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つながりの強いひと
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綜芸種智院
天長5年12月15日(829年1月23日)、空海が庶民教育や各種学芸の綜合的教育を目的に、藤原三守から譲り受けた京都の左京九条の邸宅に設置した私立学校といわれ... |
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みもり
日本の漫画家、イラストレーター。別ペンネームは伊井トモ(いいトモ)、巽アキラ(たつみアキラ)など複数。2004年、『99+1(つくも)』でスクウェア・エニ... |
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嵯峨天皇
日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月8日)-弘仁14年4月16日(823年5月29日))。諱は神野(かみの)。 |
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桓武天皇
日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日)-延暦25年3月17日(806年4月9日))。 |
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藤原冬嗣
姉
平安時代の公卿・歌人。右大臣藤原内麻呂の子。正二位・左大臣。贈正一位・太政大臣。閑院大臣と号す。 |
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藤原真作
父
奈良時代の貴族。藤原南家、参議・藤原巨勢麻呂の五男。官位は従五位上・阿波守。 |
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左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」... |
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仁明天皇
平安時代初期の第54代天皇。諱は正良(まさら)。 |
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藤原武智麻呂
飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族・政治家。藤原不比等の長男で、藤原四兄弟の一人。藤原南家の祖。養老2年(718年)に式部卿。父没後の同5年(721年... |
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藤原仲麻呂
奈良時代の公卿。名は仲麿または仲丸とも記される。淳仁朝以降は改姓・改名し藤原恵美押勝(ふじわらえみのおしかつ)。藤原南家の祖である左大臣・藤原武智... |
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伊予親王
平安時代初期の皇族。桓武天皇の第三皇子(異説あり)。官位は三品・中務卿、贈一品。 |
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橘清友
妻
奈良時代後期の貴族。名は浄友とも書く。参議・橘奈良麻呂の子。嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子の父で、仁明天皇の外祖父。官位は正五位上・内舎人、贈正一位・太... |
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橘嘉智子
第52代嵯峨天皇皇后。橘奈良麻呂の孫、贈太政大臣・橘清友の娘。母は田口家主の娘で、贈正一位・田口三千媛。兄弟に右大臣・橘氏公がいる。別名・檀林皇后(... |
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最澄
平安時代の僧。日本の天台宗の開祖である。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては... |
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藤原緒嗣
藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ、宝亀5年(774年)-承和10年7月23日(843年8月22日))は平安時代の政治家。藤原式家、参議・藤原百川の長男。官位は正二位・左... |
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藤原良房
平安時代初期の公卿。藤原北家・藤原冬嗣の二男。母は藤原美都子。子に明子、養子に藤原基経。染殿、白河殿と称される。漢風諡号は忠仁公、国公は美濃公。皇... |
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藤原葛野麻呂
奈良時代から平安時代前期にかけての貴族。藤原北家、大納言・藤原小黒麻呂の長男。官位は正三位・中納言。 |
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巨勢麻呂
奈良時代の貴族。姓は朝臣。小徳・巨勢大海の孫で、京職・巨勢志丹の子。官位は従三位・中納言。経歴 文武天皇の代の慶雲2年(705年)に民部卿に任じられる(... |
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小野篁
平安時代前期の官人、学者、歌人。参議小野岑守の子。官位は従三位・参議。異名は「野相公」「野宰相」、その反骨精神から「野狂」とも。 |
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藤原不比等
飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。「興福寺縁起」、「大鏡」、「公卿補任」... |
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プロフィール
藤原三守(ふじわらのただもり/ みもり、延暦4年(785年)-承和7年7月7日(840年8月7日))は、平安時代初期の公卿。藤原南家の祖である 左大臣・ 藤原武智麻呂の曽孫。阿波守・ 藤原真作の五男。官位は従二位・右大臣、贈従一位。後山科大臣と号す。
経歴
| 平安時代初期には藤原南家は既に藤原仲麻呂の乱や伊予親王の変などの政争によりかつての勢いを失っており、代わりに桓武天皇に重用された藤原式家が政権の主流に立っていたことなどから、父・真作は従五位上・阿波守止まりであった。 |
| しかし、彼自身は嵯峨天皇に春宮時代から仕えてその側近として重用される。 |
| 大同4年(809年)嵯峨天皇の即位後まもなく従六位下から従五位下に四階級昇叙され、右近衛少将に任官。 |
| その後も急速に昇進し、弘仁2年(811年)蔵人頭、弘仁5年(814年)従四位下、弘仁7年(816年)には32歳の若さで参議に任ぜられ公卿に列す。 |
| 弘仁12年(821年)従三位・権中納言に叙任。 |
| 嵯峨天皇が譲位して淳和天皇が即位した後も、弘仁14年(823年)中納言へ昇進する。 |
| 同年11月嵯峨上皇に近侍するため中納言を辞すものの、天長5年(828年)には前中納言から直接大納言に昇進している。 |
| 天長7年(830年)嵯峨朝から引き続き修訂が進められていた『弘仁格式』を撰上。 |
| 天長10年(833年)仁明天皇即位後に従二位、承和5年(838年)には右大臣に昇進し、太政官では式家の左大臣・藤原緒嗣に次ぐ地位にまで昇った。 |
| 最終官位は右大臣従二位皇太子傅。 |
| 没後、従一位が追贈された。 |
人物
| 温和で慎み深い性格の一方、決断力もあった。 |
| 詩人を招いて親しく酒杯を交わしたり、参朝の途中で学者に会った際は必ず下馬して通り過ぎるのを待ったといい、これらのことは当時の人々に評判となった。 |
| また、天台・真言両宗の熱心な後援者であり、僧綱の強硬な反対に遭って難航していた最澄の大乗戒壇設立構想が、弘仁13年(822年)6月11日、勅許を得るに至ったのは、彼および藤原冬嗣・良峯安世・大伴国道らの尽力によるといわれる。 |
| 翌弘仁14年(823年)3月には、大伴国道とともに初代延暦寺俗別当に任ぜられた。 |
| 天長5年(828年)12月15日には、空海が彼から譲り受けた私邸に綜芸種智院を設置している。 |
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藤原三守さんについてのひとこと紹介
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