| 遠近の者達はこれを奇とし、多くの者が往観していった。 |
| また、叔父・従弟と同居し、3世代で財産を分けず暮らしたため、郷党はその義を高いものとした。 |
| 桓帝の時代、蔡邕の鼓琴の腕前を聞いた中常侍らが桓帝に報告して召し寄せたことがあったが、蔡邕は旅程で病と称して引き返し、交際を絶って古文を研究して暮らした。 |
| 建寧3年(170年)、司徒橋玄の府に招聘された。 |
| 橋玄は蔡邕を甚だ敬待し、やがて河平県長となり、召されて郎中を拝し、議郎に昇進した。 |
| 当時、儒学の経典は成立から長い時間が経って正しい文字が失われ、俗世間には誤りの多い文章が流布していると見なされていたため、熹平4年(175年)、五官中郎将の堂谿典・光禄大夫の楊賜・諫議大夫の馬日磾・議郎の張馴・韓説・太史令の単颺らと共に、六経の文字を校訂するよう奏上した。 |
| 霊帝の詔許が下され、この作業の結果は蔡邕の自書によって洛陽太学門外に46枚、20万字に及ぶ石碑として立てられた。 |
| これは熹平石経として現在でも残石が保管されている。 |
| 熹平6年、霊帝が書画辞賦を善くする者たちを高位に就け政治を執らせることに反対し、時宜に合わせて経学に通じた文武の才を用いるように上表した。 |
| これは省みられず、光和元年(178年)、鴻都門学が置かれることになった。 |
| 同年、宦官の専横を厳しく直諌する封事を奉ったが、これが曹節に漏洩したために宦官の恨みを買い、誣告によって家属共々朔方郡へ徒刑となる。 |
| 明年大赦を受けるが、郷里で再び宦官の親族と揉めごとを起こして亡命した。 |
| 揚州への滞在は12年にも及んだ。 |
| 中平6年(189年)、霊帝が崩御すると朝廷の実権を掌握した董卓は、蔡邕の高名を聞いて招聘した。 |
| 一度は病を称して断るものの、激怒した董卓に逆らえず洛陽に入り、祭酒に任じられた。 |
| まもなく高第に推挙されて侍御史・持書御史・尚書とわずか3日『北堂書鈔』・『初学記』・『太平御覧』が引く『謝承後漢書』は3ヶ月とする。 |
| の間に累進した。 |
| 巴郡太守に転任したがすぐに留められて侍中となり、初平元年(190年)には左中郎将を拝し、献帝の長安遷都に従って高陽郷侯に封じられた。 |
| 董卓は蔡邕の才学を重んじて厚く待遇したものの、独りよがりでその進言に従うことは少なかった。 |
| 蔡邕はこれを恨めしく思い、また董卓の終わりの良くないのを予感して兗州に逃れようとも考えた。 |
| 従弟の蔡谷に相談したところ、「君の容貌は常人と異なり、道を行くたびに観る者が集まってきます。 |
| これでどうしておのれを隠し難を避けられましょうか?」と諌められて計画を中止したという。 |
| 董卓が王允によって誅殺されると、不意のことに蔡邕は慨嘆し、その顔色が変わった。 |
| それを見た王允は蔡邕を叱りつけて言い、「董卓は国の大賊である。 |
| 君は王臣となり、憤りを同じくすべきところ。 |
| それを私遇を懐かしみ大節を忘れるのか。 |
| 今天が罪を誅したのに、かえって痛ましく思うのは、共に逆賊ではあるまいな」。 |
| 即刻廷尉に収監させた。 |
| 蔡邕は謝罪し、黥首(額にいれずみを入れる)、刖足(あしきり)の刑によって死罪を代替し、漢史の編纂を続けさせて欲しいと頼んだ。 |
| 太尉の馬日磾をはじめとして士大夫の多くが王允を諌めたが、王允は答えて「昔、武帝が司馬遷を殺さなかったばかりに、誹謗の書が世に流れることになった。 |
| 幼主の左右で佞臣に筆を執らせるべきではない。 |
| 聖徳に益無く、また私がその誹謗を被る元となるだろう」『三国志』を注釈した裴松之は、この発言は王允の見識・忠誠にそぐわないものであり、ありもしない誹謗の言に違いないとする。 |
| 王允は悔いて容疑を取り下げようとしたが間に合わず、蔡邕は獄死した。 |
| 享年61『後漢書』蔡邕伝より。 |
| ただし、光和元年(178年)の詰問状に対して、蔡邕は自ら「臣年四十有六」と述べている、それに照らせば初平3年(192年)死去の蔡邕の享年は60となる。 |
| 紳士諸儒は涙を流さない者はなく、北海国の鄭玄はこの報を聞き、「漢世の事、誰と共に正せばよいのだ!」と慨嘆した。 |
| 兗州の陳留では、みな画像を描いて蔡邕を讃頌した。 |
| その文芸は、詩・賦・碑・誄・銘・贊・連珠・箴・吊・論議に及び、《独断》・《勧学》・《釈誨》・《敘楽》・《女訓》・《篆芸》といった著作が知られる。 |
| 他に祝文・章表・書記など、およそ104篇が世に伝えられたと『後漢書』蔡邕伝は記す。 |
| 蔡邕が収集した漢史の史料は、李傕の乱によって多くが失われた。 |
| 元々は東観において、盧植・馬日磾らと共に行われていたこの『漢記』の撰補は、このような戦乱と関係者の死去などのために中断されたが、建安年間に入って楊彪の手により最後の編集が行われ、『東観漢記』として知られることになった。 |
| 後漢末・魏の文化人として有名な阮瑀・王粲は彼の門下生であり、西晋の武将・政治家の羊祜は外孫にあたる。 |