| 自称「隠れ阪神タイガースファン」で、少年時代、草野球ではいつもピッチャーを務めたという。 |
| 大阪府立住吉高等学校卒業後、大阪大学法学部へ進学。 |
| 大学在学中は英会話サークルのESS部長。 |
| 3回生であった1968年(昭和43年)に、外務省専門職の採用試験に合格。 |
| 1969年(昭和44年)4月に外務省へ入省後、上司の勧めで外務省上級職(外務キャリア)を受験し合格。 |
| 1970年(昭和45年)、外務省上級職となる。 |
| 上級職としては、小嶋光昭、西田芳弘(外務省中南米局長)、小野正昭(駐墨大使)らが同期。 |
| 1971年(昭和46年)、英語研修として米国南イリノイ大学、コーネル大学に留学。 |
| 1973年(昭和48年)、コーネル大学卒。 |
| コーネル大学での2年間は最も勉強した時期であり、その成果として、英語は日本語並みのペースで読める。 |
| 1973年(昭和48年)6月、最初の在外公館勤務として在韓大使館2等書記官となる。 |
| デモ隊が大使館に乱入、大使のボディーガード役を務める。 |
| 本省を経て、1981年(昭和56年)8月、在インドネシア大使館1等書記官、1983年(昭和58年)6月在アメリカ大使館1等書記官を経験。 |
| 1986年(昭和61年)8月、経済局国際機関第2課長(OECD担当課長)として本省に戻る。 |
| 1987年(昭和62年)11月から約3年、北米局北米第2課長として日米の経済関係を担当し、日米の実務レベルの経済交渉に臨む多くの課員が月170時間超の残業をし、その手当ては規定の3分の1という環境で勤務していた。 |
| そのような条件の中、薮中課長は日米間の経済摩擦の渦中、担当課長として連日の徹夜交渉をした。 |
| その他、夕食抜きの折衝後のサプライズ、午前4時の交渉決裂、最終電車を気にするアメリカ側に対する徹夜要求など、その実像は自著に詳しく書かれている。 |
| 3年間で33回のワシントンD.C.訪問となった。 |
| 1990年(平成2年)9月、これまでの計7年近い日米経済交渉の現場を離れ、ロンドンの国際戦略研究所(IISS)の上級研究員を約1年間務める。 |
| 1991年(平成3年)から1994年(平成6年)、在ジュネーブ国際機関日本政府代表部参事官(公使参事官)を務める。 |
| 1996年(平成8年)7月、大臣官房総務課長から大臣官房総括審議官に昇進。 |
| 1997年(平成9年)8月、アジア局審議官を兼任。 |
| 1998年(平成10年)10月から在シカゴ日本国総領事館総領事。 |
| 1999年(平成11年)4月、5月の小渕恵三首相訪米時、首相のシカゴ訪問をサポートし、野球の始球式をセッティング(小渕首相がピッチャー役、サミュエル・ペラルタ・ソーサ選手がキャッチャー役)。 |
| シカゴ市内の公立小学校ララ・アカデミーでは一日校長を務めた。 |
| 2002年(平成14年)4月、シカゴ総領事を離任し、日本に帰国。 |
| 2002年(平成14年)12月、外務省アジア大洋州局長に就任。 |
| 対北朝鮮外交、対中国外交での拉致被害者の返還交渉と北朝鮮核問題における交渉担当者(六者会合第1回、第2回、第3回の日本代表)。 |
| 2005年(平成17年)1月に経済担当外務審議官。 |
| 2007年(平成19年)1月に政務(政治)担当外務審議官。 |
| 2008年(平成20年)1月17日、谷内正太郎の後任として、本命の条約局ルートを歩んできた海老原紳(内閣官房副長官補→駐インドネシア大使→駐英大使)を制して外務事務次官に就任。 |
| 2009年(平成21年)9月、自公から民社国への政権交代に伴う事務次官会議の中止につき、若干の感慨があるとコメントした。 |
| 同年10月立命館大学国際関係学部特別招聘教授に就任。 |