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杉浦日向子
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竹久夢二
竹久夢二(たけひさゆめじ、明治17年(1884年)9月16日-昭和9年(1934年)9月1日)は日本の画家・詩人。本名は竹久茂次郎(たけひさもじろう)。 |
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プロフィール
- 葛飾北斎とは
- 概説
- 生涯年表
- 改号すること30回
- 転居すること93回
- 挿絵画家の一面
- 冨嶽三十六景
- 千絵の海
- 諸国滝廻り
- 諸国名橋奇覧
- 肉筆画帖
- 信州小布施の肉筆画
- 関連サイト
飾北斎(飾北齋、かつしかほくさい。宝暦10年9月23日?〈1760年10月31日?〉-嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)は、日本の近世にあたる江戸時代に活躍した 浮世絵師であり、とりわけ後期、文化・文政の頃(化政文化)を代表する一人。代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。
概説
| 森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。 |
| 若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出していた。 |
| しかし、北斎の絵師としての地位は「富嶽三十六景」の発表により、不動のものとなっただけでなく、風景画にも新生面を開いた。 |
| 北斎の業績は、浮世絵の中でまさに巨大な高峰であったが、達者な描写力、速筆は『北斎漫画』の中にも見ることが可能である。 |
| さらに、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表したこと、毛筆による形態描出に敏腕を奮ったことなどは、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところ大であった。 |
| 葛飾派の祖となり、後には、フィンセント・ファン・ゴッホなどの印象派画壇の芸術家を始め、工芸家『富嶽三十六景』の影響についてはよく語られるところであるが、他にも、例えばアール・ヌーヴォーを代表するガラス工芸家エミール・ガレには、『北斎漫画』十三編にある、鯉に乗った観世音菩薩の図「魚濫観世音」をモチーフとした作品がある。 |
| や音楽家にも影響を与えている。 |
| シーボルト事件では摘発されそうになったが、川原慶賀が身代わりとなり、難を逃れている。 |
| ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵も研究、試みたようである。 |
| また、油絵に対しても関心が強かったが、長いその生涯においても、遂に果たせなかった。 |
| 1999年には、アメリカ合衆国の雑誌『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一ランクインした。 |
| 門人の数は極めて多く、孫弟子も含めて200人に近いといわれる。 |
生涯年表
| 「#北斎館」も参照。 |
| 宝暦10年9月23日?(1760年10月31日?)。 |
| 武蔵国葛飾郡本所割下水(東海道武蔵国葛飾郡本所割下水(とうかいどうむさしのくにかつしかごおりほんじょわりげすい)。 |
| 江戸・本所割下水。 |
| 現・東京都墨田区の一角。 |
| 「#北斎通り」も参照にて、貧しい百姓の子として生を受ける。 |
| 姓は川村氏、幼名は時太郎(ときたろう)。 |
| のち、鉄蔵(てつぞう)と称す。 |
| 通称は中島八右衛門生地は非人小頭深川善三郎の支配下にあったため、北斎を「非人出身」とする説もある(高山秀夫『江戸から東京へ物語でつづる部落の歴史』p.157、文理閣、1977年)。 |
| 明和元年(1764年)。 |
| 幼くして、幕府御用達鏡磨師であった中島伊勢の養子となったが、のち、実子に家督を譲り、家を出る。 |
| その後、貸本屋の丁稚、木版彫刻師の従弟(とてい)となって労苦を重ね、実家へ戻る。 |
| この時、貸本の絵に関心を持ち、画道を志す。 |
| 安永7年(1778年)。 |
| 浮世絵師・勝川春章の門下となる。 |
| 狩野派や唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び、名所絵(浮世絵風景画)、役者絵を多く手がけた。 |
| また黄表紙の挿絵なども描いた。 |
| この頃用いていた号は「春朗(しゅんろう)」であるが、これは師・春章とその別号である旭朗井(きょくろうせい)から1字ずつもらい受けたものである。 |
| 安永8年(1779年)。 |
| 勝川派を破門される。 |
| 理由は、最古参の兄弟子である勝川春好との不仲とも、春章に隠れて狩野融川に出入りし、狩野派の画法を学んだからともいわれるが、真相は不明である師の春章が、北斎が非人出身であることを察知し冷遇したとする説もある(高山秀夫『江戸から東京へ物語でつづる部落の歴史』p.160、文理閣、1977年)。 |
| ただ、融川以外にも、堤等琳や中国絵画をも習得していたようである。 |
| 寛政7年(1795年)「北斎宗理」の号を用いる。 |
| 寛政10年(1798年)。 |
| 「宗理(そうり)」の号を門人琳斎宗二に譲り、自らは「北斎」「可侯(かこう)」「辰政(ときまさ)」を用いる。 |
| 享和2年(1802年)狂歌絵本『画本東都遊』刊行開始。 |
| 文化2年(1805年)「葛飾北斎」の号を用いる(正字については導入部を参照)。 |
| 文化7年(1810年)「戴斗(たいと)」の号を用いる。 |
| 文化9年(1812年) 秋頃、名古屋の牧墨僊邸に逗留、その後、関西(大坂、和州吉野、紀州、伊勢など)方面へ旅行する。 |
| 文化11年(1814年)『北斎漫画』(#)の初編を発刊。 |
| 文化14年(1817年) 春頃、名古屋に滞在。 |
| 10月5日、名古屋西掛所(西本願寺別院)境内にて120畳大の達磨半身像を描く。 |
| 年末頃、大坂、伊勢、紀州、吉野などへ旅行する。 |
| この時、春好斎北洲が大坂にて門人になったとされる。 |
| 文政3年(1820年)。 |
| 「為一(いいつ)」の号を用いる。 |
| 『富嶽三十六景』(#)の初版は文政6年(1823年)に制作が始まり、天保2年(1831年)に開版、同4年(1833年)に完結する。 |
| 天保5年(1834年)。 |
| 「画狂老人(がきょうろうじん)」「卍(まんじ)」の号を用いる。 |
| 『富嶽百景』(#)を手がける。 |
| 天保13年(1842年)。 |
| 秋、初めて、信濃国高井郡小布施の高井鴻山邸を訪ねた。 |
| この時、鴻山は、自宅に碧漪軒(へきいけん)を建てて、北斎を厚遇した。 |
| 天保15年(1844年)。 |
| 信濃国は高井郡小布施に旅し、嘉永元年(1848年)まで滞在。 |
| 『怒涛図』(右の絵はその一部)などを描く(#)。 |
| 嘉永2年4月18日(1849年5月10日)。 |
| 江戸・浅草聖天町にある遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅で没する。 |
| 辞世の句は「人魂で行く気散じや夏野原」であった(#)。 |
| 墓所は台東区元浅草の誓教寺。 |
| 法名は南牕院奇誉北斎居士。 |
| 生誕二百年記念碑がある。 |
改号すること30回
| 彼は生涯に30回と頻繁に改号していた。 |
| 使用した号は「春朗」「群馬亭」「北斎」「宗理」「可侯」「辰斎」「辰政(ときまさ)」「百琳」「画狂人」「雷斗」「戴斗」「不染居」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「九々蜃」「雷辰」「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「鏡裏庵梅年」「月痴老人」「卍」「是和斎」「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」「土持仁三郎」「魚仏」「穿山甲」などと、それらの組み合わせである。 |
| 北斎研究家の安田剛蔵は、北斎の号を主・副に分け、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」が主たる号であり、それ以外の「画狂人」などは副次的な号で、数は多いが改名には当たらないとしている安田剛蔵『画狂北斎』有光書房、1971年。 |
| 仮にこの説が正しいとしても、主な号を5度も変えているのはやはり多いと言えるだろう。 |
| 現在広く知られる「北斎」は、当初名乗っていた「北斎辰政」の略称で、これは北極星および北斗七星を神格化した日蓮宗系の北辰妙見菩薩信仰にちなんでいる飯島虚心『葛飾北斎伝』。 |
| 他に比してこの名が通用しているのは「北斎改め為一」あるいは「北斎改め戴斗」などというかたちで使われていたことによる。 |
| なお、彼の改号の多さについては、弟子に号を譲ることを収入の一手段としていたため、とする説や。 |
| 北斎の自己韜晦癖が影響しているとする説瀬木慎一「写楽と北斎の虚実」『浮世絵芸術』32号、1971年、15頁。 |
| 河野元昭『日本の美術367北斎と葛飾派』至文堂、1996年、46-48頁、ISBN978-4-784-33367-7もある。 |
転居すること93回
| ファイル:Hokusai-fuji-koryuu.png|thumb|180px|『富士越龍図』肉筆画絹本けんぽん。 |
| 書画を描くための地の素材として絹を用いているもの。 |
| 上質で光沢のあるものは「絖本(こうほん)」と言う。 |
| 幾何学的山容を見せる白い霊峰・富士の麓を巡り黒雲とともに昇天する龍に自らをなぞらえて、北斎は逝った。 |
| 北斎が転居を繰り返したのは、彼自身と、離縁して父・北斎のもとにあった出戻り娘のお栄(葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからである。 |
挿絵画家の一面
| 黄表紙や洒落本・読本など数多くの戯作の挿絵を手がけたが、作者の提示した下絵の通りに絵を描かなかったためにしばしば作者と衝突を繰り返していた。 |
| 数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは戯作者の曲亭馬琴とコンビを組んだ一時期で、その間に『新編水滸画伝』『近世怪談霜夜之星』『椿説弓張月』などの作品を発表し、馬琴とともにその名を一躍不動のものとした。 |
冨嶽三十六景
| 「神奈川沖浪裏」は、後世、それを見たゴッホが画家仲間宛ての手紙の中で賞賛する、発想を得たドビュッシーが交響詩『海』を作曲するなど、西欧の芸術家に多大な影響を与えることとなった。 |
千絵の海
| 「絹川はちふせ」「総州銚子」(右の画像参照)「宮戸川長縄」「待チ網」「総州利根川」「甲州火振」「相州浦賀」「五島鯨突」(「捕鯨文化」に画像あり)「下総登戸」「蚊針流」。 |
諸国滝廻り
| 「下野黒髪山きりふりの滝」「相州 大山ろうべんの瀧」「東都葵ケ岡の滝」「東海道坂ノ下清流くわんおんとうかいどうさかのしたきよたきかんのん。 |
| 」「美濃ノ国養老の滝」「木曽路ノ奥阿彌陀ヶ瀧」(#3)「木曾海道小野ノ瀑布」「和州吉野義経馬洗滝」。 |
諸国名橋奇覧
| 「摂州安治川口天保山」「かめゐど天神たいこばし」「足利行道山くものかけはし」「すほうの国きんたいはし周防岩国の錦帯橋。 |
| 」「山城あらし山吐月橋」「ゑちぜんふくゐの橋」「摂州天満橋」「飛越の堺つりはし」(右の画像参照)「かうつけ佐野ふなはしの古づ」「東海道岡崎矢はぎのはし東海道中岡崎の矢矧橋(現・矢作橋)。 |
肉筆画帖
| 「福寿草と扇面」(「扇子#扇面」に画像あり(右側))「鷹」(右の画像参照)「はさみと雀」「桜花と包み」「蛇と小鳥」「不如帰と虹」「鰈と撫子」(#16)「蛙とゆきのした」(#15)「鮎と紅葉」(#14)「塩鮭と鼠」(#13)。 |
信州小布施の肉筆画
| 信州小布施を生地とし造酒業を主とした豪農商にして陽明学等学問にも通じた高井鴻山(文化3年-明治16年〈1806年-1883年〉)は、江戸での遊学の折、北斎と知り合い、門下となっている。 |
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1760年
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宝暦10年9月23日?(?) |
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1813年
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北斎筆 |
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