身につけた。 |
| 青年期はアイヌであることから逃避するために出稼ぎに出て、炭焼きや測量士などで生計を立てる。 |
| 1953年-研究者や収集家による民具の流出に心を痛め、アイヌの民具、民話を自ら収集記録し始める。 |
| 50年かけて集めた1121点はのちに重要有形民俗文化財の指定を受ける。 |
| 1960年-金田一京助の影響を受けアイヌ語の記録に着手。 |
| このころ知里真志保とも出会う。 |
| 1970年-あるアイヌ女性の希望により、70~80年以上絶えていたアイヌ式の結婚式を開催する。 |
| その内容は姫田忠義監督により記録映画「アイヌの結婚式」として残された。 |
| 1971年-二風谷の青年たちと、2軒のアイヌ民家を作る。 |
| その様子は、やはり姫田監督により「チセ・ア・カラ(われら・家を・つくる)」として映画化。 |
| これは日本で初めてのアイヌ語での映画であった。 |
| 1972年-収集した民具などを公開するため二風谷アイヌ資料館を設立。 |
| 1975年-『ウェペケレ集大成』で菊池寛賞を受賞。 |
| 1975年-平取町町議会議員に当選。 |
| 1977年-10年ぶりに行われたイオマンテを主催。 |
| その模様はやはり姫田監督により「イヨマンテ熊おくり」として残された。 |
| 1978年-北海道文化奨励賞受賞。 |
| 1980年-北海道大学文学部言語学科講師を務める。 |
| 1983年-「二風谷アイヌ語塾」を設立。 |
| 1987年10月-STVラジオにて「アイヌ語講座イランカラプテ」(後の「アイヌ語ラジオ講座」)を始める。 |
| 1989年-吉川英治文化賞受賞。 |
| 1992年-第16回参議院議員通常選挙に日本社会党から比例代表の名簿第11位で立候補(この時は次点で落選)。 |
| 1993年-北海道文化賞受賞。 |
| 1993年-二風谷ダム着工のため行われた用地強制収用裁決の取り消しを求めて札幌地裁に提訴。 |
| 1994年8月-繰り上げ当選でアイヌ初の国会議員となる。 |
| 1996年7月-自らのアイヌ語語彙を網羅した『萱野茂のアイヌ語辞典』を出版。 |
| 1996年9月-社会民主党の分裂に伴い社会民主党を離党、民主党結成に参画。 |
| 1997年3月-二風谷ダムが完成していたため強制収用裁決取り消し請求は棄却された。 |
| しかし「国はアイヌ文化に対し最大限の配慮をしなければいけないのに、それを怠った」とダム建設を違法とし、アイヌ民族を先住民族と認める判決を勝ち取った。 |
| 1997年5月-アイヌ文化振興法成立。 |
| 1998年7月-任期満了に伴い政界を引退。 |
| 息子の萱野志朗が同年参院選に社民党から出馬するも落選している。 |
| 1998年-『萱野茂のアイヌ神話集成』に対して毎日出版文化賞が贈られる。 |
| 2001年-アイヌ語によるミニFM局「エフエム二風谷放送」(愛称FMピパウシ)を設立。 |
| 2001年2月-総合研究大学院大学より学術博士号を授与される。 |
| 学位請求論文は「アイヌ民族における神送りの研究―沙流川流域を中心に」。 |
| 2001年秋-勲三等瑞宝章受章。 |
| 2006年5月6日午後1時38分、パーキンソン病による急性肺炎のため療養中の札幌市東区の病院で逝去、享年79。 |