| 1935年11月に大阪タイガースと入団契約を結び、同年12月10日の球団結成に参加した。 |
| 翌1936年に現在の日本野球機構の源流となる日本職業野球連盟が発足し、日本のプロ野球リーグ戦が始まった。 |
| 最初の公式リーグ戦である1936年春の第一回日本職業野球リーグ戦大阪大会(甲子園大会)では、二番打者として活躍し、5月4日の東京セネタース戦では、野口明から左中間を破るランニングホームランを打った。 |
| これは日本プロ野球公式戦第一号ホームランである。 |
| この大会で藤井は全5試合に出場して、19打数10安打で打率.526を記録し、首位打者、最多安打、本塁打王となる活躍をみせた。 |
| 大阪大会以降も同年春および夏のシーズンは全試合に出場し、春は打率.351、夏は打率.385という好成績を収めた。 |
| 同年秋のシーズンには、初めて優勝チームを決めることとなり、不動の二番打者であった藤井は大阪タイガースの優勝決定戦進出に大きく貢献した。 |
| 優勝決定戦では東京巨人軍と対戦したが、沢村栄治の豪速球に押さえ込まれて優勝を逃した。 |
| このシーズン、藤井は安打、得点、塁打などでリーグ最多となっている。 |
| 1937年春のシーズンにも2シーズン連続の最多得点となる49得点をあげ、これは2シーズン制における日本記録になっている。 |
| 同年秋には、初優勝を果たしたチームでクリーンナップを打ち、打点王・中島治康に1打点差となる36打点を挙げた。 |
| さらに、春のシーズンに優勝した東京巨人軍との間で行われた年度優勝決定戦では、第一戦で本塁打を放つなど山口政信、景浦將らとともに沢村を打ち、年度優勝を飾った。 |
| この年の公式戦は全試合に出場している。 |
| 翌1938年春のシーズン優勝、同年の年度優勝にも中心選手として貢献した。 |
| このころの大阪タイガース打線は、トップバッターの松木謙治郎にはじまり、山口政信、景浦將、藤井勇のクリーンナップ、強打の捕手田中義雄らをそろえていた。 |
| 1939年に軍に召集され、1942年に除隊され一時チームに復帰したものの、1943年に再び召集された。 |
| 1945年末に戦地から帰還し、朝日軍(1946年パシフィック→1947年太陽ロビンス→1948年大陽ロビンスにそれぞれ改称)と契約したが、大阪タイガースとの2重契約の可能性があるとして、出場停止となる。 |
| しかし、出場停止中の1946年5月に公式戦に出場したため、その期間に藤井が出場した4試合を放棄試合として没収された。 |
| 1950年、新球団の大洋ホエールズに移籍し、数少ないベテラン選手として四番打者に抜擢されると、全140試合に出場し、34本塁打、122打点、177安打と自己最高の成績を残した(122打点は1999年ロバート・ローズに破られるまで半世紀の間、横浜球団記録であった)。 |
| その後も、1951年8月5日の広島カープ戦で1試合4二塁打の日本記録を樹立するなど、1958年まで選手としてチームを支えた。 |
| その間、1952年に登録名を「秀郎」に変更したが、1954年には「勇」に戻している。 |
| 1955年は兼任監督に就任したが、自身が常時出場できないことなどによる戦力不足は深刻であり、31勝99敗と最多敗戦・最低勝率のセントラル・リーグ記録を残して同年限りで辞任した。 |
| 1958年を最後に現役引退し、翌1959年から1961年まで大洋ホエールズのコーチ、1962年から1963年まで大毎オリオンズのコーチを務めた。 |
| 1968年から大洋ホエールズのファーム監督に就任。 |
| 同年イースタン・リーグ初優勝し、米田慶三郎、福嶋久らを育てた。 |
| 1969年限りで大洋ホエールズのファーム監督を辞任して、翌1970年からはコーチとして阪神タイガースに復帰し、ヘッドコーチもしくは打撃コーチとして田淵幸一をはじめとする若手打者を指導した。 |
| 1973年に病気を理由に退団し、1986年に死去した。 |
| 大阪タイガース、大陽ロビンスでの1リーグ時代は、ミート技術の高さを生かして度々左方向への巧打をみせた。 |
| 一方で、大洋ホエールズへの移籍後は、飛ぶボールが導入されたこともあり、本塁打を量産した。 |
| 途中戦争でプレーできなかった時期を除いても、実働期間は17年21シーズンにも及ぶ。 |